43 除夜の鐘が鳴る前に

 江里は、マンションで『行く年来る年』を観ている。

 今年は京都の知恩院からの中継だ。広大な境内にはおびただしい数の人々がひしめき合っている。京都では雪がちらついているようだ。あと5分で今年も終わる。

 今頃一井は何をしているだろうと思う。

 来年は、仕事を一段落させると言った。そうして、将来の話をしてくれると言った。

 もう少し待てば、自らの人生の方向性が定まるのだ。もし、彼との破局という最悪のシナリオになったならば、予定通りアメリカに飛ぼうと思う。これまで多くの人を傷つけてきた報いだと思って、静かに運命を受け容れるつもりだ。人生は、まだまだやり直しがきくはずだ。

 その時、心の中で、何かが音を立てた。積み重ねていた本が崩れたような音だ。

 何だろうと思う。心と体が、ふっと軽くなっている。

 女の勘がざわめく。誰かが自分のことを思ってくれている。一井だろうか?


 一井は、ソファに横になっている。もう1つのソファには夏越が寝ている。倒れた2本のワインボトルの向こうで、さっきからとんでもないいびきをかいている。

 ストーブの炎が夏越の隠れ家の内部をゆらゆらと揺らしている。

 炎を見ていると、江里のことを強烈に思い出す。今頃何をしているだろう? 彼女に無性に会いたくなる。そして、何も言わずに、彼女を心の底から抱きしめたいと思う。俺は君に申し訳ないことをしてきたのだと。

 旅は終わった。そろそろ自分の生きる道を定める時期に来ている。

 来年は、江里と一緒に年越しを迎えようと思う。


 紫倉の頭の中にも炎が燃えている。

 出家するべきなのだ。もはや自分には希望を持つことさえ許されない。残されたすべての希望は、全部使い果たしたのだ。

 でも、生きたい。

 もはや贅沢な望みなどもたない。やがては死んで仏の世界に入るのだ。ならば、今はこの世界で人生を全うしたいと思った。

「ごめんなさい、林田さん」

 口を閉じたまま叫ぶ。力一杯布団を握りしめるあまり、中の羽毛が出てくる。

「私、取り返しのつかないことをしてしまった」

 外では初詣に向かう人たちの声がする。

「でも、私は生きたいの。どうしても、生きていたいのです。本当にごめんなさい、こんなわがままを言って。残された人生、私は、一生償って生きます。あなたに懺悔し続けます」

 羽毛布団の中に深く顔を埋めたその時、耳元で声が聞こえた。

「大丈夫だよ、紫倉ちゃん。悪人こそが救われるんだから」

 祖母の声だった。

「違うわ。おばあちゃん。そんな甘えをもつ以上、私は救われない。私は身の程知らずだったの。私は人を殺したの」

 

 隣の部屋では幸二も『行く年来る年』を観ている。

 画面に映る京都知恩院で、2ヶ月前にダイニチの会長の葬儀が行われ、そこに妻も参列したことなど彼には知るよしもない。

 今まさに、僧侶たちの手によって、除夜の鐘が突かれようとしている。新しい節目を告げる鐘だ。人々は、各々おのおおの立場で、その瞬間を今か今かと待っている。

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