41 終末へのカウントダウン

 紫倉は、山口のマンションの部屋で瓶ビールの栓を抜こうとしている。だが、いつものように上手く抜くことができない。背中に林田が乗っかっているみたいだ。

「おい、どうしたんだ? そんなに恐ろしい顔をして」

 夫、田中幸二は心配のあまりそう言った。

「いえ、なんでもないのよ。ただちょっと、頭が重くってね」

 紫倉は震える手で夫のグラスにビールを注ぐ。

「なんだい、せっかくの大晦日なのに、それはいかんな。風邪でもこじらせたんじゃないのか?」

「そうかもしれないわね」

「疲れがたまってるんだよ。まさか、今日まで編み物教室の仲間と遊びに出るなんて思ってもみなかったよ」

 幸二は苦々しい顔をして、ビールに口を付ける。

「あんまり無理をしないでくれよ」

 紫倉には幸二の声が全く聞こえていない。

「それにしても、年を取ると、こうも1年が経つのが早いもんかね。今年もあっという間だったなあ。プノンペンから帰ってきてからは、特に早く感じるよ」

 幸二は立ち上がって、テレビのリモコンを手に取り、チャンネルを紅白歌合戦に変える。椅子に座る動作はいまだにおぼつかない。2年前にテロリストの銃弾を受けた後遺症がいまだに残っている。

「プノンペンにいた頃は、俺にだって野望があったんだけどな。こんな身体になっちまってからは、心身共に、衰えを感じる一方だよ」

 紫倉は何も言わずにオードブルのサラダを食べる。口を動かすたびに、激しい頭痛が走る。

「ごめんなさい、私、先に休んでも良いかしら?」

「ああ、その方が良いんじゃないか。元日早々に寝込むようなことがあったら、何となく縁起が悪いからな」

 テーブルの上をさっと簡単に片付けて寝室に入ろうとすると、幸二の声が聞こえる。

「おやすみ。今年も1年、お疲れさん。良いお年を」

 紫倉は一瞬ヒヤッとして背筋を伸ばし、それから、良いお年を、と言ってダイニングを出た。


 ベッドに横たわってすぐ、スコールのように涙が流れ出した。改めて林田の自殺をインターネットで探すが、どこにも見つからない。世の中からは全く見向きもされない死なのだ。

 スマートフォンを置き、両手で顔を塞ぐ。これこそが、悪人に対するばちなのだと、底知れぬ絶望感に全身を揺さぶられる。

 枕元のスマートフォンの中には林田からのメールが何通も保存してある。彼の心の叫びが電磁波となって胸の奥に飛び込んでくるようだ。


 あの時、彼は、プノンペンの病院に真っ青な顔をして駆けつけてくれた。

「今、ニュースを見て知ったんです。御主人の名前が出ていたんで」

「どうして私の主人だと分かったんですか?」

「領事館で確認したんですよ」

「なぜ私がここにいると?」

「知ってますよ。それより、大丈夫でしたか、御主人?」

 彼はそう言い、抱きしめてくれた。分厚い胸板と、太い腕。肉親のようなぬくもりを感じた。


 夫が一命をとりとめた後も、わざわざ会いに来てくれた。

「僕も単身赴任で寂しいんで、ちょうど良いんですよ。ホーチミンからプノンペンまで、飛行機を使えば1時間もかかりませんから」

「そんな、飛行機だなんて」

「いえいえ、格安航空券を使えばタダみたいなものです。それに、仕事で月に2回は来ますし。御主人の付き添いだけでも大変でしょう。話なら、いくらでも聞きますよ」

 永遠の青年のような彼の顔がおぼろ月のように浮かび上がる。

「これも何かの縁かもしれません。京都本社で一緒に働いた者同士、仲良くしていきましょう」


 この山口にも足を運んでくれた。

 わかば銀行の支店長となった幸二が出張で不在の時には、市内のホテルで夜を明かした。

「日本国内なんて、狭いもんですよ。紫倉さんがいるところなら、どこでも飛んで来ますよ」

 林田は自分が言ったことは必ず実行する人だった。

 そこが、ものすごく格好良かった。

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