6 物理的距離と心理的距離

 紫倉とは、それまで2度ほど昼食で同席ことがあった。

 会長や上役たちの陰に隠れるようにして食事を取る姿は、ひっそりと咲く可憐な山野草さんやそうの花びらを連想させた。彼女が自分より年上だとは知っていたが、まるで健気な後輩のようにも映った。

 食事の間、彼女は決して一井の方を向かなかった。それが故意なのか、それとも見向きもされていないのかと詮索するうちに、紫倉の存在が気になるようになっていた。

 それからというもの、会長室に足を運ぶたびに、紫倉に話しかけるようになった。

彼女は一井を見るやいなや、ポップアップ・トースターで焼かれた食パンのように跳ね上がって、恐縮した。そのうち自然な応対になるだろうと静観していたが、いつまでたっても恐縮し続けた。

 そこで話す内容ときたら、冗談じみた他愛のないものばかりだった。それでも紫倉は決まってしどろもどろになった。素敵な服を着て常にきちっとしているのに、その格好とはギャップのある動作が心のど真ん中をじわじわと温めた。


 会長が主催する暑気払いの当日、一井は、会場に入る前に石山寺いしやまでらに立ち寄ることにした。

 というのも、ちょうどその時首筋を痛めていて、気軽に入られる温泉を探したところ、石山寺のすぐそばに見つかったのだ。

 客は一井1人だけで、琵琶湖へと流れ込む瀬田せた川を眺めながらのんびりと湯船に浸かった後、せっかくだからと、石山寺まで足を延ばすことにした。

 真言宗の古刹はいかにも威厳があって、透明で澄み切った空気に湯上がりの汗ばんだ身体をさらしながら、手入れの行き届いた境内を進んでいると、本堂の前に1人の女性の後ろ姿を見た。紛れもなく紫倉だった。

「ひょっとして、あなたも会長の別荘に行く前にここへ来たのですか?」

 歩み寄って声をかけると、彼女はひどく狼狽した様子で一井を見上げた。

「そんなに驚かなくて良いですよ」


 本堂に参詣した後で、一緒に敷地内を巡ることにした。背後からの日の光を受けて、足下には2人の影が映っていた。なんだか、映画のワンシーンようだと思った。

 小高い山を切り拓いて作られた境内は思いの外奥が深く、所々岩がむき出しになっていて、真言宗らしく険しい雰囲気だった。

 一井も紫倉も、ゆっくり風景を愛でるゆとりなどなく、花を見ては「きれいですね」と言ったり、紫式部に関する建物や銅像を見て「ここは『源氏物語』が書かれた場所みたいですね」などと、安直なコメントをするのが精一杯だった。

 一井は、いつも身を隠すようにしているこの女性が、すぐそばにいることに興奮していた。物理的な距離は、心理的な距離に直結するのだという仮説が実証された思いだった。


 ひととおり境内を巡った後で紫倉は深々と頭を下げ、山門の外にある駐車場に停めてあった軽自動車に乗って、先に会長の別荘へと向かった。まるで、釣り上げられて川にリリースされた小魚のような動きだった。

 紫倉を見送りながら、この石山寺での邂逅かいこうに、目に見えない何らかの力が働いているような気がした。

 自分の第6感は、えらく頼りになるのだ。


 しばしば自分は、世間から、祖父や父の後見の力で今のポジションにいるのだという見方をされる。だが、自分としては必ずしもそうは思っていない。

 これまでの人生を振り返ったとき、自らの第6感を頼りに様々な判断をし、それが功を奏して、大切な人と出会い、リスクを回避し、チャンスを手にしてきたという実感をもっている。つまり、運良くここまできたということになる。

 とすると、今日も何者かによってこの石山寺まで運ばれてきたのではなかろうかとつい思ってしまう。

 BMWのドアに手をかけ、改めて境内を振り仰ぐと、さっきまで完全に透明だった空気が、若干、湿り気を含んできたように感じられた。

 琵琶湖から吹く風が、何かを耳元にささやきかけてくるようだった。

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