5 アイスピックで刺された恋心

 紫倉を想うようになってからというもの、会長室に行く時は必ず息が苦しくなる。

 たいていの場合、紫倉は受付のカウンターに座っている。この京都本社に勤務するようになった最初の頃は、彼女の姿など視界にすら入ってこなかったのに。

 今年で御年おんとし80歳になる会長、守田重雄もりたしげおは、名誉職であるにもかかわらず、ほぼ毎日出社し、出張もこなしている。創業者としての誇りを常に忘れず、「人として正しいことをする」という経営理念を掲げ続け、今なお精力的に仕事をしている。しかも報酬を受け取っていない。

 父で現職の大臣である一井康弘いちいやすひろは、古くからこの会長と親交が深く、それゆえ会長は一井にフレンドリーに接してくれる。というか、会長は誰に対してもフレンドリーなところがある。日本の産業界をリードする人物がこんなにも接しやすいことは、一井にとってはいろいろな意味において心強い。

「本物の成功者とは人なつっこいものだ」とは、これまで国内外の数々の要人と会ってきた一井の経験則でもある。


 7階でエレベーターを降りて、廊下の一番奥に会長室はある。入口に入るとすぐ受付があり、会長の部屋はそのさらに奥に設けられている。カウンターに目を遣ると、まず紫倉の黒い髪の毛が視界に飛び込んでくる。肩までの長さの髪を、今日は後ろに束ねて薄紅色のシュシュでくくっている。じつに清楚だ。

 一井の来訪に気づいた彼女はすっと立ち上がり、いかにも儀礼的な会釈をする。一井はますます息がしづらくなる。


 たぶん、紫倉は際だって美しいというわけでもないのだ。女性として魅力的であることに違いはないが、美しさという点では、これまで愛してきた女性の方が上回っていると言わざるを得ない。だが、一井の目には、紫倉は特別な輝きをもって映る。これまでのどの女性よりも胸をときめかせるのだ。

 好きになるというのは、そういうことなのかと思う。

 紫倉は、立ったまま静かに会長室の方を向いて、一井に通過を促す。一般的な来客には用件を聞いて関所の役割を果たすが、一井の場合はフリーパスだ。

「おはよう」

 声をかけると、彼女は一井の胸元に視線を逸らしながら、もう1度、機械的に頭を下げる。

 一井は部下を2人連れているし、紫倉の後ろには秘書がもう1人座っている。それゆえ、こんな所で話をする時間も話題もごく限られている。だがその短い時間の間に、彼女が自分を拒んでいることだけは十分すぎるほど伝わってくる。そのことが、一井の心を、アイスピックで刺された氷のように細かく砕く。

 以前の紫倉なら自然な笑顔で応対してくれたのに。もう、あの頃に戻ることはできないのだろうか?

 石綿のような心を抱えながら、なすすべなく彼女の前を通過する。


 今からちょうど1ヶ月前、琵琶湖畔にある会長の別荘で催された暑気払いの日は、湿気をたっぷりと含んだ日差しが悩ましいくらいに降り注いでいて、それは、そのまま美しい夕陽へと変わっていった。

 あの日の情景を想う時、一井の胸には輝くばかりの喜びと、影のように黒い後悔が交互にこみ上げてくる。

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