第49話 大坂城

 さて、大津城にいた勇将立花宗茂は、関ヶ原の敗戦を聞くや、とりあえず京都に向かった。木下家定とともに、大阪に行くつもりであったが、家定は宗茂が攻めてきたと勘違いし、戦支度をして、入洛を拒絶した。宗茂は(何を狼狽しておるか)と思いつつ、大阪に向かった。そして、輝元、長盛に対して、

「大津を引き払い、ただいま帰陣してござる。御籠城なさるるにおいては、一方の持ち口承りたく存ずる。ご返答を待ち入城いたし足し」


 ところが、輝元らは、もう家康に降参すべく狼狽している最中であり、籠城して云々など思いもよらないことだった。南宮山より大阪に帰っていた毛利秀元も籠城すべしと意見していたが、もはや聞く耳は持たない程であった。


 宗茂は結局、逃げてきた島津とともに、船にて九州へ向かった。島津義弘は共に薩摩に下って一戦に及ぶべしと勧めたが、宗茂は、

「某が惟新殿を頼って薩摩まで逃げたなどと人々の口の端に上るのは口惜しかるかな、御免つかまつる」

 と答えて応ずることなく、義弘と別れ、豊後の府内に上陸して、10月9日柳川へ帰りついた。


 23日には輝元からの誓書が家康のもとに届けられ、二心のないこと、西の丸から退去することが記されていた。これでやっと、家康の戦いは終焉を迎えようとしていた。

「長政、正則の両名、よう尽してくれた」

 さっそく、家康は黒田長政、福島正則、池田輝政、浅野幸長、藤堂高虎の五名に大坂西の丸の接収を命じ、すぐさま長政らは大坂西の丸へと向かい、24日には、輝元は西の丸を退去して、福島正則に明け渡した。接収の報告を受けた家康は、26日に大津を出て、淀城に向かい、その日は淀城に泊まった。同時に、捉えられた三人も大津から大坂へと移された。


 27日、淀城から大坂城に入った家康は、まず本丸へ行って秀頼と会見した後に、西の丸へ入った。家康が会津征伐へ向かうため、西の丸を出たのが6月16日であったので、およそ百日ぶりの西の丸であったが、その立場は、大きく変わっていた。


 10月朔日、家康は正家の自刃の報せを受けて、三人の処刑を決した。三人は大坂・堺・京都と町中を引き廻しにされた上で、六条河原の処刑場で斬罪に処せられ、三条橋に曝された。この時には長束の首も同時に曝された。


 この折、三成としての諦めない武将としての心意気が語られている。

 市中を引き回されてのこと、長い道中につき、途中で喉の渇きを訴え休憩しようとした時のことである。

「喉がかわいた。湯などあれば所望したい」

「湯を所望と。そのようなものは持ち合わせておらぬ」

と、警護の侍は、干し柿を持っていたことに気がついた。

「これならあるぞ」

侍は、三成にその干し柿を差し出した。

「ほう、干し柿か。干し柿は体に悪いゆえ、遠慮いたす」

と三成は、この期に及んでも体のことを考えて干し柿をこばんだ。

「体に悪い、か。死を迎えるのに何と贅沢なことをいうものよ」

と、警護の侍たちは三成の態度に嘲笑した。しかし、それを聞いた目付役は、大将たるもの最後まで命を無駄にしない覚悟を感じとっていた。


 これで、家康に対する抗議とも言える戦いは、決着を見た。もはや徳川に対抗できる大名はいなくなっていた。また、戦後の恩賞と処分でそれが決定的なものとなった。


 諸将の勲功は、徳川家の井伊、本多、榊原、大久保らによって調査査定され、10月15日に公表され、同時に石田方の減封、改易も公表された。三成に与した処分は過酷であった。毛利輝元さえも、当初は所領没収であったが、広家の訴えにより、なんとか存続することを許された。


 西軍の大名で改易された者は八十八人に及び、その所領高は四百十六万石であった。また、減封処分五人、その所領高は二百十六万石に及んだ。家康はそれを、東軍の武将に分け与えると同時に、徳川家の直轄領を増やし、二百五十万石から四百万石にして、財政と地位の安定を築くことをやりとげた。この大規模な改易・移封は、その後の徳川幕府での大名配置の原型ともなった。外様は遠方に配置するという縮図をつくりあげたのである。

 もう一人最後まで残った上杉景勝に対する処罰は、翌年の8月となり、会津120万石から米沢30万石へと減封移封となった。

                                 (完)


 この小説を書くにあたり、下記の文献・雑誌・論文を参考にさせていただきました。


参考文献 

  大野信長著 「戦国武将100 家紋・旗・馬印FILE」

             2009年11月発行  学研パブリッシング


  歴史読本 臨時増刊 「特集 謀略!関ヶ原から大坂の陣へ」

             昭和60年12月増刊号 新人物往来社


  歴史と旅 「特集 家康天下取りの関ヶ原」

             昭和58年5月号    秋田書店


  「日本城郭大系」 第3巻、第9巻、第12巻

             1980年      新人物往来社


  歴史人  「なぜ石田三成は豊臣家に殉じたのか?」

             2016年9月号   KKベストセラーズ


  歴史人  「真説 大関ヶ原」  

             2015年9月号   KKベストセラーズ


  歴史スペシャル  「関ヶ原 決戦の真相」

             2010年10月号  世界文化社


  歴史群像  河合秀郎 「毛利家の関ヶ原合戦」

            2014年10月号内  学研パブリッシング


  徳富猪一郎著  「近世日本国民史 家康時代 上巻」

            昭和10年8月     民友社


  尾池義雄著   「石田三成を中心に」

            昭和2年11月     春秋社


  石川県編    「石川県史 第2編」    昭和3年3月

  

  ジアン・クラッセ著 「日本西教史 下巻」

            1914年7月     時事彙存社

  

  寺石正路著   「長宗我部盛親」 

            大正14年3月     土佐史談会

  

  岡山市編    「岡山市史 第2」     昭和11年10月

   

  国史叢書    「関原軍記大成 1〜4) 

            大正5年        国史研究会

  

  笠谷和比古著  「豊臣七将の石田三成襲撃事件」 2010年10月

           日本研究 国際日本文化研究センター紀要 第22号内

  

  白峰 旬著   「フィクションとしての小山評定」

            2012年 別府大学大学院紀要No.14内

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義に逆らうことなかれ 石田三成の戦いー関ヶ原ー 木村長門 @rei-nagato

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