第43話 裏切り

 松尾山に布陣している小早川秀秋の陣中は、狼煙をあがったのを見届けており、そろそろ戦の渦中に突入するであろう、そして、徳川勢を殲滅するのだと、皆は思って心を引き締めたが、いっこうに戦闘開始の合図がない。


「殿、石田殿よりの約束の狼煙の合図でござる。ご采配を」

「うん」


 しかし、秀秋の軍扇は動かない。家康からのお味方され勝利を得れば、上方二カ国が与えられる。三成に従えば、関白の座につけるという。しかし、三成には煮え湯を飲まされた経験があり、いま一つ信用できないところがある。この戦いに勝利しても、果たして約束どおり関白になれるかどうか、疑わねばならない。それに、比べれば、上方で五十万石の大名となれば、その方が確実であり、将来秀頼様が政権をとっても、一族として後見して政権の一部を握ることができるかもしれないのだ。秀秋は迷った。家老の平岡石見は、当然家康に誼を通じていたから、家康への内通を進言していた第一人者だった。


「石見、わしはどうしたらよい」

「何も迷うことはござりません。此度の戦は、秀頼公の戦ではございませぬ。三成めによる謀により生じたもの。いわば私闘に載せられたも同然でござれば、秀頼公に何ら後ろめいたことはござらぬ。むしろ奸族三成を成敗した方が、豊臣のためと存じます。家康公も秀頼公の将来を案じております」

「しかし」


 秀秋の心情は今ひとつパッとしない。モヤモヤとしたものがある。できうれば、このまま、日和見で終りたい。


「物見の報告では、今まさに戦の勝敗はどちらともわからぬとの事。むしろ、徳川方が押されておる様子でござる。日和見に徹すれば、どちらからも攻めを受けましょう。殿のご安泰を願えば、家康にお味方くだされ」


 しばらくは、秀秋は思案にくれた。陣中には徳川からの目付役で奥平藤兵衛が来ていた。奥平もなかなか采配を振るわない、秀秋にしびれを切らしていた。


「小早川殿、ご決断されよ。三成めを討ち果たされよ。それが、豊臣の為にござる」

 それでもなお、秀秋は決断できないでいた。


 遙か遠くから、戦況を見守る家康も苛立ちを露わにし始めていた。

「小早川の動きはどうじゃ」

家康は近習に聞いた。

「はっ、今物見をさせております。しばらくお待ちを」


 しばらくすると、久保島弥兵衛なる者が息を切らせながら戻ってきて報告した。

「秀秋、裏切りの模様未だ見えず」

「大殿、いかがとりはからいましょうや」


 この間の模様は「黒田家譜」に詳しい。


「家康公の家臣久保島孫兵衛、旗本に馳せ参り、秀秋未だに裏切りすべき旗色見え申さずと云ければ、家康公是を聞き給い、秀秋裏切りせざる時は、秀元、広家も、違背有べきかと彼是心を苦め給う、家康公は弱冠に頃より、味方危き時は、指を噛ませ給う癖ありしが、此の時も頻りに指を噛み給い、伜めに計られて、口惜しい口惜しいと云はれけるが、暫あって然らば、汝秀秋が陣に向い、誘い鉄砲を打たせて、物色を見よとありければ、久保島直ちに先手に馳せ帰り、本陣よりの令を伝へければ、家康公鉄砲頭布施孫兵衛、政則の鉄砲頭堀田勘右衛門両人の鉄砲十数ずつ松尾山へ向いてつるべたり、此の時、長政家人大久保猪之助は、兼てより秀秋の陣に居たりしが、平岡頼勝が側に近付、草摺をむずと取りて云けるは、戦既に始まりて、勝負又取々たるに裏切りの下知なきは不審也、若し甲斐守を欺き給うに於ては、弓矢八幡刺違い申さんとて、腰指の柄に手を掛くる、頼勝更に驚かず、先手を進むる汐合しおあいは、我等に任せ置くべしとて、ここかしこの戦いを、目放しもせず、守り居たり、此折節、五の字の旗物指したる武者一騎、長政が陣所に馳近づき、甲州甲州筑前裏切りに相違ないかと、高声に云って馳近づく、是は家康公の使者山上郷右衛門也、長政聞も敢へず、中納言が裏切に相違あるなしは、我等も其方と同様に知るべき様なし、彼たとい人質を捨て、我を欺き、宇喜多、石田が方人かとうどして、内府を楯に突きたり共、何程の事が有るべき、差し向いたる石田が旗本を即時に切崩し、其後秀秋、秀家を打ち果たさんに、手間は取るべからず、今に至りて、我等が分別は、槍先にありと荒げなく答しに、山上兎角を云はず馳せ帰り、返答の趣きをありのままに云いければ、家康公甲斐は常にその気分ありなりとて、思の外に悦喜あり、長政は山上が帰りて後、独言、内府の仰と云はば、馬より下りて返答申す品もあるべきを、己が心得の様に云い成し、其上軍中の云へど、礼儀は勿論の事なるに、馬上より甲州甲州と呼び掛けたるは、身の分限を知らぬ無礼なりと、甚不興したりしとかや」


 家康は、三成の狼煙の合図にも呼応した様子もないので、てっきりわが東軍に寝返り、松尾山からいっきに背後より攻めたてるものと思っていたが、全く動く気配がなかった。


(日和見をして待つきか、勝敗が分別してから動くは卑怯というもの。小倅にたばかられたか)

「鉄砲頭を呼べ」

 すぐに布施孫兵衛が馳せ参じた。


「すぐに鉄砲隊を松尾山の小早川の陣中に近づけ、鉄砲を撃ち放て」

「小早川の陣中に?」

 孫兵衛は何故と疑問に思った。下手をすれば、一気に小早川の軍勢が東軍に攻めかかってくるかもしれないのだ。

「構わぬ。ためらうでない。つるべ撃ちにいたせ」

「はっ」


 源兵衛は、鉄砲隊を率いて松尾山の山麓に向けて出立した。そして、小早川の旗印がよく見えるところまで来ると、陣中目がけて鉄砲を放った。

「放てっ」

ダ、ダーン!

 鉄砲の音が山々にこだまして反響する。


 あまりにも近くに聞こえた鉄砲音に秀秋の本陣はざわめいた。

「何事ぞ、敵が攻めてまいったか?」

「申し上げます。徳川方の鉄砲隊が山麓よりわが陣に向け、発砲しております」

「何と、家康の指図か?」

「殿、一刻の猶予もなりませぬ。はよう決断を」

「うーん」

 家康が軍監として派遣していた平岡頼勝は焦っていた。


「裏切りの頃合いは今でござる!」

 秀秋は、拳を握り締めてかすかに震えていた。そして、立ち上がった。


「石見、目指す相手は大谷刑部の陣なるぞ」

「はっ。よう覚悟なされ申した」

「出陣の合図を」


 しかし、一部の隊将はこの裏切りに納得しない者もいた。先鋒隊の一将松野主馬である。西軍に向けて突入せよとの下知を聞いて松野は驚いて、使者に言った。


「下知に及んで馳せ下り、差し向かいたる敵をかりたて功をおさめんものと喜び勇みたつ思いでいたにも拘らず、思いがけなき仰せである。今の様相になって裏切りするというは秀頼公に対し不忠ではござらぬか。先鋒の各諸将、裏切りの合戦いたすとも、我らは本意を失わず徳川勢と刃を交わし潔く討ち死にする覚悟でござる」

「何を言うか主馬。申さるるところさることながら、かねてよりのご内通でござれば、今さら従わぬこと、それこそ殿に対して不忠不義ではござらぬか」

「それも一理あろうが、それが武士の本懐か」

 松野は進退に窮した。徳川と戦うことも西軍と戦うことも、理がなく思え、配下の者を率いて山をおり、傍観者として合戦を見送っていた。

 小早川勢は一斉に山を下り、西軍陣地に突入していった。

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