第19話 海賊? 侍? 謎の傭兵隊長、山田長政

山田長政は1590年に静岡県で生まれました。

仕事はカゴや輿(こし)を担ぐこと。

さほど高い身分の人物ではなかったようです。


ところが30年たった1620年ころには、なぜかジャカルタ周辺の海域でオランダの船を襲う私掠戦の仕事をしていました。


長政は、タイのアユタヤ朝の王ソンタムに仕え、チャオプラヤー河のほとりに日本人街を作り、そこの指導者となります。


その街は「バン・ユプン」(The Ban Yipun)と呼ばれ、たくさんの日本人に加えてマレー人やシャム人が暮らしていました。

その数は1,000人程になりました。


アユタヤ王朝の下、日本人傭兵団は、その熟練した軍事技術から大変に重宝されました。

タイの王様は彼らを「日本人志願兵部門」、別名『クロム・アサ・ユピン』として組織しました。そしてタイの法律『三印法典』にも日本人傭兵部隊の地位が明記されました。


長政はタイの国王によって貴族の階級に引き上げられました。

貴族としては最下位の「クフン」から上位の「オクヤ」まで出世しました。

そのため、タイ人の間で、長政は「オクヤ・セナフィームック」と呼ばれました。



『クフン』と『オクヤ』はアユタヤ王朝のバンダーサックという官僚制度の基づく官職名です。

これは日本の官職の仕組みと同じくらい複雑なので私には正確に訳せません。

『セナフィームック』はおそらく、タイの官職名が長政を指す言葉として使われた言葉でしょう。

日本で言えば、織田信長を「上総介」とか「前右大臣」と呼ぶようなものです。



そして、アユタヤ王朝の知事に指名され、ナコーンシーンタマラート州(タイ南部)に300人の侍を引き連れて赴任します。


その後、朱印船貿易を行うためにタイと日本を行き来したり、マラッカからタイまで米を運ぶ際にオランダの海上封鎖に引っかかって逮捕されたり、アユタヤ王朝の後継者争いに首を突っ込んだりしました。


長政を引きたてたソンタム王の死後、そのいとこのプラーサートトーンが王位につきました。

彼は王室の権力強化のため、貿易を王室の独占としました。

その後、長政は謎の死を遂げ、日本人街は「謀反の恐れあり」という理由で焼き討ちを受けました。


長政は一説によると、足を怪我した際にできた傷口に、毒入りの軟膏を塗られたのではないかと言われています。



長政は不明な部分も多く、タイの王女と結婚したとか、初めてオーストラリアに渡ったのではないか、とか莫大な財宝をどこかに埋めているのではないか、などなど、言い伝えと伝説に包まれており、正確な実態がつかめない人物です。



それでは、長政の日本人街に集まった人々はどんな人生を送ってきた人々なのでしょうか。


彼らは、貿易商人のほかに、関ケ原の合戦の敗北者側、大坂夏の陣で敗れて落ち延びた人々、他宗教からのキリスト教徒への改宗者など、日本に居場所のない人々です。


そのような人間を集め、自分が出世するごとに自分に付いて来てくれる人々の生活も改善していった山田長政は、きっと人間的な魅力にあふれていた人物だったのでしょう。

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