第2話 二日目 島根

 翌朝。夜行バスを降りてから休憩無しに歩き回っていたことから寝坊するかと心配していたが、ちゃんと起きることができた。これまで寝坊でやらかした事案は数多くあるので、ことさらに心配であった。私の寝坊は、目覚ましで起きた後に二度寝して、というのが基本である。如何に二度寝をしないかが鍵であり、すぐに着替えるだとか出る準備を整えるだとか、対策を取ってきた。

 駅に向かう。五時前に着いたが、流石に早すぎた。三江線の始発は5時38分発である。留置線には芸備線用の気動車が何本も停められており、始業前の点検が行われている。

 三江線江津行は、芸備線の広島行と備後落合行の始発がそれぞれ発車していった後に入線してきた。JR化後に作られた小型の気動車である。ボックスシートが四つしかなく、良い場所を取れるか心配であったが杞憂だった。乗客は自分含めて五人である。

 列車は三次を定刻通り発車した。これを逃すと次は十時までない。ローカル線の寝坊は恐ろしい。芸備線から分岐すると盛土の上を走り、江の川の支流を渡る。市街地を見下ろしながらしばらく行くと一駅目の尾関山で、その先には駅名の元となった山を貫くトンネルがある。

 市街地を抜け、江の川に沿って西へ走る。江の川が蛇行しているせいで日本海に向かうのに西や、時には南にさえ行くことがある。距離も、直線なら60キロ程度の所を108キロかけて行かねばならない。そのような状態なため、1975年に全通した時点で陰陽連絡線としての役割は乏しかったと言われる。更に現状、保線の関係からかあまり速度は出ていない。ローカル線らしいと言えばそうなのだが、鉄道としての役割を果たしているとは言えない気もする。

 故に以前から三江線は廃線の話が出ては消えを繰り返していたのだが、2016年ついに廃止が決定した。一年半の猶予を以て2018年3月に廃線とのことである。廃線になる前に三江線に乗りたいというのが今回の旅の最大の動機であった。昨日乗った可部線と、コインの裏表を見ている気がする。

 車窓から江の川の谷を見ていると、宗谷本線から見える天塩川の谷を思い出す。河原が無く、谷一杯一杯にまで川幅が広がっているのが似ていると思う。そんな景色を一時間ほど、口羽に着いた。ここまで28.4キロである。

 口羽では三次行との交換の後、約三十分の停車時間がある。口羽は三江線が全通する前、南北に分かれていた頃の三江南線の終着駅であった。ホームに降りると朝日を浴びた木々が美しい。その中に口開くトンネルにレールが吸い込まれている。しかし、それ以外には殆ど無い駅である。

 7時03分、口羽発車。ここから1975年に開業した区間である。日本鉄道建設公団の手で「踏切事故を無くすには踏切を無くせば良い」という思想の元、高い規格で建設されている。山と谷をトンネルと橋梁で貫き、枕木はコンクリート製。これまでとは打って変わって一気に速度が上がった。

 二駅目の宇津井は一部の方面で有名な駅である。前述の通り、トンネルと橋梁をふんだんに使った敷設がなされた結果、宇津井は無人駅にも関わらず橋の上にホームがあるのだ。登る手段は116段の階段だけ。エスカレーターやエレベーターは無い。そんな駅で降りようという人が二人降り、一人乗って来た。口羽で交換した三次行で来たのだろうか。

 この辺りは県境と線路が絡み合っている。島根県に入ると心なしか家並みの瓦が赤くなってきた気がする。この辺りも石州瓦の地域なのだろうか。

 7時42分、浜原着。ここまでが1975年の開業区間である。およそ30キロを四十分程度で駆け抜けた。またここで三次行と交換した。

 浜原からそのまま北上すれば大田市に着くのだが、三江線は江の川に沿って南下する。太陽が右から左へ移動する。浜原の辺りから路線バスで大田に抜けられるらしいが、これを実行する日は来ないだろう。

この辺りから一般の乗客が乗ってくるようになった。出かけるのに良い時間である。彼らは廃線後、何を使うのだろうか。バス転換するという話だったか、記憶が定かでない。

8時22分、石見川本着。周囲では一際大きい駅で、三次と江津を除けば唯一駅員の有人駅である。川本町の中心地の様である。乗客が増えてきた感じがあるが、古い紀行文を読んでいると学生で満員になっていたらしい。隔世の感がある。

南下が終わり、西に向かうようになる。ここまで来るともう三江線の旅も終盤という感じになってきた。川戸、川平、千金と一駅ずつ江津に近づく。川越しに日本海が見えるようになると江津本町で、終点まですぐだ。

江津着9時31分。三江線108.1キロを約四時間かけて走破した。江津からは山陰本線で出雲市に向かう。9時35分発と良い接続だ。同じ経路を辿る人が他にもいるだろうと思っていたのだが、意外にも自分一人だけであった。皆江津で改札の外に出たらしい。出雲市行は乗客二人で発車した。

江津を出ると江の川を渡り、日本海に沿って走る。一駅目は浅利という美味しそうな名前の駅で、もう一人の乗客はそこで降りてしまった。その後は基本海沿いに、海岸が険しくなると少し内陸にというようにして進む。石見福光で特急スーパーおき1号と交換し、赤い瓦の家々を望みながら、陽光を浴びて走ること五十分、大田市に着いた。

大田市と言えば、世界遺産にも登録されている石見銀山があることで有名だ。江戸時代初期、当時の全世界における銀産出量の三分の一を日本が占めていたと言われるが、その中で多くの銀を産出したのが石見銀山である。日本の銀はポルトガルやオランダの貿易船によって清や欧州にまで運ばれ、欧州の世界地図にも石見の名が記された。石見銀山は露天掘りではなく、坑道式である。「鉱物の博物館」と比喩される日本らしいといえば日本らしいだろう。

大田市を出ると、乗客が増えてきた。石見から出雲に入り、瓦の色も黒くなる。小田を過ぎると平地が広がる。出雲平野だ。神西湖の南を過ぎると西出雲に着く。ここから電化区間だ。そして一駅、11時09分出雲市着。

出雲の歴史は古い。日本神話の主な舞台であり、国譲りは有名であろう。神話に依ればその国譲りの結果として建立された出雲大社に行こうと思う。

出雲市駅から出雲大社へはかなり距離があり、バスか一畑電車を使わないといけない。かつてはJRにも大社線という出雲大社の近くまで行く路線があったのだが、1990年に廃線になっている。

JRの駅を出て隣の電鉄出雲市に向かうと、松江しんじ湖温泉行の電車が丁度出るところだった。駅員さんにせかされて階段を登り、乗るとすぐに発車した。外観からはいまいちわからなかったが、乗ってみると見覚えのある車両だった。元々東急電鉄のもので、日比谷線に直通していたものである。見た目でわからなかったのは短編成化改造されていたからだ。多分、これの改造前に東急で乗ったことがあると思う。

電鉄出雲市を出ると、山陰本線の高架に沿って走る。一駅目の出雲科学館パークタウン前を過ぎると地上に降り、山陰本線と別れ北上する。JRが宍道湖の南岸を走るのに対し、一畑電車は北岸を行く。

11時29分、川跡着。出雲大社前に行くにはここで乗換だ。踏切を渡り、一番線に停まっているこれまた元東急の電車に乗る。私以外にも大半の乗客が乗り換えた。

一畑電車大社線は少し南下した後、ほぼ真西に向かう。沿線には田畑が広がり、のどかだ。車窓を見ていると左手に何本も鳥居が並んでいる場所があった。気になる。二十分ほどで出雲大社前に着いた。

駅は大社の目の前で、すぐに向かっても良いのだが、その前に昼食を食べたい。出雲と言えば出雲そばだと思う。蕎麦屋を探して参道を歩いていると、何件か見つけた。その内の一軒に入る。

丁度昼時であるから店は混雑していたが、独り身だとすぐに入れた。出雲そばの特徴として、割子そばというものがある。三段ほどの丸い器にそばが入っており、それに汁を入れて食すものだ。せっかくなのでそれを頼み、食した。余所では無い形態が目新しい。味も良かった。メニューの裏には英語と韓国語と台湾語で割子そばの食べ方が解説されている。周囲を見てみると、確かに外国人とおぼしき人たちがいた。インバウンドの波が出雲にまで押し寄せている。

出雲大社へ行く。鳥居をくぐり、山の方へ。しばらく歩くと巨大な注連縄が見えてきた。あれが本殿だろうか、と思ったのだが、それにしてはやけに小さい気がする。東大寺大仏殿ほどではないほどにしても、それなりに大きな木造建築だと記憶していたのだが。とりあえず二拝四拍手一拝し、縁結びのお守りを買った。更に奥に道が続いているので行くと、更に大きな木造建築が見えた。これが本殿で、今参拝したのは拝殿であった。

出雲大社は大国主命を祀っており、古事記や日本書紀にも書かれている。十月、神無月には全国から八百万の神々が出雲大社に集まり、人々の縁結びを行っていると言われている。本殿の左右にはその神々が泊まるとされる西十九社、東十九社という建物がある。

更に裏へ行く。旅立つ前、知り合いから

「出雲大社の裏に小さな神社があって、その池に紙を浮かべて沈むまでの時間で婚期がわかる」

という話を聞いていた。それを試そうと思ったのだ。しかし、本殿の真裏まで廻ったが、小さな神社こそあれど池は見つからない。裏ではないのかと思い一周したが、そのようなものは見つからなかった。はて?と思い調べてみると、どうも松江の八重垣神社というところらしい。人騒がせである。やってみたいとは思っているので行けないか調べたが、如何せん距離が遠く厳しかった。

 とはいえ、松江までは行けないものの出雲大社周辺にいる分にはかなりの時間が余っている。出雲大社を出て、旧大社駅に向かうことにした。一畑電車の駅を通り過ぎ、まだかまだかと思いながらしばらく歩いた頃に到着。

 旧大社駅は前述の大社線の終着駅である。大正期に建築された駅舎は神社様式を取り入れた木造建築で、屋敷か何かと見まごうほどだ。1990年の廃線の後も当時のまま整備されており、2004年には国の重要文化財に指定されている。駅舎に入れるので見てみた。待合室は二階まで吹き抜けであり、かなり広く感じる。今でこそ私一人しかいないが、かつては大阪や東京からの直通列車もあり、ここが人で埋まるほどの活況だったのだろう。残された時刻表には既にその頃の雰囲気はなく、出雲市の文字が並ぶのみである。長いプラットホームの先端に蒸気機関車が保存されていた。D51である。近くに寄って見てみると、塗装が所々はげ落ち、錆びている。如何に保存されていても、もう列車は来ないのだと思わせられる光景だった。

 一畑電車の出雲大社前に戻る。こちらの駅舎は旧大社駅とは対照的に洋風建築である。こちらは国の登録有形文化財に指定されている。留置線にはデハニ52という旧型の電車が停められている。以前、一畑電車が舞台となった映画に出てきた電車だ。ここにいるとは知らなかったので、良いものが見られたと思う。

出雲大社前14時52分発の川跡行に乗車した。今度の電車は往路とは異なり、7000系という最新鋭のものである。一畑電車としては八十六年ぶりの新造車両だそうだ。前回の新造電車が隣に停まっているデハニ52の系列の電車である。

 さて、実はまだ時間が有り余っている。そこで、往路に見た鳥居の神社に行ってみることにした。遥堪駅と高浜駅の間だったので、遥堪から歩くことにする。「遥堪」と書いて「ようかん」と読む。なかなか難しい。五分で着いた。

 駅を出て、線路の南側を歩く。鳥居が南側にあったので安易に選んだが、後々地図を見てみると北側からアプローチした方が楽だったように思える。しかし、田んぼの中の道というのはのどかだ。住宅街の道も静かで好きだが、場違いな感じがする。その点田んぼは開放的である。空には出雲空港だか米子空港だかから飛び立ったような飛行機が飛んでいる。数十分歩いて鳥居に着いた。

 神社の名前を稲生神社という。調べてみると、伏見稲荷系列という話が出てきたので、鳥居が並んでいるのもその影響だろう。立ち並ぶ鳥居は壮観だが、所々無くなっていたり塗装が落ちて地の木材が見えたりしている。手入れはあまり行われていないのかもしれない。一畑電車と絡めて写真でも撮ろうかと思っていると、車が停まって二人組の男が降りてきた。片方は立派なカメラを持ち、もう片方が運転手かなにかの様である。どうもアマチュアっぽくない。プロが来るほど有名なのだろうか。

 適当に写真を撮った後、高浜まで歩いた。高浜からは先と同じ7000系に乗車し、川跡には17時10分に着いた。まだ微妙に時間が余っている。二番線には交換待ちの松江しんじ湖温泉行が停まっている。これはまだ乗っていない元京王の車両だった。交換する出雲市行を見ると、往路に乗った元東急車である。京王の方に乗ることにした。

 とはいえ、あまり遠くに行けるほどの時間はない。川跡から四駅目の雲州平田で降りる。雲州平田には車庫がある。ホームからは留置線などが望め、休んでいる電車を見ることができる。元東急のと7000系に混じって、5000系という電車がいるのが見えた。これも元京王の電車である。雲州平田まで乗ってきたものは京王で走っていた当時と外観が大して変わっていないのに対し、こちらは大幅に改造されていて言われないと分らない。座席はクロスシートに改装されており、乗ってみたかったが今日は動きそうにもなかった。どこかで先の電車と交換した出雲市行に乗車し、来た道を引き返した。

 適当に夕食を食べいくつか土産物を買った後、出雲市駅のプラットホームに着いたのは十八時半過ぎであった。これから乗る列車が今回の旅の〆となる。二両編成の気動車が東西から来るのを見ていると、最後の列車、サンライズ出雲が入線してきた。

 山陰は言っちゃ悪いが東京からあまりアクセスの良い地ではない。新幹線は通ってないし、飛行機の便もそれほどあるわけではない。そのような環境が寝台列車の生き残れる環境を作り出している。かつての寝台特急出雲は二往復あった。一往復が京都から山陰本線経由で出雲市を目指し、もう一往復は倉敷から伯備線経由で出雲市に向かっていた。その伯備線経由の列車を電車化したのがこれから乗るサンライズ出雲である。九州方面や北海道方面の寝台列車が全滅した今、定期列車として乗れる寝台列車はこのサンライズ出雲と高松行のサンライズ瀬戸だけになってしまった。今回山陰方面に行くと決めたとき、サンライズの寝台に乗るというのは目的の中でも高いウェイトを占めていた。

 サンライズ出雲の寝台は全て個室である。私が今回取ったのは、B寝台ソロという一人用の個室だ。サンライズに乗るのは初めてではないが、これまではのびのび座席という開放的な指定席扱いの空間だったので、寝台席は新鮮である。しかし、個室寝台というのは部屋を間違えないか緊張する。指定席程度なら間違えてても謝ればなんとかなるだろうが、寝台となると寝具が整えられている。他人が間違えて寝ていた寝台を使うのは良い気持ちではないし、他の人もそうだろう。何度も間違ってないか確認し、部屋に入った。

 ソロは二階建て構造になっている。偶数の部屋が上だ。私の部屋は六番。車両の中央の階上と、なかなか良い所を取れたのではないかと思う。部屋は扉をくぐるとすぐに三段ほどの階段があり、その上がベッドという構造になっている。ベッドの隣、丁度通路の上に当たる部分に荷物棚があるのは便利だ。コンセントもある。一晩過ごす分には十分だ。

 サンライズ出雲にはシャワー室がある。車掌さんからカードを購入すると六分間使える仕組みで、今夜はこれを使おうかと思っていた。だが、ここで重大な過失に気がつく。タオルが無いのだ。ビジネスホテルにはアメニティのタオルが備え付けられているのでそれで十分だし、サンライズにもあるか売るかしているだろう、と思って持ってきていなかったのだ。しかし、乗って初めて知ったのだが、タオルの販売は数年前に終了していた。次回乗る時はタオルを持ってこようと心に誓った。

 18時51分、出雲市発車。まだ外を眺められるだけの明かりがある。窓は天井の方まで広がっており、視界は広い。市街地を走ること十五分、木次線との接続駅である宍道を過ぎた頃から宍道湖が見え始めた。宍道湖についてはあまり知らなかったのだが、思っていたよりも広い。海とはまた違った雄大な景色を見ることが出来て幸運である。冬だったら陽が暮れている。湖面越しに見る松江は、降りてみたくなる光景だ。

 松江を過ぎると残光も無くなり、米子に着く頃には真っ暗になった。米子から二駅、伯耆大山から伯備線に入る。伯備線は以前何度か乗ったことがあるのだが、巡り合わせが悪く伯耆大山と伯耆溝口の二駅間だけが未乗区間となっていた。今回で伯備線完乗となったが、景色がわからなかったのでまた乗りたい。多分その機会はあるだろう。

 伯耆溝口から先は見えなくても景色を思い出せる。最も、数年経ってるので変わっているのだろうが。江尾、根雨、上石見など印象深い駅を次々と通過する。伯備線はカーブの多い線形で振り子式の特急電車が採用されている程だ。ベッドに横になっていてもよく揺れる。また、分水嶺を越えるのでトンネルも多い。前述の通り窓が広いのだが、トンネルで見上げているとホラー映画を思い出す。

 新見21時20分着。備中高梁21時48分着。倉敷22時13分着。普段ならまだ寝ない時間だが、一日中歩き回った疲れと明日の乗り過ごし防止の為にもう寝よう。夜が明ける頃にはどこにいるのだろうか。

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広島・島根紀行 19 @Karium

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