後編 穴へ引き摺り込むもの

 それから数時間は、赤い子供達が視界に入る事は無かった。


 季節はよく覚えていないが、日が落ちても暖かさの残る時期だったと思う。

 居間の窓の外では、提灯の明かりが寂しく揺れていた。

 参列者は皆一様に、天寿を全うした曾祖母を祝福しているかのようで、和やかな雰囲気が漂っていた。


 ただ、その雰囲気とは裏腹に、私の心は乱れていた。

 あの男の子に群がる化け物はなんだったのだろう。全く理解が出来なかった。


 しかし、気のせいかもしれない何かに意識を向け続けてはいられなかった。

 居間ではまだ数人の子供達がバタバタと遊び回っていて、私はその対応に追われていたのだ。


 だが、もうすぐ夕食という時間にさしかかった頃。


「こっこっこっこっこ」


 という声が聞こえた。


 そんな馬鹿な。

 あの子は母親に連れられて帰宅したはずだ。

 床の間の隅っこに当然その子はいなかったので、私はすぐ幻聴だと結論付けた。

 やがて参列者も減り、子供達は自由に家中を走り回っていた。

 私は火が点っている仏間に入ろうとする子供を止める役目を任されていた。


 やっと、親族だけで曾祖母の祭壇に手を合わせる時間になったのだ。

 昼に念仏を唱えて帰った近所の和尚さんもまたやってきて、ビールを飲みつつお経を唱えていた。今考えれば、なかなか破天荒な和尚さんだった。


 和尚さんが帰ると、私は誰かに前で手を合わせなさいと促された。

 先ほどからずっと正座をしていたので、足は気持ちが悪いと感じる程痺れていたが、なんとか這うようにして焼香台の座布団に座って手を合わせた。


 誰が前で手を合わせろと言ったのかは覚えていない。というより、分からない。

 私が手を合わせている内に、大人達は隣の宴会場となっている部屋へと行ってしまった。

 少しだけ恐くなったが、襖一枚隔てた先にはたくさんの人がいると、自分に言い聞かせた。


 何度目かの焼香をし、手を合わせた。

 半年に一度も会わない曾祖母との思い出は、それほど多くはなかった。

 この家を訪れる度に、すぐ近くにある古き良き駄菓子屋に連れて行ってくれては、たくさんお菓子を買ってくれた。

 穏やかで、優しいおばあちゃん。それが曾祖母だった。



 だから、突然私の目の前に現れた人物は、だと、すぐに分かった。


 まるで、焼香台から上半身が生えたかのようだった。

 背格好は曾祖母らしかったが、はっきりとしない顔が、異常なほど酷薄に映った。


 逃げなければ。咄嗟にそう思った。

 しかし、大声を出してはいけないとも、私は瞬時に判断した。

 上半身だけの何かは、まだ私に気付いていないかのように、周囲を見回していたのだ。


 仏間に入ってはいけない約束を破った子供達が、私の後ろで盛んに遊び回っていた。

 人が沢山いる場所というのは心強いもので、私は冷静にその場から逃れようと、わずかに体を動かした。

 しかし、足を動かそうとしたところで異常に気付いた。


 足が動かない。

 既に痺れてはいたが、時間にしてみれば三分もこの座布団に正座していないはずだった。

 だが、足は痺れを通り越して全く感触すらなく、どうやって動かすかも分からないような有様だった。


 ついに曾祖母ではない何かが、正座している私を見下ろした。

 表情が分からない。その顔はまるで、クレヨンで描かれた絵を上から擦ったかのように見えた。


 がしがし、がしがし


 畳を引っ掻くような音に、私は身を震わせた。

 小さい子達が危ない。

 何故か私はそう思った。


 しかし、子供達は「ご飯だよ」と誰かに呼ばれ、全員素直に仏間を出て行ってしまった。

 それも不可解だった。

 かなりやんちゃな子供達が、たった一言で従うとは思えなかったからだ。


「いただきますしてね」


 襖の向こうから声が聞こえた。

 まだ私は席に就いていないのに何を言っているんだ。

 しかし、叫びたくても声が出なかった。


 早く助けてくれと念じているのに、それは叶わなかった。

 次の瞬間、


「なんで!」


 思わず私は声を上げた。反射的に大声が出たのだ。

 周囲が薄暗い橙色に染まっていた。

 誰かが仏間の蛍光灯を消し、常夜灯だけにしてしまったのだ。


 あまりの恐怖に、酷い頭痛と腹痛に襲われた。

 私は多分、ママだのパパだのと、助けを求めて叫んでいたと思う。

 しかしその声は、誰にも届かなかった。


『うふっうふっ』


 いじめっ子の嘲笑のような声が聞こえて、私は口をつぐんだ。

 急に吐き気がこみ上げてきたが、私は両手で口を押さえた。

 嘲笑の主に気づかれてはいけないと思ったのか、ただ怖かったからかは分からないが、とにかく物音を立てては駄目だと思ったのだ。


 今回顧してみるだけでも、手が震えてしまう。

 体の自由が奪われてしまう恐怖は、経験しなければ分からない。


 だがその時、私の体は祭壇とは逆方向に、座布団ごと引き摺られた。

 誰かが助けてくれようとしている。

 そう思ったのも束の間。


 目の前に、穴が開いていた。

 焼香台の前、ちょうど私の座る座布団があった位置に、私くらいの子供ならすっぽり落っこちてしまいそうな穴が開いていたのだ。


 がりがりという畳を引っ掻く音が、穴の方から聞こえた。

 見えない何かが穴から出て来て、畳を引っ掻いているように思えた。


『ああー! ああー!』


 子供の苛立つような声が聞こえた。

 その時私は直感した。

「何か」が、穴から這い出ようとしている。それも、沢山。


 止めないと。何故かそう直感した。

 しかし何かを出来る訳でもなく、私はただ息が詰まるような恐怖に震えていた。


 穴からあふれ出た見えない何かに、私の動かない下半身が押さえつけられた気がした。

 突然、座布団ごと穴の方へ引っ張られた。

 少しだけ座っている座布団が前に動くと、私は誰かに羽交い締めにされ、後ろへと引っ張られた。


 多分、「痛い!」と叫び声を上げたと思う。

 上半身を引っ張られる度、下半身が裂かれるように痛んだのだ。


 両足まるで大量の太い釣り針を膝に突き刺され、引っ張られているかのような痛みだった。


 下を見ると、何本か分からない程の数の小さな腕が、私の両膝を掴んでいた。

 薄暗いの橙色の灯りの下、無数の手は赤黒く光っていて、先程の赤くヌメヌメした子供達の手だと、すぐに分かった。


 あまりの気持ち悪さに、吐き気が増した。

 振り払わないと。そう思ったが、赤くヌメヌメした手に手を伸ばせなかった。

 羽交い締めにはされていたが、両手は十分膝を掴む腕には届いた。


 ひたすらやめろと叫びながら、何度も嘔吐えずいた。呼吸がし辛くて、何度も咳をしたと思う。


『あー! あー!』


 いらだった子供のような声が再び聞こえた。

 穴の中から、赤黒く丸い何かが、競うように這い出ようとしていた。

 同時に、私の体も穴へと引き寄せられた。


 引き摺り込まれたら、戻って来れない。そう直感した。

 しかし、この期に及んでも、私を掴む大量のヌメヌメした手に触れる事が出来なかった。


 もう駄目だと思った瞬間、下半身の刺すような痛みが減った。

 帰ったはずの男の子の母親が、穴のすぐ横に立っていた。

 そして手に持った座布団で、穴からはみ出た何かを何度も叩き始めたのだ。


『あー! あー!』


 また苛立ったような声が聞こえた瞬間、膝が引き裂かれるような痛みと共に、一気に後ろへと引っ張られ、部屋の明かりが点いた。

 その時、私はまた声を上げそうになったが、人の顔が見えて落ち着いた。


「ほら、ご飯だよ」


 私を引っ張っていたらしい人物は、私の大叔父、つまり曾祖父の息子だった。

 大叔父の顔は汗だくで、ワイシャツの襟までずぶ濡れだった。


 私は大叔父と男の子の母親に、涙と鼻水だらけになっていただろう顔で今のはなんだったのかと問い詰めた。


「やめなさい! 頭おかしい子だと思われるだろう!」


 かなりの剣幕で大叔父一喝され、それ以上何も言えなくなってしまった。

 部屋はなんともなっていなかった。

 焼香台の前の穴も、きれいさっぱり消え去っていた。

 曾祖母に化けた何かも、赤くヌメヌメした子供達も消え去っていた。


 ああ、そうか。僕は頭がおかしいのか。

 何事もなかったとしか思えない仏間の光景は、私の高ぶった神経を落ち着かせるには十分だった。


 これまでも訳が分からないものはよく見かけたし、その度に格好悪い程驚いて、友人や同級生にキモいと罵られてきた。

 そうか、これは心の病気だ。そう思った瞬間、とても気持ちが軽くなった。

 私が見ている全ての謎の事象は心の病気であって、本当には存在しないのだ。


 だが、軽くなりかけた私の気分は、すぐにどん底へと突き落とされた。

 涙や鼻水、喉の奥の胃酸の味を流そうと入ったトイレで用を足している最中、私は危うく失神しそうになるほど、息を詰めてしまった。


 太ももが、ミミズ腫れのような傷で覆い尽くされていたのだ。

 気付いてから痛痒くなり始めたが、先程の大叔父の鬼の形相を思い出すと、誰にも訴えかける事が出来なかった。


 怪奇現象に怪我を負わされたのは、これが初めてだったと思う。

 だがそれでも、一連の出来事は私の脳内でしか起きていない事だ。

 私はそう思い込みたかった。

 こんな膝の傷、自分で引っ掻いても付けられるかもしれないではないか。そう自分に言い聞かせ続けた。


 極端過ぎると思われるだろう。

 だが、少年時代の私は何もかも心の暴走だと自分に言い聞かせて、なんとか平静を保つしかなかったのだ。

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