フレデリカの告白

 ロベルトがアドリアンに呼ばれたのは、次の日の午後だった。

 二、三日留守にしていたのだろう。ロベルトがアドリアンと会うのは最初の日以来だ。アロー伯爵の護衛に、他にも所用で出掛けたりとアドリアンは忙しくしている。けれど、ロベルトが伯爵令嬢の騎士を彼と代わったことはもう伝わっているはずで、それならば特別に報告する必要はない。だから、ロベルトはアドリアンの部屋の扉を開けたとき、先客がいて驚いた。ブレイヴもアドリアンも真顔で、視線だけをロベルトに寄越す。二人から責められている気分になる。事実、そうなのだろう。アドリアンは教官のときの目をしている。

「フレデリカ嬢は、君に何を言ったかな?」

 最初の声がそれだったので、咄嗟に声が出せなかった。アドリアンはロベルトに近づくと、またすぐに離れた。その反応だけで充分だと、次にアドリアンは彼を見る。 

「これが想定内だったからこそ、私は君にフレデリカ嬢の護衛を頼んだはずだが?」

 深いため息が落ちる。落胆と失望。両方だ。

「申し訳ありません。しかし、私はこういったことは、どうしても……」

「なるほど。つまり、君は勝手に職務を放棄したというわけだな」

「……っ! それは、」

「ち、ちがいます! 教官、おれが引き受けたんです。こいつは悪くない。それに、おれは別に教官が想像しているようなことはなにも……」

 やたらと早口になるロベルトに対して、アドリアンは片手をあげて制した。そうだ。別にやましいことなんて何もない。けれども、濃い薔薇のにおいが残っていたのかもしれない。もっとも、彼女のすぐ傍にいなければ、香りは移らないのだけれども。

「もういい。私はどうも君たちを見誤っていたようだ」

 士官学校のときとはちがう。これは、教官ではなく上官としての声だ。ロベルトはブレイヴを庇うつもりではなかった。ただ、それを過ちと認めているから、居心地が悪くてたまらない。

 騎士失格だと、二人は面と向かって言われた。そのとおりだと思う。でも、騎士らしくとはなんだろう。ロベルトはわからなかったし、彼の横顔を伺うこともできずにいる。すっかりおとなしくなった二人に、どういうわけかアドリアンは微笑していた。

「言うべきことは多々あるが、私からはもう言わん。説教も長くなるばかりだからな。ただし、忠告はしなければならない」

 忠告。ロベルトは口のなかで繰り返す。

「情に流されるなとは言わんが、しかし君たちは見習いではなく騎士だ。優先させねばならぬこともある。それから、フレデリカ嬢にはもうすこし自重して頂く」

「それは、どういう……」

 ロベルトは途中で唇を閉じる。

 アドリアンが言いたいのはつまりそういうことだ。ロベルトもはじめは気がつかなかった。けれども、フレデリカにはしたたかな一面がある。

 ロベルトはブレイヴを見たが、彼は項垂れている。ロベルトはやっとすべてを悟った。昨晩のフレデリカの言葉。アドリアンの忠告。断片的に落ちていた欠片ピースがきれいに嵌ってゆく。

 傷つく必要はないのだ。ロベルトは騎士なのだから。自分へと言いきかせて納得すればそれでいい。フレデリカが求めているのは、自分にとって都合の良い騎士だけだ。ロベルトが彼の代わりに利用されていたのだとしても、何を感じることもない。けれど、腹の底が冷えてゆくのはなぜだろう。これは怒りとはちがう。ああ、そうか。悲しいのだ。ロベルトは自分の気持ちに気がついた。

「ごめん。俺が、軽率だった」

「謝るなよ。べつに、おまえは間違ってない」

 二人はそろってアドリアンの部屋から締め出された。それ以上の声はもっとアドリアンを失望させるだろう。だけど、アドリアンもブレイヴも誤解をしている。フレデリカは悪女なんかじゃない。ロベルトとフレデリカは騎士と伯爵令嬢。ただ、それだけだ。それなのにあの夜の唇を思い出せば、勝手に耳朶が熱くなる。

「ロベルト……?」

「なんでもない。それよりおまえ、アドリアンの補佐になるってたいした出世じゃないか。おれのおかげだな」

「そうだね。ロベルトのおかげだね」

 まったく嫌味が通じないどころか彼は笑みを見せる。そういうところが嫌いなんだと、ロベルトもちょっと笑った。

 彼と別れてすぐにロベルトを呼び止めたのは、フレデリカ付きの侍女だった。

 今朝、ロベルトはフレデリカの部屋の扉をたたく前に追い出されていた。気分が優れない理由で、伯爵令嬢は今日の予定をすべて中止にした。医者を呼ぶべきではないかと、余計な声をするロベルトは侍女頭に睨みつけられたし、今になって何の用事があるのだろう。黙って侍女のあとについていたロベルトは、フレデリカと二人きりにされる。しかし、伯爵令嬢はなかなか話し出そうともせずに、やっと声を発したかと思えばとてもちいさく、ロベルトはもうすこし彼女へと近づいた。

「待って、だめよ。それ以上はこないで」

 こんな風に拒絶されるとは思わなかった。来なければよかった。昨晩のフレデリカがまだ瞼の裏に焼きついている。羞恥と後悔を面に出さないようにしても、失敗だった。

「ちがうのよ。ごめんなさい。その……、まだお酒が残っていて」

 酒癖しゅへきを詫びてフレデリカはうつむいた。ちゃんと昨日のことも覚えているようで、ただしあまり酒に強い体質ではないらしい。酒は趣向品のひとつとして嗜む程度のロベルトは翌日も元気だ。しかし、あれはいつだったか。たしか遠征がつづいて疲れていたときだ。同級生の一人がどこかでこっそり手に入れた酒を夜の天幕でたのしんだ。四人で酒樽を空にしたものだからそのうちの一人が途中で嘔吐して、その騒ぎのせいで上官まで届いてこっぴどく叱られた。厳罰を免れたのは上官たちも酒を隠し持っていたからだ。一番酒を飲んだ奴は次の日はずっと頭痛と吐き気に苦しんでいたし、あとの二人も本調子とはいかなかった。ちびちび飲んでいたロベルトだけが元気で、皆の分まで馬の世話をさせられたのは嫌な思い出だ。

「嫌いになったでしょう?」

 いいえ、と。ロベルトは小声で言う。嘘ではない。けれど、フレデリカは笑ってくれない。 

「婚約が決まったの」

 ロベルトはフレデリカをまっすぐに見る。彼女はロベルトではなくて、どこか遠くを見ているようだった。

「ヴァルハルワ教の司祭さまのお知り合いらしいわ。歳はあたくしよりもひとつ下。でも、教会になじみのある方だから、お父さまも安心なさったのね」

 フレデリカはロベルトにどういう答えを求めているのだろう。瞬きの回数、唇の動き、それからささいな仕草でさえも見逃さないように。ロベルトの反応をずっと追っている。

「お父さまがそれほど人を気に入るのはめずらしいのよ。あ、でもアドリアンさまは別ね。よそから来た騎士の方をこれほど信用するのも、はじめてのことよ」

 いや、ちがう。これはきっと、告解なのだとロベルトはそう思った。

「フレデリカさま」

 だから、ロベルトは問う。フレデリカが本当に口にしたいのは謝罪ではない。胸のなかにある声を一人きりで抱え込むには、彼女はあまりに孤独すぎる。

「ムスタールに行くの」

 それはもうずっと前から決まっていたのかもしれない。

 フレデリカが父親から知らされたのは、父娘二人だけの晩餐の日だ。母親を亡くしたときにも我が儘ひとつ言わなかったフレデリカは、父親の声にも素直に応じた。侍女たちも彼女に祝福の言葉をたくさんかけただろう。それが、どんなに彼女を苦しめていたことか。

「あたくし、良い妻になりますわ。子どももたくさん授かって、跡取りには困らないように。そのうちの一人はアロー家に養子に出すの。これできっと、お父さまも安心してくださるわ」

 そうしてまた、彼女は作った笑みを見せる。憐憫かと、ロベルトは己に問う。そうではないと、自分に否定をする。

「ほんとうに、それでいいんですか?」

「あなたは優しくて、意地悪な人ね」

 怒りならよかった。誰にも見せない感情をここまで露わにしてくれるなら、それも全部受け入れる。呆れることもなければ軽蔑することもない。ロベルトはフレデリカという人を、もっと知りたいと思っている。

「でも、そうね。逃げたいのは本当で、あたしは誰かを巻き添えにしたかったのよ。もう誰もあたしを見てはくれないし、愛してもくれない」

 フレデリカは小棚の抽斗を開ける。

 そこにはたくさんの装飾品が並んでいた。王都の名のある職人に造らせた銀の首飾りに薔薇の形をしたブローチに、カメオに掘り込まれた美しい女性はフレデリカに似ている。真紅の宝石や藍玉石の指環は他国から取り寄せたのだろう。いずれも貴人たちからの贈りものだった。

「おかしいでしょう? 貴族のあたしがこんなことを言うなんて。でも……、もう遅いのよ。あたしは知ってしまったの。だから、きっとあたしはこの先に、人を愛することはないのね」

 乱暴に抽斗が閉められる。どんな高価な宝石も彼女の心を豊かにできない。誰が、彼女を救えるのというのか。幸せになるべきだ。願いと、祈りと。どうか彼女に届けばいい。

「でも、わがままはもうおしまい。あたしはお父さまを困らせたくはないの。だから、春にはムスタールに行くわ」

 優しい目をしていると、ロベルトは思った。彼女はそうやって、これから先も嘘を吐いてしまうのだろう。

「ロベルト。お父さまをお願いします」

 ロベルトは騎士の挙止をする。他の声は要らなかった。

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