薔薇とくちづけ(2)
アロー家の晩餐は予定どおりに進んで、しかしロベルトは夕食を食べ損ねてしまった。
しばらく経ってから台所をのぞいてみれば、ちょうど仕事を終えた女たちが残りものをつまみながらまたお喋りをしている。すぐに見つかって、ロベルトも会話に強制参加となった。
固くなったバケットを肉団子のスープに浸しながら、それからチーズを囓って林檎酒を回し飲む。侍女頭が見れば悲鳴をあげそうな光景だ。でも、女たちは貴族ではないからそんなものは全然気にしない。ソーセージだって手掴みで食べる。かしましい女たちのお喋りはいつも疲れるが、女たちはロベルトに優しくしてくれるので冷たくはできない。今日一日の仔細まで全部吐かされた。
フレデリカと庭園でお茶をたのしんだこと、途中で雨が降ってきたこと、侍女の替わりのおつかいに、外套をフレデリカが綺麗に直してくれたことまで。
女たちの声が一段と大きくなった。
ほらね、言ったとおりだろう? フレデリカ様ほど素晴らしい女性がよそにいるもんか。あたしたちの誇りだよ。ほんとに器量良しで性格もいいだなんて。でもね、あんたも好きになっちゃあいけないよ。ロベルトに麦酒のおかわりを注ぐ女が言う。ここの古株で一番太っている。伯爵令嬢もあの子呼ばわりだ。
フレデリカは不憫な娘だと、そう言う。たしかに、幼い頃に母親を亡くした彼女はそうなのかもしれない。けれど、女の物言いは過去を指してはいなかった。チーズを切り分けてくれた他の女も同調する。そして、話題はフレデリカの結婚へと変わった。
それこそ、縁談の話は毎日のように持ちこまれていて、どれも大貴族の子息が相手だった。それならアロー伯爵が難色を示す必要もなく、容姿や性格に留まらずあらゆる調査をしているはずだ。あとはフレデリカの意思の確認のみというところで、ここから話が進まない。その理由はフレデリカにあるというのだ。
古株の女が、ここだけの話だよと、前置きをする。そんなつもりはなかったのに、ロベルトは好奇の目をしていたらしい。他の女たちの声もちいさくなった。
フレデリカには恋人がいた。
時を遡ること三年前。十六歳のフレデリカはその頃から美しかったのだろう。大貴族の令嬢は恋愛を禁じられているわけではない。しかし、貴族社会において恋愛結婚は極めて稀だ。いずれ爵位を継ぐために、ふさわしい男でなければアロー伯爵は認めない。身分違いの恋が叶うとすれば、それは物語のなかだけの話だ。
自分の部屋へと戻っても、ロベルトはしばらく眠れなかった。身体は疲れているのに目は冴えてしまっている。それに、なんだか胸の奥がざわついて嫌なかんじだ。寝返りを繰り返したところで、扉をたたく音がきこえた。訪れたのは彼だった。
ロベルトはちょっと面白くない。けれど、昔みたいに追い返さなかった。彼はロベルトを案じていたのだろう。そんな顔をしていた。なんだよ。おれだって、うまくやれるさ。二人は今夜も蜂蜜酒で乾杯する。ブレイヴは何もロベルトに問わずにいて、最初の話はアロー伯爵に関わることだった。
「アロー伯爵は国王派……?」
ロベルトの小声に彼はうなずきだけで返す。そしてクルタ伯爵は元老院派であるとつづけた。それだけで、伯爵たちが争う理由には充分だった。
北の敵国ルドラスの進軍に、果たされなかった和平条約に。アズウェル王の死と、それから新王の即位。イレスダートはようやく落ち着いたかと思えばそうではない。王都、特に白の王宮内ではさまざまな思惑が
「クルタ伯爵はもともと国王派だったそうだ。なにか心変わりをする事件があったのかもしれない。ともかく、そこから二人は不仲になった。アロー伯爵が誘拐されたのもおなじ時期だ」
人の思想や生き方など簡単に変わるものだ。ロベルトは深く考えなかったが、彼はまた黙り込んでしまった。やっとブレイヴらしくなってきた。ロベルトはそう思う。
翌日、朝食を終えたフレデリカは、ロベルトにおはようの挨拶をする。しかし、明らかに反応が昨日とはちがう。彼女は作り笑いをするし、目の隈だって化粧で隠していた。
なにかあったんですか? ロベルトはきけなかった。よく眠れなかった理由は、昨晩の父親との晩餐だろう。詮索はただしくない。ロベルトは騎士の顔をする。
この日のフレデリカの予定は詰まっていた。午後は友人たちとの茶会に出掛けて夜には舞踏会へと向かう。いずれも婚約を控えた令嬢たちの集まりだ。流行りの化粧品や新作の装飾品のお披露目と話題は尽きずに、もっとも盛りあがるのはやはり恋愛の話だ。質問攻めにあっても問われた相手はまんざらでもないらしい。頬を染めながらも、けっきょく皆まで喋ってしまうあたりが年頃の娘だ。令嬢たちの騎士はすこし離れたところで控えており、ロベルトもそこからフレデリカを見守っていた。彼女はきき役に回っていて笑みを絶やさずにいる。だけど、それは
「ロベルトさま? どうかなさって? ……疲れてしまったのね。ごめんなさい」
そうじゃない。疲れているのは、あなたの方だ。
馬車のなかにはフレデリカと侍女とロベルトの三人がいて、ちょっと狭い。しかし、過保護なアロー伯爵は令嬢の傍に騎士を置く。侍女は臆病な
「それでね、その子の家は商家とも縁があるそうなの。商家の人たちが忙しくしているのは、戦争をするための準備なのですって。そういえば、お父さまもおなじことを言っていらしたわ」
ロベルトは正直に驚いていた。良家の子女たちはなんでも知っている。父親から娘へと、令嬢から使用人に、それからまたその家族へと。ちいさな噂でも伝染病みたいに広がってゆく。有力な貴族を白の王宮が危険視するのもそのためだ。
「そうしたら、ロベルトさまもそこに行ってしまうのね」
「おれは、それが仕事ですから」
「そう……。それが騎士さまのお仕事……。いいえ、誇りですものね」
「誇りだなんて、そんないいものではないです。おれは、人を殺しに行くんですから」
「そんなこと、なくてよ。それに騎士のお仕事は戦争でしょう?」
心は痛まなかった。フレデリカの言っていることは、何ひとつだってまちがってはいない。本来、騎士の仕事は人殺しだ。時として、人は騎士を勇者や英雄のように見るけれど、それは単に綺麗事に過ぎない。
晩餐会にしても舞踏会にしても、華やかなところはやっぱり苦手だ。ロベルトはため息を吐きかけて顔をもうすこし上にあげる。フレデリカは人々の輪のなかにいた。見失ってしまわないようにと目で追っていても、ダンスの相手は次から次へと変わってゆく。上流貴族の坊ちゃんたちは女性の扱いに長けている者ばかりで、どの男たちもフレデリカに気に入られようと必死だった。アロー家は王都でも有数の貴族だ。なにより、フレデリカの美しさが男たちをそうさせる。
最初の相手は壮年のやや小肥りの男で、次の相手は若くともフレデリカよりも短躯だった。鉤鼻の男もいれば若白髪もいる。フレデリカは一度も笑みを変えなかった。それが伯爵令嬢の仕事とでもいうような、そんな顔をする。
だとしても、あんなに身体を密着させなくてもいいのに。
舞踏会の本当の目的は意中の女性に愛を囁くことで、男たちはこぞってフレデリカの耳朶へと唇を寄せる。ロベルトの拳は震えそうになり、しかしそれは嫌悪感のためだとロベルトは思った。曲が変わる前にフレデリカは次の相手とダンスをしているので、男たちの愛が彼女に届くことはなかったのだが。
舞踏会が佳境を迎えるより前に、フレデリカはロベルトのところへと戻ってきた。
大広間にはたくさんの人たちで賑わっている。まだフレデリカをダンスへと誘っていない者も残っていて、そのうちの一人が未練がましく彼女を追って来た。ロベルトは騎士の挙止をする。けれど、フレデリカの行動はもっと大胆だった。
「あたくしの
ロベルトの右腕は彼女に絡め取られていた。声色は可愛らしくとも上目使いは蠱惑的でもある。いったい、どういうつもりなのか。フレデリカはその豊満な胸をロベルトに押しつけてくる。フレデリカを引き留めた男は、白金の髪に左右均整の取れた瞳のいわゆる優男風に見えたが、唇の端が細かく震えていた。動揺よりも恥をかかされた怒りが強かったようだ。フレデリカは男の背を見送らずに、ロベルトを見てにっこりとする。ロベルトはどういう顔をするべきかわからなかった。
舞踏会を抜け出したフレデリカの足は勇ましかったものの、次第に頼りなくなってゆく。しまいにはロベルトに抱きとめられる形となり、そしてロベルトはここではじめて
「フレデリカさま、ちゃんと歩いてください」
ロベルトは騎士の声をする。するとフレデリカはロベルトを睨みつけた。
「いやよ」
「嫌って……」
「あたし、帰りたくないもの」
急に子どもみたいになった。それに、街娘のような物言いをする。きっと、酔っているせいだ。しかし、この状況はあまりよろしくない。大広間からはやや離れていても外でフレデリカを待つ馬車まではまだ遠く、やはりフレデリカにちゃんと歩いてもらうしかなかった。
フレデリカはロベルトにべったりとくっついている。無理に引き剥がそうとすれば甘えた声をするし、どこか面白がっているようにも見える。回廊には他に人の姿はなかったが、フレデリカの醜態を人に見せるわけにはいかない。アロー家の外聞に関わる事態だ。
「ロベルトさまは、ずっと王都にいるのでしょう?」
「それは……」
「貰ってほしいの。あたしを」
やはり酔っているのかもしれない。フレデリカはロベルトの視線を逃さずにいる。そうして、剣を握るためにあるロベルトの左手は、フレデリカに絡め取られていた。乱暴に振り解けば彼女を否定してしまうだろう。耳の奥で心臓の音がきこえる。わずか数呼吸のあいだが、やけに長く感じる。
「あたしは、どこにも行きたくはないの。ここにいたいのよ。お父さまのところに」
なにを言っているのだろう。ロベルトは思考に使う余裕がない。フレデリカはつづける。だから、と。ちいさく、夜に溶けてしまいそうな声だった。
「あたしだけの騎士になって」
彼女の顔がもっと近くなったと思えば、唇にやわらかいものが触れた。思わず離れてしまえば、その
「うふふ。約束、したわよ」
約束は勝手に取り付けられてしまった。それなのに、ロベルトは逃げられなかった。二度目のくちづけは、薔薇のにおいがした。
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