第八章:ネクストページ

一頁:迫り来る過去

 両親を亡くした沙月エリカには、優しくしてくれる人達がいた。


「犯人は、必ず俺が見つける!」


 例えば炎の中で踊る少女の話を信じてくれた人だ。

 がたいの良い、けれど優しい顔立ちの刑事だった事を覚えている。


「ほんとに?」

「もちろん。約束だ。必ず犯人は捕まえる」


 彼との約束がエリカの寂しさを埋めてくれた。

 約束を信じる事で生きる希望に繋げられた。


「あいつんち火事で燃えたんだって」


「かわいそう。親居ないんだ」


「なんか暗いよね」


「あいつの父ちゃんが火事起こしたんだって」


「他にもたくさん死んだんだってよ」


 もちろん全ての人がエリカに対して好意的だったわけではない。

 いつも同級生は、同情ではなく残酷な好奇心を剥き出しに接してくる。

 

「うちも余裕ないんだよね」


「あそこの旦那、結構稼いでたらしいからな。金持ちの子供は、わがままで困る」


「たばこの不始末なんて、いい加減な人だと思ってたのよ」


「悪い事しなきゃ金なんかたまんないよ」


 父に金の無心に来ていた人達は、皆こぞって恩を忘れて仇を口にした。

 それでも――。


「エリカちゃん。今日はエリカちゃんの好きなハンバーグだーよ……ってうちの子供達はみんな好きか!!」


 伯母は、とても快活な人だった。

 彼女に育てられた従兄弟の達也たつや君と佳奈美かなみちゃんも、とてもいい子で、


「エリカちゃんは、俺の家族だ! 変な事言ったら承知しないぞ!」


 三つ年上の少しガキ大将気質の達也君は、エリカをよく庇ってくれ、


「おねえちゃん。あそぼー」


 佳奈美ちゃんは、本当の妹のように懐いてくれた。


「おじさん、タバコ吸っても大丈夫ですよ?」


 ヘビースモーカーだった叔父は、エリカのためにきっぱりとタバコをやめてくれた。


「おじさんな。お医者さんにタバコ吸ったらダメって言われてるんだよ」

「いいのエリカちゃん。この男には、たんまりと生活費を入れるためにも長生きしてもらわないとね」

「俺はATMか」

「あら。自分自己評価が高いのね! 自販機のお釣り口に取り残された小銭じゃなくて!?」


 いつも伯父と伯母は、冗談を交わし合いながら、エリカを実の娘のように可愛がってくれた。







「今日は新しいお友達が来ました。沙月エリカさんです。みんな仲良くしてくださいね」


 伯母夫婦亡き後、親戚はエリカを引き取りたがらず、施設に入れられた。

 二度目の火事とあっては、彼等の決断を責める事は出来ないだろう。


「俺タクヤ。小六。ここのリーダーだ」

「私はエミカ。五年生よ。よろしくね沙月さん」

「僕はタカシ。三年生」

「四年生のミウです。分からない事があれば何でも聞いてね」


 けれど孤独は感じずに過ごせた。

 施設の子供達を過ごした時間は、全てを失ったエリカに得難い幸福を与え、折れかけていた心を支えてくれた。







「またあの子のいるところで火事だって」


「あの子が放火してるんじゃないのか?」


「だとしたら三十人以上を殺したのか?」


「化け物だ。あれは化け物だよ。人を殺してもなんとも思わない化け物だ!」


「病院に入れないと」


「そうだ!! 閉じ込めておかないと危険だ!」


「警察は何してるの?」


「証拠が見つからないんだって」


「税金で飯食ってるくせに使えない連中だ」


「事故に遇うか、自殺でもしてくれないかしら」


「まったくだよ。放火だか、火事だか知らないが、あの時一緒に死んでくれたら」


 親戚にも、それ以外にもエリカに優しさを向けてくれる人は居なくなっていた。







「へぇ、あの子病院出られたんだ。やんなっちゃう」


「うちは金は出すけど、一緒に暮らすのはごめんだ」


「パパとママも大変だよね。あんな奴のために何万もさ」


「別にいいよ。金で寄り付かなくなるなら安いもんだ」


「大きくなったら返してくれる……なんて気の利く子じゃないか」


「お返しに放火されたりして!」


「やめてよ。縁起でもない」


「そうだぞ。あんな頭のおかしい奴とっとと死んでくれればいいのに」


「迷惑だよね。ああいうのが身内に居るとさ」




 そして――。




「君が殺したのか?」


 優しかった刑事さんの目は、


「答えろ!! お前が殺したのか!?」


 エリカを殺人者と決めつけるようになっていた。







 薄汚れた天井の木目をぼんやりと見つめながらエリカは、右腕で額の粘っこい汗の粒を拭った。

 早朝だというのに、うだるような暑さが不愉快だ。


「久しぶりだな……あの頃の夢を見るの……」


 シャーロック・ホームズから生じた悪魔の足のワードの攻撃を受け、幻覚を見せられたせいだろうか?

 一番見たくない頃の夢。

 思い出したくない記憶。

 自分がグリムハンズであると知って以降の暮らしは、とても幸福に満ちている。

 けれど自覚するのは、


「あのね、刑事さん。私が殺したんだよ」


 自分の罪が消える事はないという現実であった。


「私が……殺したんだ……」


 永遠に背負い続けなければならない十字架は、冷たく重い。


 





 空谷警察署・刑事課のオフィスに、武骨なデスクが一つある。

 灰皿に雑多な銘柄の吸殻が塔のように積み上げられており、一面を埋め尽くす書類の山のどこに何があるかは、主にしか解読出来ない難解な暗号だった。

 デスクに着いている男の名は、冴木さえき竜次郎りゅうじろう。年齢は五十五歳。本庁の捜査一課に在籍していた経験もあるベテラン刑事だ。


 岩盤のように険しい面立ちに、ほんのりとした穏やかさを同居させている。

 焦げ茶のスーツは、恰幅の良い巨体を詰め込むには、いささか力不足だ。

 一番長い吸殻を灰皿から取り、口に加えて火を点ける。

 紫煙を心地よさそうに吐き出すと、乱雑な書類の群れから素早く一冊を抜き取った。

 資料の表紙には『連続不審火に関する調査書』と書かれており、油済みや脂がこびり付き、それを差し引いて考えても、相応に古いのか、紙質が劣化している。


「冴木さん。またですか」


 一人の若い男性刑事が少々辟易とした声で言った。

 冴木は、若輩者の無礼に腹を立てる素振りはなく、資料に没頭している。


「もう十年も前の事件でしょ?」

「解決してねぇ事件に、終わりはねぇ」


 三十年前、刑事になったばかりの頃、先輩の刑事から掛けられた言葉。

 冴木という男の矜持であり、刑事としての信念だ。

 けれど東大卒のキャリア組に、泥臭い考えは、あまり響いていないらしい。


「証拠ないんでしょ? それに容疑者は、幼い子供でしょ? ありえますか?」

「例えガキでも、こいつしかいないんだよ」


 冴木は、上着の胸ポケットから取り出したメモ帳に挟んでいた写真をデスクに置いた。

 幼い少女の顔写真だが、その表情に子供らしい笑みはない。


「沙月エリカ。今は十六歳。彼女の周りでは、放火と思しき不審火が三件も起きている。被害者の数は死者だけで三十九人。負傷者や行方不明者も含めたら八十二人」

「何度聞いてもすごい数ですね」

「これが放火事件なら日本の犯罪史に名を残すだろうな」

「でも不審火が起きていたのは、彼女が中学に進学するまででしょ? 何より証拠を残さずに子供が三件もの放火を成功させられるはずが――」

「最近、現場の押収物から気になる物を見つけたんだ」

「気になる物?」

「不覚にも、この間まで関連性に気付かなかったんだがな」


 冴木は、上着の右ポケットからジッパー付きの証拠品袋を取り出した。

 中には、小指の爪の半分ほどしかない煤けたガラス片が三つ収められている。


「ガラスだよ」

「ガラス?」

「どの現場にも共通していたのは、小さなガラス片が落ちている事だ」

「溶け残ったんじゃ? そんなに珍しくもないでしょ」

「妙なのは、そこじゃねんだよ」

「妙って?」

「ガラスの成分を分析した所、ガラス状の物質であってガラスじゃなかった」

「え?」

「訳が分からんだろ。しかし、そんな珍しい物が必ず現場に残されていたんだ」

「つまりは、犯人の署名的行動だと?」

「そうだ」


 犯罪者には、署名的行動と呼ばれる特定の行動に執着する者が居る。

 被害者の持ち物を盗んだり、現場にメッセージとして遺留品をわざと残したり。

 冴木は、このガラス片が沙月エリカの署名的行動ではないかと踏んでいる。


「でも……子供がやりますかね?」

「確かにな。これは直接沙月エリカへ繋がらない。だがな、もう一つあるんだよ」

「え?」

「このガキ、また火遊びをやり始めたみたいでな」

「どういう事ですか!?」


 若い刑事の驚愕に合わせて、冴木は、一枚の資料を手渡した。


「この間、空谷町で起きた事件覚えてるか? レストランでの乱闘事件」

「ああ。店内にLSDが撒かれた事件でしょ。覚えてます」

「専門家によれば、あれもLSDに近い未知の物質との事だがな」

「未知ね……」

「似てねぇか。ガラス状の未知の物質と」

「さぁ……」


 若者に響いている様子はないが、冴木は、構わずに続けた。


「あの後、現場のビルに行ったらな。面白い物があったんだ」

「面白い物ですか?」

「現場の裏手の路地にな。焼け跡があったんだよ。そして空谷町の監視カメラに最近よく映るんだわ。ある人物がな」


 言いながら冴木は、沙月エリカの顔写真を指で叩いた。


「まさか?」

「調べてみるには、十分な証拠じゃないか?」


 冴木は、破顔すると、若い刑事から資料を奪って上着の左ポケットに突っ込んだ。







 まだ朝だというのに、登校中の学生達を日差しが容赦なく照りつけ、下からはアスファルトの熱気が蒸してくる。

 草木の日差しに蒸された青い香りも、熱風を届けてくれる微風も、もう少し気温が低ければ多少の風情を感じさせただろう。

 本格的に夏めいてきて、昼でも夜でも変わらない茹だる暑さに苛立つのは、エリカも例外では、なかった。

 久しぶりに昔の夢を見たから余計に気分が重ったるい。

 少しでも気持ちをリセット出来る何かが欲しかった。


「あつーい。先生にアイス奢らせよっかな」


 気分的にバニラアイスがだろうか。

 もしくは、チョコミント?

 本音を言えば、どれでもいい。

 冷たいものを食べたら、さかむけた心に、少しは安らぎを与えられる気がする。


「やぁ」


 甘い思案に、野太い声が割り込んでくる。

 エリカが振り返ると、


「久しぶり」

「刑事……さん?」


 冴木竜次郎の姿があった。

 思いもよらぬ人物の登場にエリカの思考回路が凍り付く。

 何故、ここに彼が居るのか?

 何故、今更姿を見せるのか?


 童話研究会に入ってから、自分が犯した罪について考えない時間が増えてきた。

 おこがましいとは思いながらも、安寧な時間を享受してもよいのだと、仲間が許してくれるから。

 冴木の存在は否応なく、あの日の全てを思い出させる。


 彼は、両親を失ったエリカに誓ったのだ。

 もしもこの火災が事件なら真犯人は必ず捕まえると。

 例え何年掛かったとしても――。


「今は、この近くに住んでるのかい?」


 そういう事なのだろうか?


「ええ。まぁ」


 何年掛かっても追いつめる。

 放火事件の真犯人を。

 沙月エリカわたしを――。


「へぇ。どんなところ?」

「アパートですけど」

「木造?」

「何が言いたいんですか?」

「別に。どうしてるかと気になってね」

「元気にやってますよ」

「君は、ね」


 声音は優しいが言葉は鋭い。

 両親が焼死した事件の時出会った冴木は、エリカに対して深い同情の念を向けていた。

 叔母夫婦が犠牲になった二度目の頃、疑惑が混じり、三度目の施設での火災の時から冴木のエリカを見る目が確信へと変わった。

 そして冴木の確信が真実に届いている事をエリカは、よく知っている。


「仰りたい事があるなら、はっきり仰ったらどうですか?」


 懸命に声の震えを抑える。


「一人暮らし?」


 何気ない問いなのに、太い棘が心臓に刺しこまれるようだ。


「質問に、質問で返さないでくれますか? 機械と喋ってるみたい」

「空谷町で何していた?」


 ――何故そんな事を聞く?


 マリーの事務所に出入りするようになって、週の半分は、空谷町に足を運び、彼女と遊んだり、時には、グリムハンズの仕事を手伝っている。

 もちろんマリーとの仕事について、詳細を言及する事は出来ない。

 しかし、ある可能性がエリカを過ぎった。


 冴木がグリムハンズとワードについての事情を知っていたら?

 事実、正太郎には、旧知の仲の警察関係者がいるようだ。

 冴木もグリムハンズの協力者か、存在を知る者かもしれない。

 少なくとも、そうではないと、否定出来る根拠は、なかった。

 もしも事情を知っているのなら、知っていてエリカの罪を裁きに来たのなら――


「レストランであった事件を知っているか?」


 エリーゼでの事件を持ち出すのは、冴木が真実を知っているか、あるいは知りつつある証拠だ。

 下手な受け答えをすれば冴木に、さらなる情報を与える事になりかねない。

 どう切り出すべきか?

 どう答えるべきか?


「ええ。死者も出た乱闘事件ですよね? ニュースでやってましたけど、それが何か?」

「事件に興味でもあったのか?」


 最善手は?

 対して悪手は?


「なんで?」

「君が店に出入りしてる様子が監視カメラに映ってたんだよ」


 冴木は、スマートフォンを上着の胸ポケットから取り出すと、画面をエリカに見せてきた。

 それはエリーゼが出店していたビルに、エリカ達童話研究会の面々が入っていく瞬間の写真だ。


「これが現場の裏路地の写真。こっちは監視カメラがなかったんで、俺が自分で撮ったんだがな。焼けてるよな。道路や壁が」


 画面をフリックして出て来たのは、ビルの裏路地の写真であり、壁や道路に焦げた跡が残されている。

 これは、シャーロック・ホームズから生じた悪魔の足のワードにエリカが灰かぶりシンデレラを使った際に出来た焼け痕だ。


「不思議だよ。君が居る所には、必ず火が付いて回る。これで四度目だ」


 グリムハンズであると知らず、単なる放火犯だと思って追及しているのか。


「不思議だと、思った事はないのかい?」


 グリムハンズであると知りながら、追及しているのか。


「偶然じゃないですか?」

「四度はな、偶然と言わないんだよ」


 どう答える?

 どう切り抜ける?


 ――あれ?


 エリカは、気付いた。

 自分が罪から逃れようとしている事に。

 今まで罪を償おうとしてきた。

 罪は、償うべきだと思っていた。


『私をなるべく苦しめて殺してくれる? 今化け物が出来る贖罪はそれぐらいだしさ』


 死を与えられる事を望んでいたはずなのに。

 裁かれるべきだと分かっているのに。

 望みどおりの幸福を手に入れて、手放すのが惜しくなったのか?

 このまま幸せに暮らしていく事が許されるのだろうか?

 罪を認め、罰を受けるべきではないのか?


「ここで君は、何をしていた?」


 願いが叶う機会が目の前にある。

 一言でいい。

 たった一言。

 こう言ってしまえばいい。


『私がやりました』


 あの頃とは、違う。

 今では、自分が犯した罪だと自覚している。

 自分の正体が分からず、化け物ではないかと怯えていたあの頃ではない。

 罰が向こうからわざわざ来てくれたのだから、甘んじで飲み干されてしまえば――。


『エリカちゃん』


 涼葉なら何と言うだろうか。


『沙月さん』


 薫ならどうするだろうか。


『エリカ』


 正太郎なら――。


「答えられないのか? どうなんだ?」


 ――私は。


「俺と一緒に、部活動をね」


 温かな声と共に、エリカの右肩を安らぐ温度が撫でた。


「如月先生?」


 正太郎は、軽くエリカの肩を叩きながら微笑み、冴木へと顔を向けた。

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