二頁:エリカの願い

「人に憑りつくワード? なくはねぇが、そこまで発生例が多いわけじゃねぇからな」


 部室を訪れた正太郎に、エリカは、これまでの経緯を話したが、彼の反応も薫と大差はなく、エリカの説に信憑性を見出せていないようだった。

 エリカとしては、会心の推理だと思っていただけに、二人の態度が好ましくなくて食い下がった。


「事例自体は、あるんだよね?」

「まぁぼちぼちな。ただそんなに影響がでかくなってるなら……」

「なってるなら、なに?」

「グリムハンズなら憑依してるワードの姿を確認出来るぞ。お前達ワードの姿は見なかったんだろ?」

「うん。分かんなかったけど……」

「気配を感じたりとかは?」

「ないけど……」

「じゃあ憑依型の線は、消えたな」


 とすると、涼葉の不調の原因は?

 本当にただの原因不明?

 ワードという存在を知ってしまったが故に出て来た誇大妄想?


 エリカには、淡い期待があった。

 涼葉の痛みの原因がワードなら、なんとかしてあげられるかもしれない。

 ワードを退治して、救えるかもしれない。

 もしも、この一件にワードが関係していないのなら、一体誰が涼葉を救ってやれるのだろうか?


「先生、何か思い当たる事ない?」


 だから諦められなかった。

 自分が助ける力を持っている、ワードであってほしかった。


「お願い。何でもいいからさ」

「まぁ、となると……遠隔的に影響を与えるワードの可能性が高いな」

「例えばどんなの!?」


 不謹慎だとは思いつつも、ワードの仕業という可能性が潰えていない事が喜ばしくて、エリカが嬉々として尋ねる。

 正太郎は、後頭部を右の掌でこすりながら天井を仰ぎ見た。


「魔性をモチーフにしたワードだな。魔女とか魔法使いとかそういうの。他にも色々とあるけどな……」


 そして、しばしの沈黙の後、


緊箍児きんこじが似てるか?」


 聞き覚えのない単語に、エリカの頭に疑問符が浮かんだ。


「きんこじ?」

「なにそれ?」


 薫も同様らしくエリカに同調してくる。

 そんな二人に正太郎は、憐憫の眼差しを向けた。


「お前等、知らないのか? 孫悟空が頭に着けてる輪っかだよ」


 ――輪っか?


「輪っかなんかつけてたっけ?」

「は? つけてんだろ」


 孫悟空が頭に輪っかを付けている。

 エリカの記憶に、そんな場面は思い浮かばなかった。


「つけてないよ。ねー薫君?」


 薫に同意を求めると、彼も頷いてくれる。


「僕も知らない。そんな話あったっけ?」

「もしかして……死んだ時かな?」

「ああ! あれ、きんこじっていうんだ。天使の輪っかかと思ってた!!」


 エリカと薫の疑問が晴れ、憑き物が落ちたみたいに晴れやかであったが、対する正太郎の表情は、一層憐れみの念を強めている。


「お前らさ。俺が言ってる孫悟空は、手からビーム撃ったり、金髪に変身する漫画の方じゃねぇからな」

「え?」

「え?」

「宇宙人じゃねぇからな。猿の方だからな。中国のさ。西遊記のさ。三蔵法師の」

「え?」

「え?」


 ピンと来ていない様子のエリカと薫に、正太郎の嘆息は大きくなるばかりであった。


「そっか。現代っ子に孫悟空って言うと、あれを連想するか。こりゃその内、日本で発生する孫悟空関連のワードは、漫画の方に変わるな」

「先生何言ってんの?」

「いやもういい。もういいわ。俺が悪かった。現代っ子の常識舐めてたわ。とりあえずあれだ。漫画以外も読もうな」

「西遊記ぐらい知ってるよー」

「嘘つけ!」

「本当だって。ねぇ薫君」

「ねぇー」

「絶対嘘だ! お前等のあの顔は、本当に知らない時の顔だ!! 教師舐めんなよ!!」

「で、きんこじってなに?」


 エリカが聞くと、正太郎は、舌を打ってから、いつも通り饒舌に語り始めた。


「西遊記の孫悟空は、頭に金色の輪っかを付けられてるんだ。これは暴れ者の孫悟空の行動を戒めるためにつけられたもんなんだ。三蔵法師が呪文を唱えると、これが締め付けられて苦痛を与えるって仕掛けさ」

「猿だもんね。何かしらで制御しないと言う事聞かないか」

「おいエリカ、馬鹿にするなよ。今じゃ天界での暴れっぷりと、猿って言う外見的特徴が先行して、ただの暴れん坊みたいに思われてるが、実際の孫悟空は、作中でもトップクラスの仙人だからな。超天才だからな。めっちゃ頭いいからな」

「猿なのに? うっそだー」

「反省とか、すぐ覚えそうだな」

「あれ可愛いよね!」

「頼むから本を読め、若人よ。そして国によっちゃ神様として信仰されてるからな。馬鹿にしてると、罰当たってもしらねぇぞ」


 これ以上茶化すと、正太郎は、本気で怒りそうだ。

 普段、万事において飄々ひょうひょうとしているが、文学に対してのみ正太郎は、固執こしつする。

 現代文の教師である仕事柄やグリムハンズという理由だけでなく、純粋に文学を愛しているのだろう。

 だから悪ふざけもここまで。

 脱線した話題を戻すべく、エリカは、わざと固い声を作って言った。


「で、どんなワードだったの?」

「半径五キロ以内の特定の犯罪者に対して激しい頭痛を引き起こす。そして存在が顕現に近付いていく毎に強力になり、しまいには念力で人間の頭を潰すようになった」

「こわ!」

「ただし、そうなったのは思慮の浅いグリムハンズが顕現させずに無理に討伐したせいだ。そのせいで本来緊箍児という言葉の持っていた意味が歪められ、惨劇が起きたんだ」

「ごめん……」


 この間の『お爺さんとお婆さん』の一件を咎められていると思ったのだろう。薫のテンションが急速に萎れていった。

 薫の落ち込みようは、正太郎にも予想外だったらしく、焦燥を露わに、しかし穏やかな声音を紡いだ。


「同じ失敗をしないならそれでいい。ていうか俺も偉そうに言える立場じゃないからな。あの一件は、もっと気遣うべきだった。悪かったな」


 ここは、エリカも話題の路線変更に協力すべきだ。

 類似した事件があったなら、涼葉の件もワードが引き起こしていると仮定出来る。

 エリカは、足元にすり寄ってきたにゃん子を抱き上げると、右前足を軽くつまんで掲げた。


「なんにせよ今回の原因を突き止めないとね。おー」

「ワードと決まったわけじゃないぞ」


 正太郎は、釘を刺しつつも、


「まずは、悠木に詳しい話を聞くところからだな」

「おー」


 エリカの鼓舞に、微笑みながら頷いた。







 彩桜さいおう市立病院を照らす夕日は、いつよりも紅が強く、炎の色を彷彿とさせる。

 夕焼けは、いつもエリカの心をざわつかせた。

 自分がグリムハンズと知ってからは、昔ほど嫌いではなくなったけれど、今日の夕日は、全てを失った炎によく似ている。


 理由も分からず、苦痛と向き合う理不尽さをエリカは、よく理解している。

 だからこそ、悠木涼葉の件が手を伸ばせる範疇の出来事であってほしい。

 ワードが起こしている事象なら、自分グリムハンズが救えるはずだから。

 三〇二号室の個室に涼葉は入院しており、想定していなかったであろう三人の来客に、彼女は驚きを隠さなかった。


「こんにちは」


 エリカが会釈すると、涼葉は、戸惑いがちに上体を起こして会釈を返してくれる。


「こんにちは……あなたは?」

「一年の沙月エリカと亀城薫です。この人は」


 エリカが正太郎を指差すと、涼葉は、正太郎にお辞儀をしながら微笑み掛けた。


「如月先生の事は、存じております。ご迷惑をおかけしてすいません」

「気にするな。それでな悠木。変に思うかもしれないけど、この症状について話を聞かせてくれないか?」

「症状……ですか?」


 戸惑う涼葉だったが、正太郎は、お構いなしにベッドの傍らに近付いた。


「ああ。ひょっとしたら役に立てるかもしれないんだ。親父は、漢方医でね。西洋医学で分からん事も案外東洋医学なら何とかなるかもと思ってな」

「漢方ですか?」

「あれもれっきとした薬だ。西洋医学が主流の現在じゃインチキ扱いされる事もあるが、ちゃんと効果あるんだぜ」


 さすがにいきなりグリムハンズとワードの話をしたら変人扱いされるのが関の山。

 西洋医学でダメなら東洋医学という理由付けは、自然だ。

 事実、正太郎の言葉を聞いた涼葉に、疑惑や不信の情は浮かんでいない。


「そうですね。聞いていただけますか?」

「ああ。もちろん」


 正太郎が相槌を打つと、涼葉が語り始めた。







 事の始まりは、一週間前。

 涼葉が彩桜高校にある弓道場で一人練習をしていた時、突如視界が真っ黒に塗り潰された。

 時刻は、午後六時だが、まだ日は沈み始めたばかりで、少々薄暗い程度。

 なのに突然、悠木涼葉の世界は、闇に支配されてしまった。


 最初は目の辺りに何かが張り付いたのかと思って、顔に触れてみるが何もなく、瞼を開けたり、閉じたりしても暗闇が変わる事はない。

 まさか失明でもしてしまったのか?

 計り知れぬ不安が伸し掛かり、涼葉の精神は乱れていく。


「だ、誰か!!」


 誰でもいいから、声が届いて欲しい。

 喉を潰しかねない悲鳴を上げるも、誰も駆けつけてはくれなかった。

 電話をかけようにも、道着姿でスマートフォンは、通学鞄の中にある。

 何も見えない今、更衣室までたどり着くのは不可能だ。


「お願い!」


 下手に動いても怪我をしてしまうかもしれない。

 涼葉は、その場から動けずに、声を上げ続けるしかなかった。


「目が見えないの!!」


 そう言った瞬間、背後に気配を感じる。

 咄嗟に振り替えると、漆黒に染まった視界が薄ぼんやりとした光を受け止めた。


 ――治ったの?


 まだ視界は、滲んでおり、はっきりとは見えない。

 眉間に皺を寄せて懸命に光を集めると、今度は視界が灰色の毛に覆い尽くされた。

 その瞬間、異臭が鼻を突く。

 埃とカビと獣の匂い。

 弓道場の心地良い木の香りを涼葉の嗅覚は、感じ取れなくなっていた。

 困惑のまま、視界いっぱいにある毛を振り払おうとする。

 だがいくら手を動かしても、毛を掃えないどころか、手が見えない。


「なんで?」


 目を手で覆ってみるも、今度は光を遮る事が出来ない。

 狩らぬ景色が目を閉じても、掌で覆っても変わらずにある。

 状況を飲み込めず、次々に五感が奪われる恐怖に足がすくみ、動けないでいると、視界を覆っていた灰色の毛が動き出した。


 ――生き物?


 よく見るとそれは、ネズミである。

 しかし身の丈は、一七〇センチ超の涼葉が見上げるぐらいに巨大で、ヒグマ程はあるだろうか。


「なにこれ……うそ、どうしよう!?」


 眼前の怪異にたまらず悲鳴を上げたが、涼葉には自分の声が聞こえなかった。

 まさか、耳までどうにかしまったのだろうか?

 だがその状況あっても涼葉は、冷静さを完全に手放す事なしなかった。

 奇怪な状況だが、畏怖し、戸惑っている場合ではない。

 一刻も早く逃げ出さなければ。 


 けれど振り返っても、視界からネズミが消える事はない。視界が固定されていて、どこを向いても同じ景色しか映らないのだ。

 逃げ出そうと、走り出すが、足がもつれて顔から倒れた。

 頬に痛みと共に、木の床の冷たさを感じるが、次第にどちらも失われていく。

 痛みが引いたのでも、体温で床が温まったのでもない。

 触覚と痛覚を失ってしまったのだ。


 涼葉は、這うようにして道場から出ようともがいた。

 けれど視覚は、ネズミを映し、嗅覚は、埃とカビとネズミの匂いしか感じない。

 触覚も痛覚もないから、自分が床を這っているのか、動けているのかすら理解出来ない。


 涼葉の瞳が巨大なネズミを見つめ続けていると、ネズミは鼻をひくつかせながら牙を剥き、襲い掛かってきた。

 咄嗟に後方へ飛び退こうとした涼葉だったが、感覚を失った今はそれすら出来ず、あるいは出来たが認識出来ないのか、容易く涼葉を捕えたネズミが顔を近づけて来た瞬間、腹部を抉るような痛みが走った。


 ネズミの前歯が腹の柔らかな皮をかじって引っ張っている。

 ちゅくちゅくと小刻みに口を動かし、皮膚を口内に運んでいった。

 ピチピチと肉の弾ける音が上がり、血を啜る水音が反響して涼葉の鼓膜に届いてくる。

 未だかつて経験した事のない激痛は、容易に涼葉の意識を刈り取り、


 ――私、ここで死んじゃうんだ。


 そう考えながら目を覚ました時、見えた白い天井を天国の景色だと涼葉は、錯覚した。

 だが、実際には、病院のベッドの上だった。

 視覚は、正常に戻っており、嗅覚も病院特有の消毒液の匂いを感じる。


「あ。あ。あー」


 声を出してみると聴覚も正常だ。

 頬をつねってみる。触覚と痛覚も元に戻っていた。


「助かったんだ……」


 ひとまず安堵して、涼葉は、ネズミに食い散らかされた自分の腹に触れる。

 酷い痛みであったから、きっと傷だらけであろう。

 パジャマを脱いで、傷口を確認してしようとしたが、


「うそ」


 痛みを感じていたはずの腹部何故か無傷であった。


 ――夢だったの?


 自分に問い、夢では有り得ないと認識する。

 あの痛みも恐怖も、全ては紛う事なき、現実であった。

 どれほど現実離れした経験でも、夢ではありえないはず。

 しかし現象を体感した証拠は、涼葉の身体には残されていなかった。

 そして、悪夢は終わる事なく、それ以来涼葉は、発作のように五感の異常と激痛に襲われるようになった。







 涼葉の話を聞き終えた正太郎は、暫し腕を組んでいた。

 言葉を選んでいるようである。


「今日の発作の時も、ネズミが見えたのか?」


 正太郎の問いかけに、涼葉は、一旦頭を横に振ったが、すぐさま首肯に転じた。


「いえ。ネズミは。でも見た物はあります」

「なんだ?」

「今日は、猫でした。巨大な三毛猫が見えて、そして襲われて……」

「猫か」


 涼葉の証言を聞いた正太郎は、こくこくと頷きながら思案に耽り出した。


「あの……何か分かりましたか?」


 涼葉の気遣わしい声が正太郎を思考の海から引き上げる。

 正太郎は愛想よく破顔し、涼葉の肩に手を軽く叩いた。


「親父に聞いてみるよ。大丈夫。必ずなんとかする」

「お願いします」

「俺のスマホの番号だ。何かあればここに」


 正太郎は、朱色のジャケットのポケットから千切れたメモ用紙を涼葉に手渡した。


「はい」


 メモを眺める涼葉の表情に、僅かばかりだが安堵の色が浮かんでいる。

 正太郎に来てもらってよかった。

 誰よりも強くそう思ったのは一歩離れて、その光景を眺めているエリカだった。

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