第13話 忠の人 情の人

 けんちゅうこう(現在は「建武の新政」)と言われている。

 それはまさに最悪の時代となった。

 まずは恩賞に対する不満が出た。

 公家にあつく、武家に薄い。

 悪党連中には沙汰さたさえない者が続出した。

 もっとも厚遇されたのはぐさ忠顕ただあきである。

 彼は、確かに隠岐脱出に功のあった人物ではあるが、都奪還に万余の兵を授かりながら、大敗して赤松円心を頼った男である。

 その円心こそ、冷遇された武将の代表であろう。

 大塔宮の令旨を受けて千早城に旗揚げした楠木にもっとも早く呼応し、六波羅軍と何度となく激闘した彼に与えられたのは、本領の安堵だけ。

 もともと支配していた地域を恩賞だなどとは、あまりにも酷い仕打ちといえよう。

 おそらく此度の戦で、もっとも消耗したのは、この赤松一党であるといっても過言ではない筈だ。

 ちなみに、この論功行賞で名和長高は長年の名を、足利高氏は尊氏の名を帝より贈られた。

 公家たちはわが世の春をおうして、下々の事など気にもしない。

 彼らがそうでは、民と切り離された帝がこの国の実情を理解出来ようもなかった。

 だけでなく、自ら望まれたご親政ではあったが、膨大な仕事量に嫌気をさしてしまわれたようで、准后じゅごう阿野あのれんら利己的で甘言かんげんばかりする者をお側近くに置き、万里小路藤房など諌言かんげんする者を遠ざけた。

 幕府も、院政いんせいせっしょう関白かんぱくさえ否定して行われた天皇親政のそれが現実の姿だった。

 理想とする万民の幸福とはおよそかけ離れていた事に、じくたる思いでいた正成はしかし、不満を口にする事なく凡々と日々をやり過ごしてきた。

 朝廷の臣としては、愚鈍とも思える程にしか活躍しない。

 ふらりと所領に戻っては水分みくまりに館を建て直し、戦の死者を弔う為か寺なども建立する。

 その一方で、流通を差配しながら荒廃した田畑を百姓たちと耕した。

 楠木の勢力範囲は、戦前すでに和泉いずみ河内かわちと拡がっていた。

 今度の恩賞では、実効支配にお墨付きを得たというに過ぎない。

 が、それは楠木一族にとってはまつな事だった。

 領土支配はともかく、流通の支配は畿内一円に拡がっている。

 正成には、そちらの方が重要であった。

 彼自身には土地への執着はない。

 ただ、民の大多数を占める百姓が土地を必要としており、そんな彼らが平穏に暮らせる事を望む正成がいる。

 和泉河内の領地は、民の平穏を守る為に自分が治めている。

 そういう意識が彼の中にはあった。

 政治の世界に目を向けると、武家のとうりょうとして新幕府樹立を企む足利又太郎尊氏がいた。

 彼が恐れたのは、彼の宿願を見抜いているようだった大塔宮護良親王と、千早城一つで二十万もの軍勢を相手にわずか千やそこらの戦力をもって守り通した楠木河内守かわちのかみ正成の実力だった。

 大塔宮の方はいくらでも思案がついた。

 彼自身には軍事力がない。

 親王故の短慮たんりょなところもあってなお、直情型のご気性であった。

 このような人物を政治的に追い落とすことなど、鎌倉幕府の中を処世してきた足利党にとって、朝飯前の事だった。

 事実、阿野簾子を中心に反大塔宮分子に鼻薬を嗅がせると、いとも簡単に失脚させる事が出来た。

 どころか、帝御自らこの尊氏に、鎌倉への護送を命じてきた。

 しいしてもよいという事か。

 と、尊氏は帝の冷酷なご処断に苦いものを感じている。

 彼自身は朱子学を心得ている。

 いや、正成と同等な程に教養化しているといってもいい。

 だから、下向に付した弟馬頭まのかみ直義ただよしには「弑する事を禁ず」と厳命したのだが、帝は一体どうお思いなのだろうか。


「忠義の思想は、帝のお心うちではすでに万民の節理なのですよ」


 尊氏がいちの望みを込めて京の楠木屋敷を訪れたのは、大塔宮が鎌倉へ着いたという報告を受けた翌日だった。


「では、帝はご親王を殺す者などいないと、そうお考えだというのですか」


「おそらく、そうお考えでおられましょう」


 正成は現実を知っている。

 たぶん事実も、経過まで知っていよう。

 尊氏は自ら訪ねておいて、いたたまれない気持ちになっていた。

 自分が大塔宮を追い落とした首謀者であると知っていてなお、大塔宮派の第一人者楠木正成が冷静に応対してくれている事が感じられる。

 判るからこそ、哀しかった。

 努めて穏やかな表情を尊氏に向けてくれている裏に秘められている、その心中の痛切さが、尊氏の後ろめたさをより増幅させた。

 そして、そんな正成だからこそより一層「味方に」という思いが募っているのだ。


「楠木殿。帝のご親政では、世は治まらぬ。二条河原の落首が雄弁に物語っております」


 此比コノゴロ都ニハヤル物。

 夜討、強盗、ニセ綸旨。

 召人メシウド、早馬、ソラ騒動サワギ

 生頸、還俗、自由出家。

 …………。


 正成は、もうそらんじられる程だった。


「武家の間では、はや鎌倉殿の頃を懐かしんでいる。やはり武家の棟梁が必要だと、皆がそう思っております」


 尊氏は、このまま一思いに「是非御味方を」と言ってしまいたい衝動をかろうじて抑えた。


「楠木殿、どう思われますか」


 正成の口は重かった。

 悪党上がりで商家のはしりである正成の情報網は、当代随一であったろう。

 尊氏に言われなくとも、武家の不満はよく判っている。

 尊氏の野望も知っている。

 いや、尊氏の野心には、討幕の事を起こす前から気付いていた。

 大塔宮は、どうやらあの日の正成の言葉を胸にとどめていたようだ。

 だとすれば、宮を追い込んだのはこの正成という事になる。

 正成は尊氏に気取けどられぬように奥歯を噛みしめ、込み上げる自責の念を堪えていた。

 長い瞑目めいもくの後、穏やかな眼差しと口調で語りかけてきた言葉は、尊氏の予想を遙かに超えるものだった。


「足利殿。これは大塔宮様にもお話しした事なのですが、下々の暮らしの中には、幕府も朝廷もございません。朝廷が必要なのは公家だけ、幕府を必要としているのも武家だけの話で、百姓や樵、馬借たちの日常には、あまり関係ないのです」


 清和源氏の流れを汲む足利家当主には、朝廷か幕府かの選択しかなかった。

 その両方を目の前の土豪は関係ないという。

 それは、どちらもいらぬという否定なのか。


「これはしたり。では、楠木殿は政は必要ないと仰せられるか」


「さにあらず。老子に『じょうぜんは水のごとし』とあります。水の如くあれば、民草も頼みましょうほどに」


 水は万物に恵みを施し、自分は争わず、衆人のにくむ場所にいる。

 人には仁を、言葉には信を、政においては治(秩序)を、事の処理には能(実効)を、行動は時をたがえない事をしとすれば、人は争わず、決して間違う事もない。

 という教えである。


「それを知っておいでの楠木殿が、なぜ帝に忠義を」


「主を次々に変えるようでは、忠義とは言えますまい」


「だが、このままでは……」


「足利殿」


「はい」


「国を割る事は、民の為になりませんぞ」


 やはり気付いていた。

 尊氏は、穏やかな表情にあって、深い憂いを宿した正成の瞳に沈黙せざるを得なかった。

 この男は、何があっても帝の臣下として一武将であり続ける男だ。

 という絶望感だけが広がった。

 尊氏も、忠義のなんたるかを知っている数少ない一人である。

 しかし、彼は一方で武家の棟梁になりつつもあった。

 いや、彼自身がそうなるように仕向けてもいた。

 だから、出来得るならば帝御自らこの尊氏を征夷大将軍に任命し、幕府を開く許可をくだしてもらえぬかと強く願い、運動もしていた。

 だが、今上の後醍醐天皇はお許しにはならない。

 尊氏自身は帝の代替わりまで気長に待っても良かった。

 しかし時勢が、武家は待ってはくれそうにもない。

 事実、ご親政に不満を持った勢力が次々と各地で蜂起していた。

 正成は、黙々とその討伐に出動している。

 内心、身を切る思いで戦っている事は想像に難くない。

 わずか二年前までは、共に戦っていた仲間なのである。

 今上の帝は、もう少し英邁なお方だと思っていた。

 だか、いざ権力の座に昇り詰めると下々の事など顧みる事さえしなくなった。

 宮中だけがこの世と思われているようだ。

 あるいはそれが、貴族というものの本音だったのかも知れない。

 老子には「富貴ふうきにしておごれば、自ら其のとがまこす」とある。

 朱子学に傾倒した貴族たちには、老子の教えなどかびくさいだけなのだろうか。

 朱子学のもつ名分節義を自分たちに都合良いところだけ下々に押付けている彼らを、正成はどんな思いで見ていたのだろう。

 正成による忠義の解釈は、彼らのそれとはおよそかけ離れていたのだと思う。

 貴種だから忠するのではない。

 下々の為になる信頼出来る主君だからこそ、真心を持ってお仕え出来るというものだ。

 それはただの知識ではない。

 朱熹が考え出したものでもない。

 長い間の、人の営みの中から見出されたものなのだ。

 正成は、彼に従う楠木一族郎党や領内の百姓、樵たちを見てそう思う。

 彼らは、朱子学を学んで正成に忠勤してくれている訳では決してない。

ただ彼の真心が通じ、彼らが真心で返してくれているのだ。

 そんな楠木党だからこそ、赤坂、千早を戦い抜けたのだ。

 後の湊川の戦いも、そうした関係がなければ考えられない。

 正成は、涙もれていた。

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