最終日「手紙」

 あれから数十日が経った。

 彼女が飛んでから夏休みが終わるまで、長く苦しい時間が延々と続いたことを今でも鮮明に思い返すことができる。




 彼女が夕日に飛び、私はその場に崩れた。

 泣き喚くように喉を鳴らしながら、最後の理性で警察と消防に通報。数分後駆けつけた警察は泣き崩れる私を任意同行という形で署へ連れて行った。

 そこからは度重なる事情徴収と取り調べ。私は彼女の言葉の通り、署で全てを話した。私の罪に最も相応しかったのは自殺幇助。彼女は私が罪を被せられることに納得しないだろうが、現実問題難しい話だとは思っていた。その覚悟のうえで彼女を見送ったのだ。

 しかし、私の立場はどんどんと好転していった。

 まず警察署宛に届けられた彼女の遺書。聞いた話によればその内容は、両親を始めとする彼女の周囲の人間に一切の非はないという言及から、自分の自殺を知っていた者を糾弾しないで欲しいという願い。そしてその人達に、他言することで自死を選ぶという脅迫を含んだ言葉を掛けたとする内容と、それに関する様々な証拠が連ねられていたらしい。

 推察するに私と彼女が交わした約束を綴ったノートのページもそれに使われたのだろう。

 私が彼女と橋の上で出会った際、咄嗟に止めようと走った姿や、彼女の最期を説得するように語り掛けている姿は、河川の氾濫を監視するためのカメラ映像に残っており、私が彼女の自死を止めようと動いていた証拠にもなったらしい。

 彼女が残したのはそれだけではない。

 彼女が飛び降りた直後、動画投稿サイトに一つの動画がアップロードされた。

 今まで生きていくうえで隠してきた自分をそこで曝け出すように、私に話した自分の人生や死生観を語り。病気の理不尽さと、自身の抱える恐怖。そして人間の命の自由について考えを纏めた動画だった。

 インターネットの拡散力は大きく、規制されても誰かが無断で保存し、無断で公開する。そうやって日本中に広がる網の上を彼女の言葉は渡り、マスコミの目にも留まった。

 勿論彼女の両親は私と比にならない苦痛の時間を過ごしたのだろう。話題ができたマスコミはこぞって集まり、報道し、賛否を電波でばら撒いた。それにも負けず彼女の両親は「娘の考えを尊重した」と訴え続けた。

 彼女の両親のその後は分からない。私も自分のことで精一杯だった。結果として私は数日で自宅に帰ることができ、弁護士からはこのままいけば不起訴で終わるだろうという話を聞かされた。これも聞いた話だが彼女の両親が私に対して強い感謝を抱いていたらしい。それが調査に関係したのかは分からないが、激動の中にいる人間に感謝されるほどのことを私はしていない。むしろ私は彼女にしてもらったんだ。

 そんなことは言えないまま見上げた夏の空は青く、彼女がこの結末にどのような感情を抱いているのか考える。

 きっと納得はいっていないのだろう。しかし、笑ってくれていると、思う。

 私の身に起こった後始末はそんなところだ。

 実名は公表されず、教師が生徒と一カ月を共にしたという内容も詳しく報道されることは無かった。

 学校側も自殺者が出たことによる対応に多忙を極めている。学校側にどれ程まで事情が伝わっているのかは分からなかったが、私が戻る場所なんてそこには一切ないように思えた。

 だから私はこの件を機に教師を辞める決意をした。

 元より自分ではない男の目指した夢だ。その時には過去の自分が己に課した罪の意識は薄れていて、教師という名前を手放すことに躊躇いは無かった。

 不起訴という事もあり、学校側が下した判断は元の契約期間をもっての退職。つまり今見ている生徒を送り出すのと同時に、私も教壇から降りることができる。

 教師に執着は無くても受け持っている生徒の将来には少なからず責任を感じていたから、私は残りの半年を最後の贖罪として受け入れた。

 もちろん両親にも全てを話した。母親とも腹を割って話す機会が生まれ、少しは距離が縮まったとは思う。両親に今後の身の振り方を聞かれ、私は一つの目標を語った。明確なビジョンはない。実現する可能性もわからない。ただ、私が向かうべき方角はなんとなく決まっていた。方位磁石が自然と北を向くように、私は莉緒に向かっていた。家族の間で交わされる話題としては不適切な物だったけれど、結果として二人は私の背中を押してくれた。これも莉緒が残してくれた物なのかもしれない。彼女は何から何まで私の面倒を見てくれる。頭が上がらない。

私は始業式の帰りに大きな図書館に寄り、臨床心理士に関する本を片っ端から借りた。

 私は彼女が知りたかった。

 その時の感情が原動力だった。

 彼女の考えを理解していたなんて到底言うことはできない。私の解釈が全然の的外れだった可能性もあるし、私の中の莉緒とは逆のことを考えていたかもしれない。それでもなんとなく、本当になんとなく、彼女を「わかっていた」ような気がしないこともない。

 だから勉強したいと思った。

 私は理解したいんだ。

 藍原莉緒という女を理解したい。

 藍原莉緒という哲学を理解したい。

だから私はこの道を選んだ。

後日、彼女のカウンセリングも行っていたと言っていた鴨田先生に謝罪を兼ねて連絡を入れた。是非会って話がしたいと言うので緊張しながら赴くと、鴨田先生は私に一通の封筒を手渡した。「彼女から頼まれてしまいまして」

そう言って笑う先生の顔は穏やかで、彼女が幸せに人生を終えたことに対して、安心しているようだった。




ここまでが私の激動の数十日。

慌ただしくて、儚くて、呆気ない、夏の終わり。

そしてカレンダーは九月になった。




その日は夜明けから静かに雨が降り、出勤する頃には青空が広がり、日中は涼しい晴れ模様。

つまり何が言いたいかと言えば、帰り道の路地が鮮やかな赤で染まっていた。

ふと気が付くと耳に入るのは蝉時雨ではなく、鈴虫の大合唱。いつの間にか肌に羽織るものが一枚増え、バスの冷房は穏やかになった。

 もう秋が近い。

 彼女と過ごした夏はもう終わりを迎えるんだ。

 玄関の鍵を開けると、私は煙草とライターを掴んでベランダに出る。

 くすんだ赤。その夕日を眺めながら、私は煙草に火をつける。

 夕日より幾分か鮮やかな色をした炎がじりじりと先端を焼く。ゆっくりと息を吸うと、不味い煙が喉を焦がして体に満ちる。

 静かに息を吐くと共に、優しく涙が零れた。

「煙草も、咽なくなっちゃったよ」

 その言葉は佳晴に向けたのか、莉緒に向けたのか。それとも過去の自分に向けたのか。

 過去を体に刻むための自傷行為だったそれを、少しだけ受け入れることができるようになった。

 苦くて苦しいだけだった味にも、今では落ち着きを覚える。

 これは過去を振り返る味。自分を傷つける為ではなく、過去を懐かしむための味。

 残念だったね莉緒。何もかも私も前から消したつもりだろうけど、私の中には沢山莉緒が残っちゃったよ。

 いつしか彼女が口にした言葉を思い出して、ふっと口角を上げる。

 私もだよ。

 目の前に広がる夕日に向かって、笑ってみる。

「私も夕日を見ると、莉緒の顔が浮かんじゃう」

 込み上げた熱い物を溜息のように煙と一緒に吐き出して、一度部屋の中に戻る。

 ちょっとした忘れものだ。

 私は机の上に置いてあった彼女からの手紙を、壊れ物を扱うように優しく手に取り、ベランダに戻る。

 彼女らしいシンプルな洋封筒だ。

 鴨田先生から渡されてからというものの、忙しさを理由に手に取ることはなかった。

 そして、どこかこれを読むことを拒んでいる自分がいた。

 これを読んでしまったら、本当に彼女とのお別れがやってきてしまいそうで。

 私の知らない彼女の言葉を残しておきたかったのかもしれない。

 けれど、今日の夕日を見て私は決心した。

 きっと彼女もそうしてほしいと願っているだろう。

 手紙は受け取り手が読まなきゃ始まらない。

 私は封をしてある箇所にそっと力を入れて、便箋を取り出す。

 

 夏の終わり。

 彼女との決別の時間だ。




 ねぇ、麻里さん。

 その手紙は、そんな彼女らしい言葉から始められていた。






 ねぇ、麻里さん。

 私がいなくなってからも元気にしていますか?

 ご飯はきちんと食べていますか?

 太陽の光を浴びていますか?

 前を向いて歩いていますか?

 

 この手紙は麻里さんが病院に駆け込んできた日の夜に書いています。

 昨日からずっと雨が降っていますね。

 今天気予報を見てたら、明日は清々しい陽気になるって言ってました。

 きっと、明日は綺麗に空が染まる気がします。

 そうしたら、私は明日、死にます。

 なぜだかは分からないけど、はっきりとそう感じます。

 だからここに麻里さんへの最期の手紙を残したいと思います。

 麻里さんへのラブレターです。

 手渡しできなかったのが少し心残りですが、麻里さんが持ってたら警察に押収されてしまうと思って、鴨田先生に頼みました。

 本当ならここに私の過去の話とか、病気の話とか、家族の話とかを書こうと思っていたのですが、運がいい麻里さんが病院に来てしまって全部話してしまったので、ここには最後まで麻里さんに秘密にしていたことを綴ります。


 はじめに伝えておきたいことが二つあります。

 まず一つ目。私はこの手紙で何度か謝ると思います。でも、それは私が死んでしまうことに対してではありません。私は何も悪いことはしていません。自分の命を責任をもって燃やし尽くした結果です。だからこの謝罪は麻里さんや家族に迷惑を掛けてしまうことに対しての謝罪です。きっと麻里さんもこれには分かってくれると思います。

 二つ目。この手紙を読み終えた時には、綺麗に燃やしてください。麻里さんの周りに私の残骸を残しておきたくないからです。部屋にあった私の物をすべて処分したのもその為です。だって麻里さんの部屋に私の欠片が残っていたら、きっと麻里さんは前に進めない。麻里さんは優しいからずっと過去を振り返ってしまうと思います。だからこの手紙は燃やしてください。

 そういう事で、お願いします。


 私が死んだ後、麻里さんには色々と迷惑をかけてしまったと思います。

 先生の仕事は続けられそうですか?

 私のせいで仕事を辞めることになる、なんてことが起こらないかだけが心配です。

 一応できる限りのことはしましたが、それでも麻里さんには負担をかけてしまうと思います。

 本当にごめんなさい。

 私のことは忘れて貰っても構いません。

 麻里さんが今後元気に未来を歩むことができるのなら、本望です。

 私のことはふっと出て消えていった、夏の幽霊だったとでも思ってください。

 ひと夏の間、おかしな幽霊に振り回されて、春よりも前向きに秋に進めるのであれば私は嬉しいです。


 私は麻里さんを沢山笑わせることができたでしょうか。

 さっき、夏は楽しかったかという質問に頷いてくれたことがとても嬉しかったです。


 これっていわゆる遺書みたいなものだから敬語で書いた方がいいかなって思ってたけど、やっぱり少し砕けた方が私らしいや。

 畏まった敬語だと初めて会った日みたいだもん。

 今、麻里さんいつのことを思い出した?

 多分夕日の橋の上だよね。

 実はね。違うんだよ。

 きっと麻里さんは覚えてないと思うけど、私達、もっと昔に一度だけ話したことがあるんだよ。

 それが麻里さんに最後まで秘密にしていたこと。

 出会った時から別れるまで、ずっと吐き続けてきた嘘。

 麻里さんにとってはそこまで大きなことではないかもしれない。でもね、私にはとっても大きい一瞬だったんだよ。

 これまで何度か言ったよね。

 私は麻里さんに救われた。だから今度は私の番。って。その度に麻里さんは不思議そうな顔をして、私は何もしてないって言うの。だからここで教えてあげる。


 二年半前って言えばいいのかな。

 私がこの高校に入学した日。

 多分麻里さんが初めて先生として生徒の前に立った日。

 私ね、中学の時から一人だったからまた高校は一人でいようと思ってたの。周囲に気を使われて距離を置かれて、教室の端でいつも本を読んでる。そんな静かな学校生活を送って、時間の経過を耐えようとしてた。

 病気のことは先生にしか伝わってなかったけど、同じ中学の人からすぐに広まると思って諦めてた。薬のせいで短くするしかなかった髪を見ればすぐに分かるしね。

 だからせめて「病人」じゃなくて「変人」だって周りから避けられるように、入学式には昔から使ってたニット帽を被っていったの。ううん。それだけじゃない。おっきいヘッドフォンも首にかけて、さもヤンキーみたいに。今思い返すと笑っちゃう。体を大きく見せて威嚇する動物みたいだった。

 内心怒られるんじゃないかってビクビクしてたの。比較的校則の緩いうちの学校でもニット帽にヘッドフォンはマズいだろって思ってた。入学式の日に怒られればその噂も一緒に回って一石二鳥かななんて考えたりもした。

 でもね、先生は誰一人として私を注意しなかった。

 むしろそんな私を見て憐れんだ目を向けるの。

 それが苦しくて、教室に着いた瞬間ヘッドフォンは外した。ニット帽も脱ごうか迷ったけど、コンプレックスの頭を晒すことが怖くて脱げなかった。

 もう私は入学式の前から挫けそうで、これからが不安で一杯だった。奇異な目を向けられながら廊下に並んで体育館に向かわされて。まるで囚人みたいな気分の時に、一人の先生に注意されたの。

 きっとその先生は初めての仕事に張り切ってたんだろうね。

 偉そうに、私の腕を引いてわざわざ列から外してさ。

「その帽子は何?」

 なんて質問してきた。

 帽子を外すのは怖かったから仕方なく名前を伝えたんだけど、なぜかピンときてなくて。

「よくわからないけど、特別扱いなんてないよ。高校に入ったんだからルールは守りなさい」

 なんて言ってさ。

 そこからはもうびっくりだよ。

 怒られながらしぶしぶ帽子を取ったらその先生、あろうことか笑ったんだよ。そしてなんて言ったか覚えてる?

「髪切るのに失敗したの?」

 だって。

 薬とストレスで明らかに薄くなってて、それが目立たないように短くした髪を見てその言葉だよ。本当だったらしっかり怒られる行為だよ。

 でもね、それが私には嬉しかったの。

 目の前の先生が緊張で空回りしている最中だったとしても、息巻いて説教することに夢中で洞察力が最低だったとしても、普通の人間として接してくれたことが嬉しかった。怒られるのなんて久しぶりで泣きそうなくらい嬉しかった。

 帽子を取ったらすぐに列に戻してくれたんだけど、私の潤んだ目を見てフォローしなきゃとでも思ったのか、去り際に「そんなの誰も気にしないよ」って全然的外れな言葉をかけてくれた。

 それがさらに嬉しくて。何故だかその言葉に励まされて。

 それで式の途中に開き直ったの。

 周りの事なんて気にするかって。全部曝け出して生きてやるって。

 全力で生きようって初めて思ったのもその時だった気がする。

 本当に死にたくなったら死ぬ。だからそれまでは必死に生きる。そんな決意が入学式が終わる頃にはもう私の中に固まってた。

 式が終わった後の自己紹介じゃ、自分から率先して病気のこと言って、ニット帽を取って髪の毛見せた。でも、うつることはないし、気を使わなくてもいいって明るく言いきった。

 そしたら、案外皆普通に接してくれた。高校生って大人よりも素直だなって感動した。

 次の日のオリエンテーションで新任の先生が自己紹介して、その先生の名前を知った。

 元々明るい性格だった私はいつの間にか教室でも明るく振る舞えるようになった。

 深い友達を作るのは怖かったから一定の距離は保っていたけど、普通の生活を送ることができた。

 やりたいことが多すぎて学校には不登校気味になったけど、教室で気を使われることはなかった。

 廊下で偶々擦れ違う非常勤講師は私の事なんて覚えてないように挨拶をするけれど、それでもよかった。いつの間にかその先生を自分に生きる意味を与えてくれた人みたいに思うようになって。

 気が付けば、長瀬麻里っていう非常勤講師を好きになってた。

 そして何よりやりたいことを全力でする毎日はキラキラ輝いいてて、最高に楽しかった。

 人生を謳歌してるって思えた。

 それは全部あの日、麻里さんに出会ったから。

 ただの偶然で、麻里さんをしては失敗だったのかもしれない。

 でも私は確かに麻里さんに救われた。

 麻里さんに人生を変えてもらったの。

 そんな人が、ある夕暮れの日に死のうとしている私を止めたの。

 運命だと思った。嬉しかった。けど、同時に悲しかったの。

 だって私、もう学校では有名だったからさ。きっと他の先生みたいに私を壊れ物みたいに扱うんだろうなって。他の大人みたいに私と触れ合うんだろうなって。そう思ってた。

 でも、麻里さんは私の名前を聞いても反応を示さなかった。

 それどころか、縋りつく様な目で私を見て離さなかった。

 その時は奇跡だと思った。

 舞い上がって調子に乗って、その先を望んだ。

 一応言っておくけど私が話したことは嘘じゃないよ?

 でも少し話して分かったの。この人はどうしてか自殺志願者を絶対に見捨てられない人だって。優しさとか道徳心とかそんな陳腐な物じゃなくて、自殺に対して強い何かを持ってるって。

 だから正直に自分の自殺衝動について話した。

 私、今になって思うんだ。

 麻里さん、きっと私と初めて出会った時から、私のこと知ってたよ。

 だって先生なら全員新しく入学する問題児のことを聞かされている筈だもん。

 だから麻里さんは最初から私のことを知ってた。

 でも人間は弱い生き物だから、直視できないものには目を逸らしちゃうんだ。私が病気で死ぬことから目を逸らすのと一緒。麻里さんは目の前の理不尽な命から目を逸らしたかったんだよ。

 白血病は血液のがん。麻里さんもそれくらい知ってると思う。私は麻里さんのお父さんと同じがん患者で、佳晴さんと同じく命を捨てようとしてる。

 そんな人間を麻里さんが放っておけるわけなかったし、直視できるはずもなかったんだと思う。

 記憶力のいい麻里さんが私のことを覚えていない訳なんて、それくらいしか思えない。

 根拠はないけどね。

 理由はどうあれ、麻里さんは私に居場所をくれた。一緒に過ごしてくれた。私にとってはこれ以上ない幸せだった。

 でもその生活の中で麻里さんの危うさを知った。

 私を見る目もそうだったけど、大きかったのは麻里さんが熱を出して倒れた日。

 私が買い物から帰ってマンションの階段から外を見てたら麻里さんは凄い形相で私を引き留めた。死なせないとばかりに私を抱きしめて泣いていた。麻里さんは覚えてないだろうけど、あの日、麻里さんずっと亡くなったお父さんと佳晴さんの名前を言ってた。幻覚を見ているように暴れて、糸が切れたように静かになって。

 麻里さんを何とかベッドに運んだ時に腕のリストカット痕にも気が付いた。

 麻里さんは心の中に癒えることのない傷があるんだなって。 

 それで思ったの。今度は私が麻里さんを救うんだって。

 私の命の恩人だもん。私も麻里さんを救いたいと思った。その背中に背負っている荷物を分けて欲しいと思った。

 だからずっと気にしてたんだ。

 私がいて麻里さんは楽しいかな。麻里さんを変えられているかな。ってずっと考えてた。

 途中で病気が再発するとは思ってもみなかったけど、案外すっと受け入れることができたんだ。

 こう言ったら麻里さんは怒るかもしれないけど、麻里さんを救うことが私の使命だったんだって思えた。

 だから天使って言ってくれて本当に嬉しかったんだよ。

 私は私の命を使って、最後に使命を果たせたの。

 だから、ありがとうね。

 私はこの先の麻里さんを見ることはできないから、きっと未来の麻里さんが笑顔になっていると信じてる。

 たまに麻里さんの顔を空の上から見るからさ、いつ私が見てもいいように、いつでも楽しく生きていてください。


 これが、私が麻里さんに隠してきた真実。

 私だけの思い出。

 

 あ、空が明るくなってきた。

 いつの間にかこんな時間。

 人生最後の朝日だと思うと、涙が出てくるね。

 私は今日まで堂々と生きたんだって胸を張れる。

 涙が止まらないや。

 便箋が濡れちゃうね。きっと私いま、すごい顔してる。

 そろそろ書く時間も無くなってきちゃった。

 お母さんとお父さんにも手紙かかなかきゃ。あと鴨田先生にも。

 だからこの辺で、手紙を締めてもいいかな。

 ごめんね。ずっと書いていたいけど。時間は有限だから。

 

 ここから書くのは私のお願い。

 麻里さんは大丈夫だと思うけど、念のためね。


 この先どんな辛いことがあっても、命を捨てるようなことはしないで。

 辛い時、死はとっても綺麗に見えるんだよ。

 でも、こっちに逃げてきたら私怒るから。

 多分麻里さんのお父さんも怒るし、佳晴さんも怒る。

 私がお願いできる立場じゃないのは分かってるけど、それでもお願い。

 すごく迷惑かもしれないけど、私の分まで生きてね。

 

 だから麻里さんに、先人からの知恵をあげる。

 命に一生懸命向き合った私が思うに、命は炎だと思うの。

 命の炎は絶対に消しちゃ駄目で、人は食べて寝て、日々の刺激を燃料に変えてる。

 私は多分、高校の三年間で命の燃料を全て使い果たしたんだ。死ぬ気で楽しんで、死ぬ気で笑って、死ぬ気で生きたから。一気に燃料を投下して激しく燃やしたの。

 そんな私と一緒にいたんだよ。

 きっとね、その熱は麻里さんにも移ってると思うんだ。

 麻里さんの燻ってたものに火を移したから、大丈夫。

 無気力に鞭打っといたから、これからは嬉々として生きてね。

 計画的に、燃費よく、炎を燃やしてくんだよ。

 たまに辛いときには無駄遣いしてもいいけど、長く生きるためには、細い火を灯し続けなきゃね。

 

 って、なにこれ、ひどいポエム。

 書きながら無責任に笑っちゃった。

 痛い痛い。

 こんな恥ずかしいポエムを保存なんてしたら怒るから。

 約束通り、きちんと始末してね。

 でもね。私の炎が麻里さんの炎を大きくしたのは本当だと思うんだ。

 だって麻里さん、私と生活してから日に日に変わっていったもん。

 麻里さんも自覚してたけど麻里さんは変わったよ。

 だから大丈夫。こんなに必死に生きた人間の炎も移ったんだもん。必死に生きれない訳ないよ。

 

 最後に一つだけ。

 私は麻里さんが笑てくれたからここまで生きてこれたし。

 私は麻里さんが綺麗に笑えるようになったから死のうと思えるの。

 だから麻里さんはずっと笑っていてね。

 この手紙を読んでるときにはさ、きっと私、麻里さんを見てる。

 ねぇ、麻里さん。

 笑ってよ。

 うん。

 いい笑顔だ。

 じゃあね。






 いつの間にか夕日は沈み、真っ暗な空が広がっていた。

 風がすーっと通り抜け、私は自分を抱くようにして震える。

 もう半袖では肌寒い季節。

 さらさらと大きな木にぶら下がった葉が風に吹かれ音を立てている。

 この青い葉も時期に赤く染まるのだろう。夕日のような綺麗な赤に。

 私は新しい煙草に火をつけ、大きく吸う。

 ゆっくりと心を落ち着けるように何度かそれを繰り返し、室外機の上に置かれたガラスの灰皿を手に取った。

 眼下に広がる世界には次々に電気が灯っていく。それを乱反射させてキラキラと光るガラスをベランダの手すりに置き、その上に彼女の手紙を添える。

 じゃあね。

 口に咥えていた煙草を手紙に押し当てると、莉緒の最期の言葉はゆっくりと黒くなっていく。

 その姿はなんだか弱々しく、見るに堪えない。

 なんというか彼女らしくない。

 私はライターのキャップを外して、彼女が見せるような無邪気な笑顔を浮かべる。

 こんな顔もできるようになったよ。

 ありがとう。

 感謝と共に私は灰皿に液体を零す。

 そして鮮やかで激しい炎が視界を覆った。

 一瞬だった。

 一瞬で燃え尽きた。

 その光景に私は彼女を重ねる。彼女の激しく燃える目を。彼女の激しく燃えた命を思い出す。

 灰皿には黒く焦げた残骸とオイルがゆっくりと明かりを灯していて、細い煙を上げていた。

 それがまるで線香の煙のように見える。

 今なら彼女に声が届くような気がして、私は笑う唇を動かした。

「ねぇ、莉緒」

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一瞬で燃え尽きる激しさで 卯月樹 @uzukiitsuki

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