第10話 暗い表情

「高等部の時だ。一つ下に、たもつ、という名の、後輩がいた」

 「姓は塚本つかもとだ」と付け足す。

「私が君たちと同じ学校に通っていたことは知っているのか」

「はい」

「私も中等部からの持ち上がり組だった。裕福な地主の家に生まれて、何一つ不自由なく育っていた。学校でも、勉学でも運動でも、苦労することはなかった。さしたる難なく、成績優秀者として、また、剣道部の次期主将として、あの学校で生活していた」

 今なお残る伝統の武道場にて、時の剣道部も活動していた。三十年前も、同じように活動を続けていた。三十年後も、おそらく同じように活動を続けていることだろう。

 そんな伝統の歯車の一つでしかなかった聡一の、ただ勝者として君臨し続けた何も変わらぬ毎日は、ある日突然転機を迎えた。

「保は高等部から編入の『新参者』だった。苦労して勉学して、奨学金を得て入ってきた、特別な存在だ。誰もが保に注目した。どれほど優秀な奴が来たのかと、どんな理由でわざわざ中途入学してきたのかと、誰もが知りたがった。だが、保は誰にも何にも言わなかった。誰とも馴れ合わなかった。だからこそ、よりいっそう、噂に尾ひれ背びれがついて、な。それが我が剣道部に入ってきた。誰もが保を腫れ物に触れるのように扱った」

 矜持の高い保は、何ゆえ好成績を維持できなければ退学せねばならぬ危険を冒してまでこの学校にやって来たのか、同級生たちがどんなに訊ねても口を割らなかった。進級を目前に控えた頃になってようやく、聡一にだけだと言って明かした。

 曰く、保の父親は酒癖が悪く、長らくそんな夫に耐えかねていた保の母親はある日突然蒸発した。酒色に溺れてろくに働かぬ父親、子供たちを捨てて黙って逃げることしかできなかった母親、自棄を起こして水商売に勤しむ姉、同じく高校も行かなくなってしまい夜な夜な非行に走る兄――そんな家族を見て、保は、決意した。自分はこうはならない。自分だけは、勉強して、進学して、就職して、誰もが一目を置くような大人になる。そのためには、普通に学費を払って通う公立高校より、成績優秀者であり続ければ学費を免除してくれるこの高校の方が合っていると思った。

 聡一は、保のそんな強さに惹かれた。高潔な保に、ぬるま湯に浸かって生きてきた自分にはない崇高な意志を感じた。

「保は誰よりも潔癖で、勝ち気で、噂話に振り回される外の女よりも軟弱な同級生たちを唾棄すべき存在とみなした。妥協し堕落するくらいなら理解者など要らないという強い意志を持っていた。孤高の存在だった。外見にもそれが滲み出ていた、内面の美しさが外見にも反映されているように感じた。切れ長の涼しげな目元、意志の強さの表れた真っ黒な瞳、部活動の外でもまっすぐに伸びた背筋――とにかく、私は保を、身も心もとても美しい少年だと思った。剣道部の主将として、特別進学学級の先輩として――あらゆる『上の立場』を使って、保に近付いた」

 彼を、尊い、と思った。

「愛していた」

 確かに、何よりも、誰よりも、大切な存在だった。

「簡単にはなびかない保に、私は、完全に溺れていた。その年の終わりには、部の後輩たちに私の片想いが知れ渡っていたほどだ。しかし私は恥ずかしいとも屈辱であるともまったく思わなかった。保の芯の強さには、人を魅了するものがある、と、信じて疑わなかった。この愛は硬派なものだと――明治の学生でもあるまいし――あの頃は青かったんだ。だが……、私は本気だった」

 保が折れたのは、聡一が三年生、保が二年生に上がった年の夏の終わりのことだった。

「保はそんな私に情けをかけてくれた。私が卒業するまでの半年を、ともに過ごさせてくれた。私が卒業すれば自分はこの学校で孤独を感じるだろうと、そう言ってくれた。誰よりも、私のことを信頼している、と。あの子は、確かに、そう言ってくれたんだ」

 無我夢中で愛した。受験勉強のことなど二の次三の次で、如何に保との時間を作るかに注力した。

 保はただただ苦笑していた。そしてある時から、一緒に勉強するよう仕向けてくるようになった。保に教えているようで、その実、自分が復習させてもらっているのだ、ということを、聡一は常々感じていた。保はそういう気遣いもできる聡い少年だった。

 誰もいない剣道部の部室で体を重ねたこともある。男子しかいない高校で、体力を持て余した若人が一線を越えることなど、時間の問題だった。かつての戦国武将たちも兄弟の契りとして交歓したものだ。そういう言い訳で二人は幾度も逢瀬を重ね、密かに体を繋げた。

「愛し合っていた。――そう、思い込んでいた」

 聡一は、そこで一度表情を歪めた。

「私は進学と同時に一度上京した。一人暮らしをすれば、一年後に追い掛けてくるはずの保と共に暮らせる――浅はかにもそう考えていた。奨学金がなければ高校も通えないくらいだ、経済的に苦しい保は、自分の下に転がり込んでくるだろう。まして自分たちは誰よりも深い仲だ。保は絶対に私を頼って来てくれるはず。そう、信じ込んでいた」

 「来なかったんですね」と言われた。聡一は、少し間を置いてから、大きく頷いた。

「私の愛は、最初から最後まで、一方的なものだったんだ。保は私の想いの深さに情けをかけてくれただけだった。保にとっては、高校時代の、ほんの、一年足らずの間だけのことだったのだ……」

「…………」

「剣道部の後輩から、保は地方の旧帝大に進学したと聞かされた。東京で私と暮らす気など、保にはなかった。信じて一年間待ち続けた私は絶望した。その後どんな出会いがあっても保より愛しいと思える人間は現れなかった。風の噂で、保の方は、大学を卒業してしばらく経ってから、大学で知り合った女性と結婚した、と聞いた」

 しかし、聡一は思った。真に愛しているのであれば、保自身が選んだ道を祝福すべきだ。保が女性と家庭を持ちたいと思ったなら、鉄の意志を持った保が自ら決めたことなのだから、自分は過去の人として保の前から消えた方が良い。

「私も、家督を継がねばならかった。野秋家に後継者が必要だった。大学で法律と経済を学んだ後、実家に帰って、家財の運用に専念することにした。両親が老いていき、やがて父が病に斃れた時、将来を不安がった母に乞われて見合いをした。その相手が佳也子の母親だ」

 野秋家の跡取りを産んでくれるのであれば誰でも良かった。都合良く、野秋家の運営を手伝ってくれると名乗り出た女性が来たので、軽い気持ちで結婚を決めた。

 保以外の人間は、すべて同じに見えた。

「ただ、何となく、勝ち気そうだったのが、保と重なって見えた。それだけの、理由だった」

 でも、保ではない。

 聡一は、保との未来を諦めることはできても、保以外の人間との未来を考えることはできなかった。

 妻を愛することはついぞなかった。

「妻には申し訳ないことをしたと思っている。だが、駄目だった。ようやく佳也子を作って、それきりになった。佳也子は生まれつき心臓に疾患があってな。医者には長く生きられないかもしれないと言われたが、私はどんなことをしてでも延命するように頼んだ。佳也子以外に子供を作れる気がしなかったからだ」

 そして、気丈だったはずの妻は精神を蝕まれていく。否、気丈だったからこそ――勝ち気な女性だったからこそ、耐えられなかったのかもしれない。聡一に、自分よりも想う相手がいる、ということを――その相手以上に愛されることはないということを、女性ならではの勘で悟り、少しずつ、生きる望みを手放していったのかもしれない。

「気がついたら、妻も佳也子もすっかり心を病んでいた」

「何もしなかったんですか」

「何もしなかった。何も、気づいてすら、いなかった。いや、正確には、薄々勘づいていたのに、でき得る限り目を伏せて、気づかないようにしていた。そうこうしているうちに――佳也子が十歳になった頃、妻は屋敷の屋根から池に向かって身を投げた」

 けれど、聡一は、己れの不甲斐無さを思うだけで、彼女を喪ったこと自体への悲しみは感じられなかった。

 冷ややかな目を向けられていることは分かっていた。だが、聡一は語ることをやめなかった。

「それからしばらく経った、ある朝のことだった。新聞を読んでいたら、とある裁判で死刑判決が出たというのが目に入ってきた。普段は経済面ばかりで刑事犯罪に関する報道はほとんど目にしてこなかったが、地元での事件であることに気づいて、何気なく読んだ。そして私は、今まで新聞を隈なく読んでこなかったことを深く悔いた。十年近く前の殺人事件の裁判の話だった。死刑判決の出た男は暴力団関係者で、被害者は、弁護士とその妻だったそうだ。自分たちに不利な仕事をする弁護士とその一家を身勝手な理由で銃撃した、という罪を問う裁判だった」

「それが――」

「被害者の弁護士夫婦の名前がはっきりと書かれていた。塚本保とその妻何某、と」

 新聞を取り落とした。家政婦が慌てる中何もできずにいた。朝食には一切手をつけられなかった。目の前が真っ暗になり、足元が崩れていくのを感じた。

 震える手で掻き集めた新聞を、何度も何度も読んだ。事件が起こった日付を何度も何度も確認した。

「その日は一日中、インターネットに事件と関連のある単語をいくつも打ち込んで、事件の詳細を調べ続けた。おかげで、私から離れていった後の保がどんな人生を歩んだのか、事細かに知ることができた。優秀な成績で司法試験を通過し、暴力団と戦う正義のヒーローとなった、非常に立派な大人物として書き立てられていてな。実に保らしいと思った。涙が溢れて止まらなくなった。もう五十も近い男が、声を上げて泣いた」

 だが、希望のすべてが完全に断たれたわけではなかった。

「どの記事も『弁護士一家』が襲撃されたと書いていて『弁護士夫妻』とは書いていなかった。おかしいと思った。保とその妻以外の被害者はいないはずなのに、なぜ『弁護士一家』と書くのだろう、と。小さな疑問だったが、やがてその予感は的中した。保には子供がいた」

 その瞬間、聡一は、生まれて初めて神仏に感謝した。

「保の二歳になる一人息子も撃たれていた。肩を撃たれていたが、何とか一命を取り留めていた」

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