第二章 ジュナ大公国

第一話 下層の歌姫 -前編-



「サシェ……」


 甘い声が、サシェの首に絡みつくようにささやかれた。


 目の前で、真っ直ぐに見つめてくるミサヨの黒い瞳が閉じられ、再びゆっくりと開く。

 柔らかそうな唇の間から漏れた吐息が、あごを優しくくすぐる。


 密着した肌から伝わる体温が心地よく、冒険に疲れた心身を癒していく……。




 やばい――と、サシェは思った。


 これは現実ではない。

 現実ではない――が、だからこそ理性を奪おうとする誘惑の魔力は計り知れない。


 まるで生まれる前から知っていたかのように、相手を慈しむ気持ちが心を満たしていく。

 考えるより先に右手が上がり、彼女の艶のある黒髪を優しく撫で――。




 ――ずるりと、ミサヨの髪がずれた。


 そして、髪ごと彼女の皮を脱いで現れたのは――。



「んなっ――――」


 ガタンと、椅子が大きな音を立てた。


「だ、大丈夫、サシェ?」

「わぁっ」

「えぇっ?」


 眠ったまま突然顔をしかめ、ビクッと痙攣したサシェ。

 そのサシェを心配して声をかけたミサヨ。

 そのミサヨを見て驚いたサシェの顔は、まるで街中で突然魔物に出くわしたかのように引きつっていた。


 ――失礼なこと、この上ない。


 いくら治安が良い国とはいえ、ジュナ大公国は様々な人間が流れ込んでくる世界の中心地である。

 しかもここは、盗難程度なら日常茶飯事の下層区。

 行政機関が建ち並ぶ上層区に比べると、犯罪件数は十倍以上だ。


 おまけに、怪しい人間がいくらでも出入りする騒がしい夜の酒場にサシェはいた。

 客層の中心は冒険者や商人、その他職業不明のたくさんの人々――あまり柄のいい連中とはいえない。


 そんな場所で無防備にうたた寝をするなど、何年ぶりのことだろうかと、サシェは自分にあきれた。

 昼間にシェンと対決した疲れが出たのだろうと考え、さっさと宿を借りるべきだったと反省する。


 すぐに正気に戻ったサシェは、たった今自分が取った行動をかえりみて、ミサヨに謝ろうと口を開いた――が、サシェより先にミサヨが謝った。


「ごめん。疲れていたのに、誘っちゃって」


 小さなテーブルを挟んで、向かい合わせの二人用ボックス席。

 そんな場所で会話をしながら眠ってしまったのだから、よほど疲れているように見えたに違いない、とサシェは思った。

 怒るどころか申し訳なさそうなミサヨに、調子が狂う。


「えーと、その、いや、ごめん。変な声を出して。あ、その前に、話の途中で寝てしまって……」

 会話がかみ合っていないことを自覚しつつ、謝罪の言葉を伝えておきたいサシェだった。

 変な夢を見たうしろめたさのせいもあったかもしれない――が、それは口にできない。


 いきなり横の通路で、大きな笑い声がはじけた。


「あははは、君、かっこ悪~い」


 ミサヨとサシェが同時に反応した先には、六、七歳くらいのミラス族の少女が、遠慮なくサシェを指さして笑っていた。

 ネコのような尻尾がくるくると元気に動いている。


「どうせ、やらしー夢でも見てたんでしょ。顔がにやけていたもん。ねー、お姉さん」


 笑いをこらえているミサヨを見て、サシェは全身の力が抜けた。


 ミサヨとは数時間前に“飛空艇での契約”を交わしたばかり。

 その彼女に、初日からとんだ醜態をさらしたことを悟った――が、今さら取り繕う気にもなれない。


 それに、ミラス族少女の歯にきぬ着せない物言いには、どこか憎めない愛らしさがあった。

 そのせいだろうか――ミサヨが気安く少女に声をかけた。


「あなた、お客さんの子? それとも、お店の子かしら?」

「んー、どっちでもないかなぁ。じゃ、私、忙しいからバイバ~イ」


 そう言うと、少女は店の奥にある少し高い小さなステージの裏へと消えて行った。

 ミサヨはその少女を目で追ったあと、サシェのほうに向き直ると、カクテルに口をつけてから少し考えるように言った。


「もしかしたら、あの子が――」

「?」


 怪訝な顔をするサシェに、ミサヨが言葉を足した。


「さっき話したでしょ、ここに私の知り合いがいるって」

「あぁ、どうしても紹介しておきたい古い友人――だっけ?」


 そのあたりの会話は何とか覚えていたサシェ。

 古いといってもミサヨの年齢は十八、九――せいぜい二十歳だろう。

 三十四歳のサシェより十歳以上も若い。


 もっとも外見はまったく逆で、タルルタ族のサシェのほうがミサヨより十歳近く年下に見える。

 そのあたりのバランスで、ふたりは自然にタメ口での会話になっていた。


「古いってどれくらい?」

「そうね、出逢ったのは七年前、かな」


 思い出を呼び覚ましたミサヨは、楽しそうな表情を見せた。


「彼女とは、たまに念話テルするんだけど、一年くらい前から面倒を見ているミラス族の子がいるらしくて」


 それから、少しだけ首をひねった。


「もう少し、おとなしい子っていうイメージだったんだけど……」


 そのとき、周囲の喧騒がいっそう大きくなった。

 口笛や拍手が飛び交い、何かを期待する雰囲気が広がる。


 ランプの炎がいくつか消されて店内がやや暗くなると、小さなステージが明るく照らされた。

 ステージに敷かれた赤いカーペットの上に、先ほどのミラス族少女と一人のヒューマン族女性が立っていた。


 実に堂々としているヒューマン族女性のドレス姿には、風格のようなものさえ感じられる。

 そのことが年齢を引き上げて見せているが、実際は結構若いのではないだろうかとサシェは思った。


 明るい金色の髪はミサヨと良く似たショートボブで、整った美貌に、ドレスの上から伺える抜群のボディライン。

 店内の男性客が盛り上がる理由がよくわかる。

 だが、目を輝かせてステージを見ているのは男性客ばかりではなかった。


「あの美貌とスタイルに加えて、アダルナの女神様はさらに二物を彼女に与えたの。そのうちのひとつが、すぐにわかるわ」


 そう言うと、ミサヨも拍手をした。

 ミサヨが会わせたかった古い友人というのは、彼女のことだろうとサシェは気づいた。


 それよりも、サシェは女性と一緒にステージに立つ少女のほうが気になった。

 ステージに立つのは初めてなのだろうか?

 視線は定まらず、肩に力が入っていた。あからさまにひどく緊張している。


 店内が急に静かになると、ステージの脇で生演奏が静かにスタートした。




 そのヒューマン族女性が歌い始めたとたん、サシェは鳥肌が立つほどに彼女の世界に引き込まれた。


 歌詞は東方の言葉でわからなかったが、その独特の抑揚と、突き抜けるソプラノでありながら深みを感じさせる呼吸は、天上の世界に広がる鏡のような湖を連想させた。


 客は誰も、声を出していなかった。飲み食いさえしていない。

 騒がしく品のなかった酒場が、まるでロ・メーヴェの奥にある神々の間のように浄化されていく……。


 理屈ではない。

 魂が強烈に引き込まれる感覚は、軽い恐怖を覚えるほどだ。


 そこに、明るい春の風が舞った。

 ミラス族の少女が、優しい歌声を重ねたのだ。


 少女の歌は、ヒューマン族女性のパワーを押し返すわけではなく、包み込むように安らかな空気で満たしていった。

 澄み渡った天上の湖に、生命が息づき始めるように――。




 心配は無用だったと、サシェは安堵した。


 ヒューマン族女性ほどの完璧な安定感はなかったが、間違いなく天才の域に達している。

 何より、魂をほっとさせる暖かさが魅力だった。

 いつまでも聞いていたいと思う……。




 気がつくと歌は終わり、着水する飛空艇のように音楽がゆっくりと音量を下げ――消える。

 観客が放心状態から回復するまでの、想像を絶する静寂。

 そして、いきなり爆発的な拍手、鳴り響く口笛、とめどない賞賛の声――。


「まいったな。これほどの“歌姫”を、今まで知らなかったなんて……」


 サシェは拍手の後に椅子に身を預け、呆然としたまま素直に称賛を口にした。

 その反応に満足したミサヨがニヤリと笑う。


「デビューが最近だからね。なに座ってるの、すぐに会いに行こう」

「え、いや、いいよ俺は。古い友人なんだろう? ふたりで話してきたら?」


 まだ衝撃から醒めない様子で、ぼんやりと答えるサシェ。


「ありがとう。でも彼女を紹介したい理由は、歌を聞かせたかったからじゃないんだ。それもあるけど――私たちの目的に関係があることよ」


 その言葉にサシェは気を引き締め、黒い瞳を見返した。


「わかった、行こう」





  ***





 舞台裏への入口を通ろうとしたサシェとミサヨは、ムッとした顔に涙を浮かべて走り去るミラス族の少女とすれ違った。

 ふたりが足を止めて振り返ったときには、少女は店内の客の間に消えていた。


 木の板や補強用の角材がむき出しの狭い舞台裏で、歌姫がドレス姿で丸椅子に腰掛け、ドレス用グローブをはめたままの両手で顔を覆っていた。


 ミサヨがそっと声をかけた。


「カリリエ、どうしたの? 歌、素敵だったよ」


 顔を上げた歌姫は、ミサヨを見るとぱっと笑顔になり立ちあがった。


「ミサヨ、よく来てくれたわ。こうして会えるのは何か月ぶりかしら?」


 ふたりは再会の喜びを抱き合って示した。

 カリリエと呼ばれた歌姫は、すぐに期待に満ちた顔でミサヨをせっついた。


「アレ、手に入った?」

「え? うん、ちょっと待って」


 ミサヨは小さな粒が五、六個入った小瓶をカリリエに手渡した。


「一粒を水に溶かして使ってね。お酒とかでも大丈夫だから」


 カリリエが笑った。


「あの子にお酒はまだ早いわ。“好意を持つ魔法薬”――これできっと、あの子も私の言うことを聞くように……」


 歌姫は独り言のようにつぶやいた。


「あの子を愛しているのに……あの子がこの下層区で生きていくには、もっと歌を磨くしかないのに……最近は、口をきいてもくれなくて……」




「……おい」


 声をかけたのはサシェだった。

 何かを言いかけていたミサヨが、びくっと震えて黙る。

 今までに聞いたことがない、低い声だった。


 カリリエが慌てて反応した。


「あ、ごめんなさい。あなたが噂のサシェさ――」

「そんなことは、どうでもいい」


 にべもなくサシェが遮った。


「あの子があなたのことを大好きだということは、さっきの表情を見ればわかります」


 カリリエが黙った。


「でもいつか、大好きなあなたが、そんな薬を自分に使っていたことを、あの子が知ったら――」


 サシェの声が少し震えていることにミサヨは気づいた。

 何かを思い出しているようだった。



「――大切な記憶のすべてが、嘘になってしまう」



 カリリエがイライラし始めた。


「あなたに何がわかると……」


 他人が口を出すことではないかもしれない。

 本当のところは当人どうしにしかわからない。

 少なくとも、魔法の薬に頼ろうとするくらいに精神的に追い詰められている彼女を責めるのは、正しいことではない……。


 そう思うサシェだったが、膨れ上がる感情をうまく押さえこめずにいた。


「使う前に……少しだけ考えてください。お願いします」


 そう言うと、サシェはふたりに背を向けて出口のほうに少し歩き――足を止めた。


「ミサヨ――契約を破棄する。こんなことに加担するやつを、俺は信頼できない」


 それを聞いたカリリエが、ついに怒った。


「ちょっと、あなた、なに様? なにを偉そうに、さっきから――」


 ミサヨが、うつむいてカリリエの腕をつかんだ。


「ミサヨも言ってやりなさいよ。私のことはともかく、親友のあなたまでバカにされたんじゃあ――」


 ミサヨがうつむいたまま頭を横に振った。


 ――すでにサシェの姿はなかった。



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