第7話
目の前に広がる光景を、何と称すれば良いのだろう。
硬く均したはずの演習場の土は、柔らかく溶けていた。底が見えないほどに泥化したそこには茶の色を赤に塗り替えるほどの血が浮かび、逆にそれを流している軍人だったものが、最後まで握りしめた銃火器とともに沈んでいく。
その沼が大きく盛り上がり、弾けた。
長大な何かが、現れた。
泥土のまとわりついたそれの、正確な色まではわからない。
おおよその姿はナナフシを人の十倍の規格にしたものに近い。ただ、胴から枝分かれした無数の節足の先には、人のような五指がつき、頭部とおぼしきもののには、唇と歯が生えそろっていた。
それが開かれると、蛙か、でなければようやく言葉をおぼえかけた赤子を引きつぶしたような濁った音声が発せられた。
あえて言うならこれは戦場だろうか。いや、
「想像以上に地獄だな」
という副長とやらのつぶやきが、もっとも的を射ていただろう。
だが、彼女はその異形きわまる姿にも、異常きわまる凄惨な場にもひるみもしなかった。思考や肉体を硬直させなかった。
「正面から抑えようとするな。これ以上は踏み込むな。屯所の屋根をつたって上から合銀弾で狙い撃て。そうやって、牽制して外から気をそらし、出血を強いて弱るのを待て」
相手の適性を正確に見抜いた彼女は、すぐ指示を隊員たちへと飛ばした。
それに従う兵たちの動きも、陸軍のそれとが一線を画している。
唯一、その動きに同化していないのと言えば……
「で、こいつはどうするんです」
その少年、東雲霧生は澪の監獄を小突きながら指揮官に尋ねた。
「状況が限りなく悪くなったら投入する。お前も、自分のすべきことをしろ」
呆れ気味の叱責に、緊張感の伴わない様子で「へーい」と生返事。ノロノロと動き出した。
「副長、梯子持ってきました!」
「よし、慎重に一人ずつ登っていけ! もう一本持ってこい!」
霧生は大刀をゆっくりと抜き放った。
「手の空いている者は、とりあえず奴を牽制しろ、一歩も外に出すな!」
そして少年は牢の前に立ち、手で後ろに下がるよう澪に示唆した。
「まだ無事な屋内から武器弾薬をかき集めて来い! 破片土塁を積み上げて障壁としろ! 無理に敵に近い場所から持ってこようとするなよ!」
「せいやー」
霧生は気の抜けるような一喝とともに、剣を振り下ろして錠を破った。その口をこじ開けた。
「残る者は自分に続いて屋根に登り敵をてお前何してんのぉ!?」
絶えず指示を飛ばしていた指揮官は仰天し、その絶叫は天空へと響き渡った。
「てお前何してんのぉ!?」
「おぉ、二度言った」
半笑いで抗議を受け流した霧生は、牢の中に手を伸ばした。
「いやだって、局長がいるならともかくありゃあ俺らだけじゃ無理でしょうよ。こいつを遊ばせておくなんざ、団子をいつか食べようと残しておいて干からびさせるようなもんだ」
困惑し、固まっているのは澪も同じだった。
「ほら来い。今役にたたねぇと、ここでも居場所無くなっちまうぞ」
そう言う彼に無理くり引っ張り出される。唐突に身体に触れられ、本能的に澪は反発した。
「ふざけるな、そんなこと、また勝手に……ッ」
「決めるさ」
澪の訴えを、霧生はあっさりさっぱり、斬り捨てた。
「だってお前、自分のこと全然話さねぇもん」
空には、青が広がっていた。雲が浮かんでいた。風が吹き抜け、手を繋ぐ彼らの間を吹き抜けていった。
「新政府が掲げた革新なんぞとうに破綻した。その過程で、お前は全部を無くした。けど何もかもがまっさらになったこの世界で、お前はまだ、何も始めちゃいないじゃないか」
何度も眺めた光景だった。感じた情景だった。
空も、流れる景色も、風も、血の臭いも。
今までも、ずっと、毎日、牢の中で。限られた隙間から、それでも、疲れ切って、何かに期待するのをやめて心を閉ざすまでに。
だが牢を抜けた今、空の広さに、心が揺さぶられた。風が、魂をかき立てる。触れられた肌が、五体の先まで熱くさせる。あぁ自分の心身は、そこまで冷え切っていたのかと、澪はそこでようやく自覚した。
「だから、まずは手伝え。まずやってみて、そのうえでイヤなら止めて逃げりゃ良い。けど、お前と同じくあの迷子の神様が哀れに思うなら、眠らせてやれ」
説得する気概のまったく感じられない、抑揚も飾り気もない言葉。だからこそ、そこには真理しかなかった。心が、無理やりに押された車輪のごとくに動いた。
「……足だ」
「足?」
ぽつりとこぼした言葉を、女副長が拾った。
「まずあの足を切り落とせ。泥土化させてる原因は、おそらくあれだ。それに、かき分けるものを失えば、満足にその中を泳げなくなる。となれば、奴は自由を求めて『深層』へ逃げ込む。そこを」
言わんとしたことを、澪はぐっと呑みこんだ。
これからやろうとしていること、そこへ踏み込むための覚悟。それらを、薄い胸の中に落とした。
湧き上がる苦みや吐き気をぐっとこらえ、その反動でもって、語気を強めてあらためて口にした。
「僕が、殺す」
重苦しい息遣いが、横から聞こえてきた。
岩槻駿とか言ったか。その副長は、苦労性の人格が表出したかのような眉間のシワをさらに深めて、
「――良いだろう」
ややあって、副長はかるくうなずいた。
「聞こえたな。狙撃組は頭部の牽制とあの節足を切り分ける組に分かれろ。抜刀組は隙が生じたら泥化していない地盤より攻めて斬れ」
そのわずらわしげな声音は別として、澪の意見を組み入れた新たな指令が、副長から各員に伝播されていく。
兵士の動きの変化を、やや虚を突かれたような心地で澪は眺めていた。
今まで、意見を言ったことなどなかったが、それでもここまであっさりと受け入れられるとは思わなかった。特に、あの女はつい今しがたまで自分を扱いに困る道具扱いしていたではないか。
「我らが副長殿は、戦に関しちゃ頭が柔らかい」
少年の身の丈にはやや大仰にすぎる刀を担いで、少年は……東雲霧生はようやく認識できる程度に笑ってみせた。
好漢、というよりは悪童のそれをもって、彼は異形の神と相対した。
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