この世界

鈍寺

一体となるものたち

一  PCディスプレイ 15.6インチ部分 


 慌ただしく帰ってくるなり、大輔は私を起動させ、「この世界」にログインする。ちゃぶ台の上には、いつものように、卵かけご飯が盛られたどんぶり茶碗と野菜ジュースのパックが置かれる。視線を私に向けたまま、ときおり、むせるほど一気に卵かけご飯を掻き込んでは、ストローで野菜ジュースを音を鳴らして吸う。すべてを共有している我々は、大輔が殺人者、幼児性愛者、クレーマーではなく、生真面目な青年であり、なかなかの詩人であることを知っているが、こういう下品なところはどうも慣れることができない。

 現に今も、ユニットバスの蛇腹の扉をあけたまま、盛大に音を立てて小便をしている。手も洗わずに戻ってきて、わたしを見る。それほど時間が惜しいのだろうか。大学生の身でありながら、勉強もせずにネットゲームに夢中になっているのもどうであろうか。若い人間には他にやるべきことがあるはずだが、大輔はこの世界に入り浸り、出てこようとはしない。

 「この世界」のどこがそれほど魅力的なのであろうか。

 舞台は核テロが起こり、人口が百分の一となった地球だ。どこの誰が、そんな凄まじいテロを起こしたかについての説明はない。また、そこは現実の地球とは大陸の位置がかなりずれてしまっているが、それが核テロが原因なのか、単に今から数億年後が舞台となっていて、大陸プレートの移動があったからであるかは、わからない。これは他のことにもいえるが「この世界」で示されるのは結果だけであり、原因と経緯は各自がそれぞれ解釈しなければならない。この世界にすべてを賭ける「永住者」(彼らは自分たちをそう呼ぶ)たちは、それについての己の解釈をウェブ上であれこれと語り合うのがまた愉しいらしい。

 この世界で、彼らはまず、ひとつの町を与えられる。町の人々はは工場で生産されるプランクトンクッキーを食べ、ソーラーパネルからエネルギーを得て生活している。廃材を獲得することで ソーラーパネルステーションとプランクトンクッキー工場は、その設備を拡大することができる。廃材はプランクトンクッキーと交換することで手にいれられる。

 つまり、ともかく、この世界ではプランクトンクッキーがなければ何も始まらないといえる。プレイヤーたちは掲示板やメッセージ上でプランクトンクッキーをプラクと略して呼んで、プラグが足らない。プラグがあればとプラグの欠如を日々嘆いている。プラクが生産され貯まるのを待つことができなければ、現実社会に立ち戻ったうえで、ネットマネーやクレジットカードを利用し日本円とプラグを交換することも可能であった。この世界の運営会社はそのスキームで利益を出していた。ただ、永住者たちのほとんどは金はないが、時間だけはともかく持て余しているような者が多く、プラグを購入することは稀であるようだった。永住者の中では、プラグを日本円で購入することをある種の裏切りのようにさえ捉えられていたし、持たざる者である大輔もそこは越えてはならぬ一線のように感じていた。

 プラクを貯めて、廃材と交換し、ソーラーパネルステーションとプランクトンクッキー工場を増設していくと、次第に町に住む人々が増えてくる。過酷な状況であっても、人びとが集うと子どもは生まれるものなのかもしれないし、あるいは周囲の荒野に住んでいた人びとが豊かな生活に呼び寄せられることもありえよう。先ほど、触れたように、この世界における原因と経緯は想像するしかない。

 グラフィック上で大きく、美しなっていく彼らの町であるが、常に危険に晒されている。魅力的な町であればあるほど、他の町から侵略を受ける可能性が高い。彼らは複数の町を支配下におくことも可能でサーバー上のデータを共有する彼らの中には好戦的な人物が多くいる。他の誰かに町を奪われてしまうと、彼らはこの世界を一からやり直すこととなる。どれだけ、町を大きくしても、見事なグラフィックで表される周囲の地形に愛着をもちはじめていても、己の町を奪われたプレイヤーは辺境のまったく違う環境で新しい小さな町を与えられ、また一から町をつくりあげていかなければならない。だから、彼らは町を守るために住民の中から、兵隊を集う。兵隊は市民兵、それに核テロ前には軍隊に所属していた元治安部隊の二種類がある。彼らの徴兵に際しては、やはり、プラクが必要になる。元治安部隊を集めるには市民兵の二倍のプラクを要する。元治安部隊は自分たちのキャリアの価値をよくわかっている。

 もちろん、彼らは集めた兵隊で他の町を攻撃することができる。この世界の戦争のルールはいたって明快なものだ。数の多寡が勝利を決する。そこには車懸りの陣も、連環の計も存在しない。ただし、攻撃時の戦力は元治安部隊が二、市民兵が一となり、守備時の戦力は元治安部隊が一、市民兵が二となる。繰り返しとなるが、あくまで、その戦力と兵隊の数だけが基準となる。たとえば、攻撃側の市民兵が二百、元治安部隊が百一で、守備側の市民兵が百で、元治安部隊が二百であれば、攻撃側が必ず勝利し、守備側の兵隊を全滅させる。なお、細かい計算方法は省くが、兵力が伯仲しているほど、戦闘に要する時間は長くなる。攻撃側が勝利すれば、その町を奪い、自分の支配下におく。

 この世界の複雑さとそれによる詩情は、プレイヤーが結成しては解消する数多の同盟によってもたらされる。同盟はまったくの自由意志で結成できるため、この世界にはありとあらゆる同盟が生まれてきた。巨大な同盟から小さな同盟。繋がりが強固なものから緩いもの。ある大学の出身者だけで結成されたもの、同性愛者に限定されるもの、釣りの愛好者たち。韓国人の排除を主張するもの。原発の推進者たち、原発の反対者たち。ただ愛を唄うものたち……。

 同盟内においての意思の伝達は、通常、この世界に用意されたその同盟専用の掲示板やメーリングリストで行われる。敵対同盟への攻撃作戦から、各人の世界で起きた部活動の話や恋愛のスキル向上まで、さまざまなことがそこには書き込まれる。これらのやりとりの中で同盟内では笑いが生まれ、怒りが湧き上がる。まるで駆け落ちのように気のあった者同士が結託の上、脱退し新たに同盟を作ることもあるし、風呂では足から洗うべきか頭から洗うべきかといった程度の言い争いから感情的なもつれに発展し、同盟が二分されることもある。どの同盟もその発生の経緯や盟主の性質などから、個性を有するようになる。

 たとえば、大輔が加入したホワイト・ライオットは、もともと同盟「エクスポ95」から派生した同盟であった。エクスポ95は、「おもしろきこともなき世をおもしろく」との「三日間戦争」に敗れ、いまは存在しない。三日間戦争の際に、講和を拒み、徹底抗戦を主張した者どもが中心となり、ホワイト・ライオットは結成された。平和を希った連中は駆逐されたが、抗い、戦い抜いた者は生き残った。ホワイト・ライオットにはこの時の経験が色濃く残っている。

 どんなに独立心に富んだ人間でも、たいていはどこかの同盟に加入することになる。この世界おいても、現実社会においても、孤立主義を貫くことはきわめて難しい。

 はじめは、大輔も、同盟にくわわるつもりはなかった。あれこれ規則で縛られるのは煩わしかった。この世界自体、単なる暇つぶしに過ぎずに、「永住者」を名乗りもしなかった。大輔は、ときおり、町の中に入っては、溜まったプラクを廃材と交換し、ソーラーパネルステーションとプランクトンクッキー工場を増設するだけで満足していた。誰にも攻められなかったために、町は順調に発展していた。兵隊は忘れたころに、募兵する程度ですんだ。他人の町を奪いとるつもりはなく、守備力の高い市民兵のみを徴兵した。幸いなことに、大輔のいた北西三地区はこの世界の中でもっともといってよいほど平穏な区域だった。荒れ果てた世界であったが、皆の模範となるような、平和で、豊かな町を築いていこうと考えてはいたが、それが現実社会においては何にもならないのはわかっているように見えた。もともと、大輔は、集中力や持続力に欠けるところがあり、長時間、ゲームに没頭することが難しくもあった。さらに、オンラインゲームを自己実現の場にしたり、現実世界からの逃げ場とするのは弱い者のすることだとの論説に触れる機会があり、それを真に受けていた。

 だから、あの事件さえなければ、大輔はこの世界の中に役割をもとめてホワイト・ライオットに入ることもなく、この世界への関わり方も違っていたことだろう。夢中になれるものができたことがこの若者にとってよいことであったのか、出会ってからの一年を振り返ってみても、わたしにはよくわからない。


 二 携帯電話 2.7インチ部分 


 ボランティア相談会の天幕の下に入った瞬間から、大輔は違和感を覚えていた。襟付きの服を身につけ、あらかじめ、適切なお悔やみの言葉さえ調べてあった大輔はこの場の雰囲気に膝から力が抜ける思いがし、腹立たしくさえあった。ふざけることだけが目的であるサークルの連中が多数おり、受付の場で突然大輔の知らない曲を揃って口ずさみはじめると踊りだしたりしていた。サッカー部の連中がジャージ姿のまま集団で受付にいた。登録担当の若い女が「えっ。杉並の天沼なの? アタシも!」と声を上げる。周囲が「おっ、同棲コース?」とはやし立てている。パイプ椅子に背中を丸めて座る大輔はなんらの連絡もないはずなのにじっと私を見つめる。ずいぶん前に届いた母親からのメールを読み返したりしている。ゴールデンウィークが終わり、大輔以外は日に焼けていて、健やかであった。今年のゴールデンウィークは皆、大人しくしているのだと安心していたら、観光地を応援すると言い出して、こぞって皆はどこかに出かけだしていた。金のない大輔は実家に帰ることもせずに、ただスーパーマーケットのレジ打ちとファーストフードの清掃に身をささげていた。

 面接相手の男は奇妙な笑みを浮かべ、さてと、君はなにができるかな。しっかし、ほっそいな。運動部所属の経験は? と怒鳴るように訊く。大輔は首をふり、「一度もないです」と答える。

「だったら、学部の専門性を生かしてはどうだろうか。頭を遣う方だ」と日に焼けた男が自らの頭をぽんと叩いて笑う。学部の専門性という言葉に対して、大輔は戸惑う。こいつはこの大学の実情を知らないのかと思う。

「頭も悪いんで無理そうです」

「そう。なら、どうする?」

「すみません。やめとこうと思います」

「えっ。あのなあ。まあ、待ちなさい。今、ここで何ができるかを一緒に考えてみよう。だって、ここには何かしようと思ってきたんだろう? 誰かの役に立ちたいと思ったわけだ。その気持ちがあれば何とでもある」

「はあ。気持があればですか……」

「どうした?」

「いや、なんか、やっぱり、僕にはできそうにないかなと思いまして。その気持って面でも、ちょっと」

「うん? どういうこと?」

「だから、やめとくっていうことです。ボランティでしょう? やりたくなくなっちゃったんです」

「あっ、そう。そうなんだ」

「ええ」

「いいぞ。帰れ。ほら、はやく帰れって言ってるんだよ」

 大輔は立ち上がり、面接官に向かって頭を下げるべきか悩むが、結局、何も言わずに立ち去った。ともかくこの場から離れたかった。ちょっと待ってと面接官の男は大輔を引き止めにかかった。

「本当に帰っていいのか。日本中、いや、世界中の人間が、自分ができることを必死に探して、それをやろうとしているんだ。ボクもね、実は介護士になりたくて勉強していたんだけど、自分自身のことにかまっているような状況ではないことに気がついて、ここにいるんだ。そりゃあ、はじめはあまりの惨状に何もできなかったよ。。とにかく、必死になってからだを動かすしかなかった。それで、ようやく、現地の人に信頼されるようになって、こうして、ある程度、現場を任せされるようになった。でもねえ、俺は別に他人とくらべて偉い訳じゃない。少しだけ、人より長くやっていて経験がある。ただ、それだけだ。気持の面ではみんな、一緒なんだ。

 さっきは怒鳴って悪かったな。どうだ? 考えなおすか? それともやっぱり気持はもうなくなったか。だったら、帰ってもいいぞ。俺は何もいわない。これは結局君の問題だ」

 天幕の下にいる皆が、大輔のことを気にし始めていた。大輔は無条件で歓迎されると思っていた自分を恥じた。まさか、ここでも無能な田舎者として除け者にされるとは思っていなかった。面接相手の男は自分の怒りが共有されるのを知っていた。個人的な義憤を不器用ゆえにぶちまけているかのように装っているが、その実、皆に聞かせて、自分が多数派であり、誤ってはいない無言の言質をとっている。サッカー部の連中の目配せや小声のやりとりが気に触った。この手の奴らは本当に厄介だ。それを知りながら、関わろうとした自分が悪い。大輔が立ち上がり、逃げ去ろうとすると、「本当に帰っちゃうのかい~」とテントの奥で誰かがいい、小さな笑いが起きる。隣で面接中だった男が白河での集合場所を聞いていた。嫌味な奴だった。殴りに舞い戻ってやりたかった。奴らの悲鳴を聴きたかった。

 大輔はキャンパスの中を進む。多くの人間とすれ違うが、今、この出来事を話せる相手はいない。彼らが所詮、上から目線の自分よがりの人間なのだと同調してくれる人間は見当たらない。えらいねといわれて、うれしそうに「いえ、当たり前のことをしているだけです」と答えるあいつらは気色悪いと笑いあいたかった。この傷口は風呂の中でソフトクリーム状のアイスを食べるいつもの贅沢では塞がらない。自分が感じているのが本当の余震なのか、四六時中揺れているゆえの勘違いであるのかを確認する相手さえ俺にはいない。せめて、それだけでも、誰かに聞きたい。大輔は私を握り、立ち止まる。私は大輔が叫びだすのではと待ち構える。だが、大輔は何もいわない。ゆっくりと歩き出し、キャンパスをそのまま後にする。


 三 PCディスプレイ 15.6インチ部分 


 大輔がホワイトライオットに加入したのはその日の夜だった。

 あの頃、この世界で行われていた「子供が子供を産んだよ(親の方)」と「こどもがこどもをうんだよ(子の方」との抗争は多くの同盟を巻き込んでいた。当時、ホワイト・ライオットはどちらにも与していなかったが、心情的には子の方に傾きつつあり、参戦に向けて、同盟員の拡充をはかっていた。以前より、多くの同盟から、勧誘のメッセージを大輔は受けていた。たいていの同盟にはリクルーターと呼ばれる役目を担うプレイヤーがおり、彼らは競い合うように勧誘活動を行っていた。ただ、彼らの誘い文句の大半は、――同盟に入っていない町は危険だ。やがて大きな同盟に攻められて、町を奪われるだろう。といった脅しめいたものであり、大輔はそれが気に食わなかった。また、――北方の虎が西の伏龍のドアを叩く。といった風の、いかにもゲームおたく的な誘いにも相容れないものを感じていた。そんな中でホワイト・ライオットからもらった誘いは紳士的であったし、「二週間放置されて、「見捨てられた町」と化した付近の二つの町を目ざとく平和裏に吸収した君の力が必要だ」という具体的かつ個別な誘いの文面にも心が動かされた。

 大輔の見立てたとおり、ホワイト・ライオットは極端な人物の少ない、穏やかで平和な同盟であったようだ。同盟内の掲示板でのやりとりも、たとえば、親戚にジャガイモをたくさんもらったんだけど、どうすればいいかなとといった、いたって平凡な、近所同士が道端で話すような、日常的な会話が交わされていた。同盟によっては、頻繁に戦争をしかけたり、中で関西人を揶揄して、内ゲバに突入したりするようなこともあるようだが、ホワイト・ライオットにはその手のこともなかった。

 ホワイト・ライオットのかもし出す温かみは盟主ハナゲバラに負うところが大きいことを大輔は次第に知り始めていた。ハナゲバラはあけっぴろげで、人に対してともかく親切で優しかった。言葉や顔文字も多く知っていて、行き違いが起きがちなインターネット上のコミュニケーションにも長けていた。

 この世界においては同盟間の留学制度が発案され、所属する同盟を意図的に離れ、提携する他同盟に一時的に加盟することが行われていた。ちょうど、現実社会の駐在武官のように、相手の同盟に入り、同盟専用の掲示板を覗き込むことで、秘密裏な外国戦略や侵略計画が立案されないように、相互の監視を行う意味合いが強かったが、実際に留学先で他同盟の運営や規則を実地で学ぶことも期待されていた。留学生は時には実戦に参加したりすることもあった。ホワイト・ライオットに加盟後、しばらくしたのち、大輔も交換留学生に選ばれ、相互不可侵条約を結ぶ「ゲット・ワイルド2012」に短期留学する機会があった。ゲットワイルド2012で、さっそく盟主相手にメッセージで外交方針に質問したところ、町持ち五〇以上でないと、盟主に直接、話してはいけない決まりになっているのだと咎められた。ホワイト・ライオットでは考えられないことだと大輔は唖然としてしまった。

 ホワイト・ライオットでは同盟員の公募を行なっておらず、ハナゲバラの方針にしたがった個別の勧誘のみで同盟員を増やしていた。該当者が過去に裏切り行為をおこなっていないか、その言動を不興を買い、他の同盟から追い出されたりしていないか、各同盟の出すプレスリリースをハナゲバラは逐一チェックしていた。さらに、候補者に声をかける前にはホワイト・ライオットの同盟員の中でおかしな評判を耳にしたものがいないか、確認をとる念の入れようで、なんらの問題がないことを確認したのちに、はじめて勧誘のメッセージを送っていた。そこまで厳選して勧誘したとしても、相手が加入してくれる場合は稀であった。したがって、ホワイト・ライオットの同盟員の数は熱心な活動の割にはなかなか増えなかったが、それでも、ハナゲバラはむやみやたらな拡大路線よりも、少数精鋭型の同盟を目指すべきだと考えているようだった。そんな同盟に選ばれたと各同盟員も高い意識を持って同盟での責務についていた。

 同盟に入るのも悪くないと大輔はしみじみ思った。クルーを選べない現実社会よりもよほど、自分は楽しくやっていけると感じていた。アルバイト先のスーパーマーケットではこうはうまくいかなかった。大輔が密かに書き進めているブログではいつもKこと角中の悪口が綴られている。レジ係を並んでやることが多い角中はどうしようもない馬鹿であるらしく、大輔にとって一緒にいるだけで不快極まりないし、アルバイトの時間が結局は人生の無駄であることを強く認識させられる存在だった。甲子園常連校の野球部員だった角中は、校内の体育祭における部活動対抗リレー大会で、野球部が陸上部に競り勝った話をとにかく繰り返した。角中は補欠であって野球部の試合そのものには出ていないようだが、そのリレー大会だけには出場していたのだ。「俺も含めて足に自信のある奴らを集めたら、練習もなにもしなくても、陸上部の連中に勝っちゃうんすもん。陸上部が足の早さで負けるって、なんでやねんってはなしですよ」。夏も冬も、晴れの日も雨の日も、いつも、あの日のことを角中は思っては愉しんでいた。パートの女性たちが子供の出来の悪さを嘆き、結局は血は争えないなどと笑い合っているときに、運動会の話しを持ち出すのはわかるが、店長が他店舗がはじめたタイムセールの成績がよくて売上も伸びていると語っているときに、運動会の話を持ち出すのは一帯どういう料簡であるのか、大輔には見当もつかなかった。おまけにそんな角中がアルバイト先では人気者ともいわれているのがなんとも解せない。馬鹿ばかりの船に乗ってしまうと、自分自身が馬鹿になるか、孤独を囲いやがて海に飛び込むほかなくなるのだ。

 

 四 携帯電話 2.7インチ部分 


 大輔はいつか角中と対峙するつもりであることを宣っている。自分はいいにしても、近頃角中のランに対する態度はひどすぎて、見過ごすことはできない。ランはおとなしいからいつも角中のくだらない話を聞かされている。常日頃、穏やかに笑みを浮かべては角中の話に相槌を打ち、笑うランをみて、中国の男は角中みたいなやつばかりで、あれが普通であるのかとさえ大輔は思っていた。だが、四月の冷たい雨が降る、客がほとんど来ない夜に、「俺って、結構ラップが上手いことが判明」と角中がいいだしては、「ダダダダダダダッ。俺レジ打ち、君家の中、ダダダダッ」と永遠と繰り返しているのをさすがに見かね、角中が便所に行った隙に、「あまり角中君の相手をしなくてもいいんだぜ」と大輔が小声でいうと、ランは困ったように笑ったので、やはり、嫌は嫌なのだと大輔は知ってしまった。ランは明らかに自分が多くの客を処理しているとわかっていながらも、「次の方どうぞ」と積極的に声出しをする性格の良い子であり、大輔にああは言われたものの、その後の、角中のラップにも付き合ってやり、すごいですねと感心さえしてあげていた。

 ランは大輔が「この世界」のことを語ったことがある唯一の相手でもあった。大輔はこの世界の話を他人にしたことはなかった。どこからどう話せばいいのかがわからなかったし、やったことがない人間にゲームの話しをするほど無駄なことはないのも知っていた。そもそも、東京に出てからの大輔は、話し相手という存在を持っていないともいえた。

 その日は、いつもは九時半に仕事を終えるランがバックヤードで廃棄前のパイナップルを食べて遅くなったがために、十時にあがる大輔と帰りが偶然一緒になった。従業員用出口を出たところにちょうどランがいて、互いに先に行かせることも、追い抜くこともできずに、上井草駅までの道を並んで歩いた。間引きされた外灯が遠くで灯るだけの、暗い夜だった。余ったパイナップルをもらい受けてレジ袋に下げていたランは、甘く、熟れた匂いを漂わせていた。

「ちょっと待ってもらってもいいですか」

 ランが立ち止まり、携帯電話を取り出した。アンテナを左右に向けてから、入力をはじめる。

「もしかして、位置ゲー?」

 と大輔が訊く。そうだとランは頷く。携帯電話の位置情報を利用したそのゲームは赴いた場所によって様々なアイテムを獲得できる。一度、行ったことがある場所でもまれにアイテムが落ちていることがあるのだとランは言った。

「ゲットできた?」

「ダメでしたね。前にここで拾ったことがある」

「へえ。僕は位置ゲーってやったことがないんだけど、面白いの?」

 面白いです。でも、どこにも行かないから、アイテムが増えないねとランは笑う。それに最近はスマートフォンで皆が遊んでいるために、旧型の携帯電話でのプレイはもうすぐ終わってしまうのだといった。

 だったら、「この世界」で遊べばいいと大輔はいう。この世界はスマートフォンでなければ遊べないけれど、どこかに行かなくともいいので、家のパソコンで十分だし、パソコンは中古であればいくらでも手に入る。

「そのゲームは面白いですか?」

「面白いね。俺は部屋にいるときはずっとやっている」

「でも、とてもむずかしそう」

「簡単だよ。同盟に入れば、みんなが教えてくれる。ホワイト・ライオットっていう同盟がいいよ。僕が推薦してあげる。普通は始めたばかりの人間は入れないけれど、僕が口をきいてあげれば、大丈夫だよ」

 それから、大輔はこの世界の話しをランに話して聞かせた。戦争があること、ひとりきりでは生き残るのは難しいこと、百戦錬磨の強者が多くいるホワイト・ライオットに入れば、心配をしなくてもいいことを語る。

 駅までの道を大輔はホワイト・ライオットについて語リ続けていた。ランは大輔の話しをほとんど聞いていなかった。この世界をはじめなよと繰り返す大輔を軽くいなして、まるで別のことを、遠い中国で飼っていた猫のことでも思い出しているかのように見えたが、大輔は気がついていない。プラグだね。とにかくプラグなんだよと繰り返している。


 五  携帯電話 2.7インチ部分


 家に着いてから、「この世界」のことを他人に話さないようにランに口止めするのを忘れていたのに大輔は気がついた。アルバイトや社員の中にこの世界のプレイヤーがいないとも限らず、ランから話を聞いてホワイト・ライオットへの加盟を大輔に求めてくるかもしれない。真面目なランだからこそホワイト・ライオットに加入する資格があると思い誘っただけであった。他の人に推薦を求められても、応じることができない。

 それで、大輔は次の日に三十分早くスーパーマーケットに赴き、ランを待ちぶせした。店に入ろうとするランに声をかけて、この世界のことは決して人に話してはならないと伝えた。ランはうなずいてくれたが、戸惑っているように見えた。理由もなく、秘密を明かされたことを負担に感じているのかもしれないと大輔は気がついた。秘密の共有は特別な好意の証だと深読みされるのを恐れた。「この世界」についてランに語ったのは、彼女がゲームについて話題にしていたからであるし、異国で真面目に働くランを励ましてあげたいと思っただけであって、それ以上の感情はなかった。垢抜けないランを彼女にしたいなどとは思いもしなかった。

「いうなよ。ただ、それだけだからね。ともかく、絶対に言うな。わかったな」

 大輔はそう言い捨てると、ランの反応が怖くて、男子便所に駆け込んだ。

 この種の経験を大輔は過去にも持っている。

 国際経済Ⅰのグループ討論の際に、二度、同じ女の子と口を開くタイミングが重なった。「二回目だね」と笑いかけたとたんに、相手の顔がこわばった。隣の男が笑いを堪えていた。以来、その女は二度と、グループ討論では発言をしなくなった。

 自分に好意をもたれることは多くの女性にとっては迷惑であるのは大輔もとうに知っている。だが、大輔にしてみれば、自分は簡単に人を好きになったりはしないし、好きになっても、それはおまえなんかでは絶対にないと叫んでやりたい。だが、その言い分さえ、聞き入れてはもらえない。気味悪がられるだけとなる。

 いったい、どうすればいい? 女なんて、朝のテレビ体操を見て行う自慰行為だけで十分なのだと額にでも彫ればいいのか。

 

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