桜の木の下には

 堤の天辺まで登ると、正午の鐘が鳴った。

「ちょっと早いけど、飯にしようか」

 同僚の森山が堤に腰掛けて、アルマイトの弁当箱を広げる。彼の腕には高価そうな時計、左手には真新しい結婚指輪。どうやら、最初からそのつもりだったようだ。

 俺も、家から持参したおにぎりを取り出した。焼きたらこと昆布の佃煮、それぞれ二つずつ。公務員は身体が資本だ。とかく、この街、それも構築物インフラを担当する部署に回されると、その傾向はより顕著になる。

 一緒に包まれている煮干しとたくあんをほおばりながら、第一江戸川の景色を見下ろす。東京都と千葉県の境となっているこの川は、境川よりもずっと大きく、広い。堀江と猫実の境よりも、東京と千葉の境の方が、より大きいということなのだろう。この街で暮らしていると、むしろ堀江と猫実の境の方が重要になることの方が多いのだが、国土地理院も国土交通省もそんなことは考えていないし、それを飲み込むのが一般常識というものだろう。川面にはのんびりと、蒸気船が滑るように下っている。燃料運搬船だろうか、積んでいる鋼の運搬容器タンクは丸々としていて今にも転がり落ちそうだ。

 分厚い化学繊維で織り上げられた作業着は、風通しが悪く夏は非常に暑いが、冬になるとほんの少しだけ着心地が良い。もっとも女子職員には不評で、首もとの肌が恐ろしく荒れるのだという。彼女たちの皮膚は、俺よりもずっと薄くて、繊細なのだろう。ならばそういう職に配置しなければいいだけの話で、実際都市整備部に配置された女子職員は一刻も早くこの部を出ようとありとあらゆる手を使っているし、つまりは女子職員の均等な配置なぞ、中央政府の男女共同参画推進計画を担当する人間か、もしくは酒席と女子職員が大好きな助平管理職くらいしか利がないのだ。けれど、その二者が結託しているからこそこのような配置になっていて、おそらくそれは浦安市役所だけではないだろうから、日本帝国という社会を覆っているなにがしかの病理のようなものなのだろうと思う。それと対峙するほどの義憤はとうの昔に置いてきてしまっているし、そんなものは血の気の多い人間に任せておけばいいのだ。俺のべか舟を漕げるのは俺だけだし、いくら漕いだところで川の流れが変わるわけではない。まして、行き着く先などわかる訳もないのだ。

 上流に目を向けると、一際大きな桜の木が、寒々とした枝を広げて立っていた。

「あの桜の木、ガキの頃からあるけど、何であそこに植えられたのかわからないんだよな」

 森山の地元はここ堀江だ。埋め立てが始まった頃のことも覚えている、役所にとってはありがたい若手職員なのだが、上司はそれが当たり前だと思っているところがある。だから、俺のような別の土地出身の人間は、「外様」と呼ばれて蔑まれる。つまるところ、街で最も多く見かける人間を最も優遇しなければならないという思いに駆られているのだろう。彼らは至って善良であり、それを自覚している。俺ひとりがどう動いたところでどうにもならないし、戦う気力は最初からない。

 桜の木は、俺の呪詛とは関係なしに、黙ってそこに立ち続けていた。冬の真っ直中であるから葉も花もなく、ただただ嗄れた焦げ茶色の枝が伸びているだけであるのだが、観光都市とは程遠い浦安の景色を代表するものであるだけあって、その姿は悠大で、どこか老獪さすら感じられた。

「桜の木の下には死体が埋まっているって、昔作家が書いてなかったっけな」

「誰だったかな……ま、あの下はコンクリート護岸だから、死体なんか埋まってないだろうけどな」

 やくざ者でもなきゃな、といって森山はからからと笑う。快活な声は新婚だからではなく生来のものである。彼はこの職に非常に似合う男であった。そこが俺と、だいぶ違う。

「市橋、お前ってほんと面白い奴だよな」

 森山は至極、そう思っているかのように呟いた。

「そんなことを言うのはお前くらいだ」

「だろうな、みんな知らないんだ、お前のことを」

 ふと、森山と目が合う。円らな瞳は、遠い国の珍獣を思わせた。彼の言葉にどんな裏があるのか、俺は気にするのをやめようと思った。気にしたところで、彼が俺の言うところの本性とやらを見せるはずがなく、よしんば見せたところで、それは俺自身の確固たる願望によって顕現したものでしかあり得ないのだ。これほど不毛な思考もないだろう。

「市長は、あの桜の木を観光名所にしたいらしい」

「ほう」

 派手で外向的な性格らしい市長は、市役所の各現場を勤務中にふらりと訪れて、部長や課長と様々な雑談をするらしい。らしいというのは、俺が実際にそういった場面に出くわしたことがないからである。

「俺は反対だな」

「どうして」

 彼の意見そのものに意外性はないが、ここで彼が俺にそう口にするのは意外だった。

「たかだか桜の木ひと株くらい、自由にさせたらいいだろう。動物園の象みたいに見せ物にしたって、動きもしないし実もろくにつけないじゃないか」

「それを柵で囲って、記念碑やら照明やらで化粧させるのは、やっぱり木の下に何かが埋まっているのかもしれないな」

 そんな冗句を吐いて自分で笑ってみた。森山もつられて笑った。

 弁当の残りを平らげて、俺は大きく背伸びをした。第一江戸川を下る蒸気船は、のんびりと白い煙を吐きながら、川面を上っていく。

「気づいているか? 影が、短くなっている」

 森山は俺の影を指さした。確かに、ここで作業を始めた時期は、真昼でも堤防を超えていた俺の頭が、堤の縁から離れている。

「そうか、春が来たんだな」

 もしかすると、桜の下に埋まっているのは春なのかもしれないと思ったが、森山には黙っておいた。

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