老人と猫

 ひゅん、と夜風を切り裂く音がして、正三の浮きは川面に投げ出された。きりきりと回る巻取機リールの音も静かになり、辺りは再び静寂を取り戻す。

 ごつごつとした左手で器用に煙草を取り出すと、燐寸マッチを竿に擦り当てる。ぼわ、と穏やかな灯りが正三の手元を照らし、安煙草の先に移った。


 正三はぷかりと紫煙を吐き出し、浮きを見つめた。浮きは対岸の瓦斯灯に照らされてぼんやりと川面を漂っているが、沈む気配はない。川面は黒く塗られたまま、夜空さえも映さない。時折泡沫が出る場所があるが、川魚のものかどうかは判らない。

 境川の西側は、繁華街の東端である為瓦斯灯が均等に並び、細々とではあるが県道――仮にも一級河川である為、境川岸の整備については千葉県の管轄ということになっている――が通っており、よく手入れされているとは言えないながら、舗装はされていた。だから、正三には対岸の様子が良く見える。明るい対岸もまた、こちら側と同じく全く人通りがないことを彼は良く知っていた。


 境川に釣り糸を垂らし始めてから、今日でひと月になる。しかし彼はそれに気付く由も無い。魚が釣れないような川に釣り糸を垂らすだけの生活に何の感慨も持たないのだから、これは至極当然のことである。

 ひゅう、と冷たい北風が彼と釣竿に吹き付け、正三の白髪ばかりの頭髪が流れたが、彼は気にすることもなく浮きを見詰め、煙草を川に投げ入れた。境川の東側は再び、完全な暗闇に包まれた。


 どれ程の時間が流れたのか、正三には判然としなかった。今日は新月なのか、月は殆ど出ておらず、対岸はいつ見ても人通りがなく、喧噪もない。対岸の更に向こうにある、船底通りと呼ばれる繁華街は、つい最近出来たばかりの人工島に築かれた花街――「鼠街」と呼ばれている――とその周辺に臨時的に築かれた興業地に客を吸われたせいか以前よりもずっと静かになっている。


 にゃあ。


 急に近くで鳴き声がして、正三は釣竿を落としかけた。猫には時折出会うが、闇夜ということもあり近くまで来ていたことに全く気付かなかったのだ。

 耳を澄ますと、ちゃかちゃか、と砂利を踏む音がする。正三の近くで猫は座り、釣りの様子を見ているらしかった。


 残念だが、お前の餌は釣れないぞ。


 対岸の瓦斯ガス灯に照らされて、猫の目が光った。にゃあ、と舌なめずりをしながら、色味も柄も判らない姿かたちだけの猫は正三を見上げている。

 どこか不気味だったが、しかし正三は境川の魚を一度も釣り上げたことがなかった。このまま立ち尽くしていれば、いつかは去っていくだろう。そう思って気にも留めなかった。

 暫くして、ふと煙草が吸いたくなった。正三が左手で煙草を探ったその時だった。


 ちゃぷ。

 するはずのない水音が、確かに聞こえた。


 正三は静かに動揺した。

 どう見ても死んでいる筈の境川に、何かがいる。

 即ち、境川は死んでなどいなかったのだ。

 それは必然的に自らもまた、死んでいなかったのだということを悟った。彼の身体に徐々に熱が籠もり始める。

 節くれ立ちひび割れが目立つ手に力が宿り震えた。

 釣竿は大きくしなり、遊んでいた左手も釣竿を一緒に持ち上げる。


 にゃあ、にゃあ。


 いつの間にか猫が二匹、三匹、四匹と増え正三の周りを取り囲み、彼を見つめている。待ってろ、今大物を引き上げてやるからな。どんな化け物かは知らないが、お前たちなら喰らい尽くせる筈だろう。

 正三は根拠もなくそう思いながら、釣り糸を巻き始める。

 巻取機リールがあげたこともない甲高い悲鳴をあげた。

 震えは全身に伝わり、正三の中心にかっと大きな灯りがともされた。

 なんとしてでもこの化け物を引き上げなくてはならない、と意思を強くし、彼は必死に踏ん張り釣り糸を巻き上げ釣竿を持ち上げる。

 釣竿はぎしぎしと軋み、今にも折れそうなほど撓んだ。

 自分の大きさを遙かに越えていた鰹すら釣り上げた竿が、よもや負けるはずがない。正三の顔は若い漁師を従える船長のそれと化し、その表情には幾多の経験に裏打ちされた自信が満ち満ちていた。

 終わっていた筈の人生はまだ続いていたのだ。

 東京湾を出て太平洋に出ていた自分ですら出会うことの無かった大物が、この境川に棲んでいて、今この時になって自分に戦いを挑んでいる。その事実に正三は打ち震えた。


 俺はこの瞬間の為に生きていたのかもしれない。

 捨てることのできなかった相棒が、最後の最後にこいつを連れてきたのだ。

 絶対に、引くことはできない。


 正三はいよいよ腰を落とし、巻取機リールを逆走させた。

 急に緩んだ竿が大きく伸びたが、すぐに撓み、巨大な力で竿を引く。やはり根掛かりではない、大物だった。

 正三は猫たちを見下ろした。

 かれらはかつての船員のように、純朴な目をしているように見えた。

 待ってろ。

 正三はぐい、と竿を引き上げた。竿が三度撓み、浮きの先に、何か黒く丸いものが付着しているのが見え、正三は勝ち誇ったような笑みを見せた。


 とっぽん。


 次の瞬間、黒い物体は大きく沈み込んで、正三と釣竿は常闇に吸い込まれた。いくつか大きい泡がぶくぶくと浮かんで、それが徐々に小さくなり、終には初めから誰もいなかったかのように、川面は静寂を取り戻した。

 にゃあ。

 猫たちは暫く境川の川面を見つめていたが、やがて立ち上がり思い思いの方向に散っていった。

 闇夜の境川に蠢くものは、もう何もない。

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