06:逃走
「Sちゃんが……死んでる……?」
今度は驚きを隠せないのは僕のほうだった。問い詰める僕に、C君も戸惑いつつ返す。
「だ、だから皆がおかしくなってるんだ……Sちゃんはとっくに死んだのに、◯◯が見たっていうから……Eさんも……」
という事は、だ。既にSちゃんはこの世を去っていて……ならば僕が会った少女は、一体何者だというのか。
「じゃあ誰なんだ……僕と喋っていたSちゃんは。白いワンピースを着た、女の子は」
「分からないよ……確かにその特徴は……Sちゃんのものだ……だけど、なんで……」
むしろ僕以上に取り乱しているかのようなC君は、次の一言を最後に押し黙ってしまった。
「とにかく……ぼくが社長から聞いているのは、◯◯から秘密を聞き出す事ができれば、ぼくの借金がなくなるって事だけ……他には何も、知らない……」
* *
――借金が、なくなる。
それは要するに、お金に纏わる何かという事だろうか。遺産か、或いは隠し財産か。C君の社長への借金は数百万に上っていた筈だったから、相当に纏まった額である事は間違いない……少なくともK興業の窮状を打開できる程度には。
しかして社長たちには、あの部屋に入れない事情もあるとも見える。なにせ内側からガムテープで目張りがされ、周囲には盛り塩や御札が貼られた一帯だ。すると誰かに、何らかの方法で中に入らせた。という可能性も視野に入るだろうか? Eさんを始め、原発に発ったとされる彼ら――、開かずの間の正体を知らない僕ら作業員志望者なら、万が一の事態があっても切り捨てるには好都合だったろう。
だがその場合でも、僕が聞いてしまった少女の声の説明だけはどうしてもつかない。或いはEさんの言っていた「何も見ていないかい?」という問いかけ自体がSちゃんを指しているのだとすれば、僕はそもそも始めから怪異に遭遇していた事になる。ただし仮に、Eさんが子供部屋を開けた事が、彼の発狂を始めとした異変の発端だったと仮定するにせよ、
まんじりともせぬ時の中で思考と体力だけが徐々に摩耗し、ついに空腹と尿意を身体が訴え始めた頃、眼前でカクリと、頭を揺らすC君の姿が眼に入った。どうやら居眠りを始めたらしい。となれば逃げ出すならば今という事になるのだろうが、悔しい事にロープがあと少しの所で外れそうにない。ぐぬぬと力を込め踏ん張る所で、しかして不意に開いたのは、他ならぬ正面の鉄格子だった。
――Sちゃん?
そこに佇むは、今まさに思考の中に居座っていたSちゃんその人。相変わらずの白いワンピース姿で手招きする彼女の呼応してか、するりとロープが俄に緩む。
ドサリと地面に落ちる僕は、既の所で着地を果たし、C君がまだ起きていない事を確認する。Sちゃんと無言のまま目を合わせあった僕は、お互いに頷くとそろそろと地階を抜け出した。
元防空壕、もとい現監禁部屋は、立ち入りが禁じられていた社長のプライベートゾーンに繋がっていた。独立した土間を抜けると恐らくは寝室。蚊帳に囲まれた介護用ベッドがある以外は、とりたてて不審な点は無い。既に日が暮れたのか周囲は暗く、しかして誰かが居るという気配も無い。
Sちゃんは大丈夫だよという風に僕を誘い、僕もまたそのままに二階へと上がる。目的は僕の荷物。PCやら主要なものは全て同級生に預けていたから、財布を始めとした身分証明証、当座の着替えなどが詰まったリュックサックだけは、脱出前に回収して置かなければならなかった。果たして中身は無事で、そそくさと背負った僕の眼下で、麻雀にはしゃぐ面子の声が耳に入る。C君を除く今、残るは社長にBさん、そして社長だけの筈だが、どうやらこれは三人打ちで済ませているらしい。かかる事態は今の僕にとっては好都合と言えたが、玄関も勝手口も全て離れの側を通る手前、脱出には不都合だった。やむを得ず踵を返す僕は、Sちゃんに一言だけ告げると階段を降りた。
「Sちゃん、下の防空壕から外に出れる?」
「……うん」
かくて元の場所に戻った僕たちは、C君を起こさないようにゆっくりと歩を進める。万が一起こしてしまった場合は強硬手段と、手には奥庭でくすねたスコップを握りしめている。
だが幸いにもC君は熟睡しているようで、難なく側を通り過ぎた僕は、監禁部屋に入るやヘッドライトを点ける。これはヘルメットに取り付けていたもので、かつては遺跡発掘の際に頻用していたものだった。それがまさかこんな形で役に立つとはと苦笑を零しつつ、僕はスコップを置き、そしてSちゃんの手を引いて歩き出す。ひんやりとしたSちゃんの手だが、この時は確かに質感があって、僕には彼女が常世ならざる者だとは、俄には信じられなかった。
しかし正面を見据え足を踏み出した瞬間、暗闇に張り巡らされていたであろう糸に足がかかり、その衝撃は缶を鳴らす幾重もの音になって部屋中に響いた。いわゆる鳴子の原理だろう。仕掛けたのが誰かは分からないが、先手を読まれていたと言うべきか。しくじったと内心で臍を噛む頃には、背後から焦燥に駆られる声が響く。
「◯◯が逃げる! ◯◯が逃げる!!!」
大声でまくし立てながら地階を出るC君は、然るに脱兎の如く素早さであり、これから追いかけて黙らせるのは難しかった。何より逃亡がバレてしまった以上、いまさら彼を昏倒させた所で時既に遅しだ。
「ごめんSちゃん、走るよ……!」
「……うん!」
こうなれば逃げ切る他はない。僕はSちゃんの手を強く握りしめると、全力で走りだした。
* *
「そこは……こっち」
「そこ……右に曲がって」
なぜ道筋を知っているのかは知らないが、Sちゃんのナビゲートに従って僕は進む。曰く防空壕は洞窟のように入り組んでいて、果たして本当にその為に作られたものなのか疑わしい所だった。僕の朧げな記憶によれば、第二次世界大戦中に愛知への空爆が行われた事は確かだから、或いはそれに対応する為の基地めいた何かがあったのかも知れない。少なくとも先生の言うように、出口を誰も把握していないのだとすれば、先に待ち伏せされるという最悪のケースだけは回避できる筈だった。
「……お前はあっちに、俺は……!!!」
だが遠くから聞こえるのは追手の声。相手はC君を除けば初老以上で、僕一人ならば追いつかれる心配の無い手合でもある。ただしこちらにはSちゃんがいる。走るとは言え彼女の歩幅に合わせる以上は、差の縮む可能性は大いにあった。
(だけどこの差なら……)
しかして無事抜け出せたのならこちらのものと、楽観的に算盤を弾く僕。最悪交番にでも駆け込んでしまえば――、或いは110番でもかけてしまえば、最低限の身の安全は保証される筈だ。なにせ相手はヤクザとは言え、明日の食う飯にすら困る落ち目の連中。よもやと思うが、警察組織まで買収されているなんてケースはあり得ないだろう。
だが僕が皮算用に現を抜かした所為か、気を取られ躓いた瞬間に、ドサッと前方に勢い良く転んでしまう。背後で「あっ」とSちゃんの小さい声が聞こえたが、どうやら僕は、これでそう長くないあいだ気を失ってしまったらしい。
* *
「んっ……」
肘を支えに立ち上がろうとする僕は、引っかかったのがリュックサックめいた何かである事に気づく。かわいいクマのプリントアウトされた、ピンク色の女児用のソレ。最も色はとっくに禿げ、あちこちに土が被っている事から、ここに置かれてから相応の年月が経過しているものと思われる。
「あれは……」
そしてリュックの周囲には、何かの骨と、かつては白かったであろう布が散乱していた。或いはまさかという嫌な予感を封じ込めながら、僕はその場所に佇んだままのSちゃんに手を向けた。
「行こうSちゃん。君がなんであったとて、僕は構わない。ここから逃げよう」
もうその言葉自体が、要らぬ詮索を過分に含んでいた。だからかSちゃんはふるふると首を横に振って答える。
「行けないよ……Sは、ここから先には。Sは、ここで終わってしまったから……ごめんね、お兄ちゃん」
そう言って精一杯破顔するSちゃんが余りに切なく、僕は差し出した手を引っ込める事ができない。だってこれは、僕が見た初めての彼女の笑顔だったから。
「やっぱり……君は……」
「Sが、少しでも願ってしまったのがいけなかったの……だから、あんなものが……お兄ちゃんを……」
消え入りそうな声で謝罪するSちゃんに、僕は駆け寄って抱きしめる。気のせいかさっきまでの肉感が感じられず、スカスカと手の透ける思いがする。
「いいんだ……気にしなくて」
「ありがとう……お兄ちゃん」
だけれどそんな二人の時間を引き裂くように、響いたのは背後からの怒声だった。
「見つけた! 見つけたで◯◯! ソレ、ソレや! よう見つけた! ソレがあれば!!!!」
声の主は社長。鉢巻にライトを巻きつけ、さながら殺人鬼のように鬼気迫る表情で、かの老翁は仁王立ちしていた。手にはなんだ……アレは鎌だろうか? 随分と物騒なものを引っさげている。
「社長!!!」
そう叫び立ち上がる僕の前で、社長は最早、僕などに興味がないようにへらへらと笑っている。
「ああ。そいつがありゃあウチの組は蘇る。舎弟を抱え、
ゆらゆらと歩を進める社長。だがその社長の前に、社長には見えないSちゃんが両手を広げ立ち塞がる。その瞳は涙に溢れていて、この荷物にだけは絶対に触れさせないのだという、確固たる意志が見て取れる。
「――出来ませんね。それは出来ない相談です、社長」
ならばと僕も覚悟を決める。転がっていた棒きれを構え、中学の時に齧っていた剣道の真似事をする。飛び道具が無い以上、体力はこちらが上で、
「なんや◯◯。おちょくっとんのかワレ!?」
語気を荒らげる社長。恐怖心が無い訳ではないが、ここまで身体を張ってくれたSちゃんの手前、こちらにも男の意地というものがある。
「おちょくってるのはあなたでしょう。Sちゃんを!」
僕は慄く心を一蹴するかのように気勢を飛ばす。一瞬だが、社長も僅かに怯んだらしい。
「そいつは死んだ! 死んだんや!!」
「ここに居ますよ! あなたの眼前に、精一杯両手を広げて、Sちゃんは!!!」
びくりと身体を震わせ、二三歩後ずさる社長。だが次の瞬間には怒りを顔面に湛え、それを否定するように前へ踏み出す。
「抜かせ!!! ンなもんおる訳ないやろがああ!!!」
一足飛びに鎌を振り上げる社長。だけれど僕の剣閃はそれよりも遥かに疾く手の甲を打ち据え、次に続くみぞおちへの一撃が完全に老翁を沈黙させる。
「うう……ええか◯◯……そこにはようさんの金が詰まっとる。な、な? 取引しようや。一割はくれてやる。原発なんか行かんでも、遊んで暮らせるで……なあ」
この期に及んで命乞いどころか、取引さえ持ち出すという不遜。舐められているのかと慮りつつも、僕は真相に王手をかけるべく質問で返す。
「考えましょう。ですがこちらも聞きたい事がある。Eさんはどうなったのか。そしてSちゃんはどうされたのか」
極めて単純な二つの問い。これでもなお嘘をつくというのであれば、社長に昏倒して貰う用意はこちらには出来ていた。
「◯◯が脅しをかけてくるたあな……まあええ。交換条件なら安いもんや。一つ目の質問、Eは死んではおらん。ただ何処に居るかは……分からん」
ここで原発に行っているとでも宣われれば、容赦なく嘘と断じられたのにと思いつつも「死んでいない」という微妙な表現に、信憑性を感じざるを得ない。生きているなら怪しい。だが死んでいないとはどういう意味か。
「物凄く穿った事を尋ねますよ、社長。今回の求人は、もしかして開かずの間をそれとなく探らせる側面もあったのではないですか? Oさんは話に乗った。EさんはOさんを
原発の高収入求人を撒き餌にすれば、金に困った連中が芋づる式に釣れるという判断もあったろう。人夫として日銭を稼いで貰いつつ、相手の顔色次第で金の話に持っていけば、十人が十人とは行かないまでも、興味を示すのは容易に想像できた。
「◯◯、よう頭まわるなあ。なんもできんモヤシやと思うとったのに。こら一本取られたわ」
ケラケラと笑う社長は、その通りやと全面的に認めた上で、自白する犯人のように続ける。
「ええ線やで。確かにウチらは、あの部屋に入りたいとは思わなんだ。自分の命は惜しいからな。だがさりとて金は欲しい。会社の業績は落ちる一方で、昔のコネを使って入ろうとした原発も頓挫。そうなると頼れるのはSの家族が遺した通帳だけや……あとはまあ、ほぼ◯◯の想像通りや」
やはり、か。震災に託けて原発で再起を図ろうとしたものの梨の礫。その穴埋めをする為に欲されたのがSちゃんの遺産。しかしてK興業の連中がそこまで恐れるとなると、どうやら相当な呪いに類する何かが、あの部屋には渦巻いていたと見るのが……非科学的ではあるが自然だろう。
「そりゃそうですよね。地元の仕事すらロクに貰えない会社が、県を跨いで原発に入れる訳がない。Eさんたちが死んでいないという言葉にまったく希望は見いだせませんが……つまり僕たちは、初めから金蔓であり捨て駒だったと」
なるほどこれで納得が行きましたよ。そう結ぶ僕に、社長は開き直ったような笑みを浮かべている。
「なら質問は最後です。Sちゃんについて聞かせて下さい。勇猛なるK興業の面子ですら恐れる呪いを遺した一家の、ただ一人だけ写真が残された少女について」
言ってみればこれが本丸だった。なにせパニックホラーでは無いのだ。人を発狂にまで追いやる呪いを、一体どうすれば人ならざる者が成し得るのか。況やそれだけでも、一家の遺した怨嗟には凄まじいものがあったと推し量る他ない。何より、この足元に転がっている誰かの亡骸は一体なんなのか。それが誰かという鈍色の確信は抱きつつも、重要参考人たる社長の口から真実を聞きたいという思いもある。
「はは……辛辣やな◯◯は。まあええ。ワシにも、ちと重荷になっとったんや。最後に誰か一人にくらい――」
社長はそう告げるや、ゆっくりと後ろでに手を回し、ありったけの声で怒声を放つ。或いはそれは僕にとっては、犯人を追い詰めた探偵の、最後に見せるどうしようも無い隙でもあった。
「鉛玉でも打ち込まな、やってられんやろがボケェッ!!!!」
かくて響いたのは銃声。突き飛ばされた僕の背後に、恐らくはめり込んだ銃弾。僕は暫し何が起こったのか分からず、呆然と眼前を見つめる。
「ハジキ避けるたあ大したもんやないか。なら冥銭代わりに教えたる。遠い遠い昔話や」
無論の事、僕を弾き飛ばしたのはSちゃんだ。さっきから立ちふさがり、じっと話を聞いていただけのSちゃんは、首を振りながら僕に微笑み、次には覚悟を決めたように社長と相対する。
「むかしむかし、ある所に仲睦まじい家族がありました。裕福な家庭に生まれたお父さんは人を疑う事を知らず、そこをひどい悪人に付け入られてしまいました」
その話を聞くに連れ、徐々に震えだすSちゃんの肩。
「お金に困っていた悪人は、仲の良い家庭を乗っ取ろうと考えました。最初は友人としてゆっくりと。やがては離れを借り納戸を借り、徐々に徐々に家の中に浸透し――」
ほな、続きはあの世でガキにでも聞けや!!! 社長はそう告げると、僕と、僕の間に立つSちゃんに向けて拳銃を構えた。
「……ゆる、さない」
ぼそりと聞こえる、Sちゃんの声。
「ゆる……さない!!」
その声が社長に届く代わりに、ずずずと揺れる擬音で以て、かの老翁は慄いて反応する。
「なんや……!!!???」
それは傍目には不運。前日の豪雨が齎した、不慮の災害だろう。だけれど僕には、Sちゃんが最後の力を振り絞って放った、怒りの一撃のようにしか見えなかった。
トリガーにかけられた社長の指が、僅かに動く刹那。僕と社長を分つように溢れ出した土砂の波が、Sちゃんごと視界から消えた。その消え入る間際に振り向いた彼女が、これでお別れだよと微笑みながら遺した言葉を、僕は捉える事ができたろうか。
(バイバイ)
それが僕の錯覚だったのか、否か。Sちゃんを呼ぶ声はかき消され、気がつけば僕の身体は、洞穴の外の小さな祠の側に転がっていた。
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