月下の民は、それでも太陽に憧れる

タチバナナツメ

月下の民は、それでも太陽に憧れる

「ねえ、キアン。君はさ、僕が起業を考えてるって知ったら笑うかい?」

 溜息もろとも吐きこぼすようにしみじみと言いながら、傍らの男はゆっくりと黄金こがねの詰まったジョッキを傾けた。こいつは俺の数百年来の友人、“屍人コープス”のグリンデュアだ。

 あおった蜂蜜酒ミードはのどごしの直後に破れた脇腹から勢い良く溢れ出していたが、土気色の頬にほんのりと赤みが差しているような気はするから、そこそこ酔いは回っているのだろう。それもそのはず、路地に漏れ出していた芳醇な香りに誘われ、この酒場の扉をくぐってから、既に数本の蜂蜜酒を空けている。

「どうしたんだよ、突然。笑いはしねえけど――起業って、何かアテでもあんのか?」

 いつも死んだような目で――いや、事実こいつは人としちゃ一度死んでるんだけど――ぼんやりと遠くを見つめているばかりで、専ら飲み食いくらいにしか関心を向けることのなかったグリンデュアが、自主的に何かをやりたいと言い出すのはとても珍しい。驚きながらも俺は、次第に無垢な輝きを帯びてゆく友人の瞳を吸い込まれるように見つめていたのだった。

「アテはないけど、画期的な商売のアイディアがあるんだ。閃いたときにはそりゃもう、今まで何で誰も思い付かなかったんだって興奮したもんだよ」

「へえ、そりゃすげえな。で、どんなアイディアなんだ?」

 話すほどに、傍らの熱がみるみる高まってゆくのが分かり、俺の心はいつになく弾んでいた。飲み慣れているはずの蜂蜜酒が、心なしかいつもより甘く感じられる――楽しい話は、何よりも旨い酒の肴になるってことなんだな、きっと。

「“組合ギルド”だよ、組合。これまでになかった全く新しい組合を立ち上げるのさ」

「……何?」

 だがその答えを聞いた瞬間、俺はすっかり面喰らい、言葉を失っていた。何て言えばいいのか、想像の斜め上すぎてピンと来なかったのである。おおかた斬新な客商売でも考案したのだとばかり思っていたのだが――

「その、組合ってまさか、不死者アンデッドの?」

 ひとしきりぽかんとした後で、辛うじて捻り出せた言葉はたったのこれだけだった。言いながら俺は、グリンデュアと同じような顔色の良くない連中が、胡乱な目つきでわらわらと集う奇妙な施設を思い描く。組合と言うよりそこは、お化け屋敷と大差ない光景なのだが――

「違うよ。僕たち不死者だけじゃなくて、夜を主体に活動する種族全般に向けた組合を結成するのさ」

「夜の……種族……?」

 お化け屋敷のイメージが幅を利かせすぎていたせいか、俺の頭の中にはグリンデュアの言葉がてんで入ってきてくれない。だがそんな俺のことはお構い無しに、彼は一層高揚した様子で弁舌を振るい続けるのだった。

「昼間と比べて夜って、変わった仕事とか危ない仕事が多いだろ? 美味しい話に釣られて不向きな仕事をやらされる羽目になって、取り返しのつかないことになった人たちを僕はたくさん見てきてる」

 ついさっきまで、輝くことを忘れていたグリンデュアの双眸には、今や溢れんばかりの熱意がみなぎっている。だが同時にその瞳には、やりどころのない怒りと悲しみが宿っているようにも思われた。

「……随分ろくでもねえことがあったみたいだな」

「ああ、あったよ――あったさ」

 吐き捨てるように言ったグリンデュアの、ジョッキを持つ手が微かに震えている。

 密酒を煽るのをやめ、俺は黙って彼の言葉を待つことにした――穏やかな友人がこれほどの激情に駆り立てられた理由わけを、一言一句と聞き漏らすことのないように。

「確かに夜の連中は個性的なのが多くて、昼間の奴らと比べれば統制は取りにくいかもしれない……けど、やってみなくちゃわからないだろ。僕らは、自分自身を守るために団結しなきゃいけない。まずは僕が動かなくちゃって思ったんだよ」

「お前……」

 まるで自らに言い聞かせるかのように、繰り返し訴えるグリンデュア。

 思い苦しむ友人の姿を側で見てるってのは、まるで自分の身を切られてるみたいに辛いもんだ。だけど俺は同時に、彼の心に不屈の闘志とも呼べる気概が宿ったことに、不謹慎ながら心を打たれていたりもした。

 知り合ってからの数百年間というもの、繰り返す日々をただそぞろにやり過ごしているだけのように見えたこいつの中にも、魂と呼ぶべきものがちゃんと遺ってたんだなあと思うと、ぐっと込み上げてくるものがあったのだ――ああ、俺も結構酔っ払ってるのかもしれない。

「ぼーっとした奴だと思ってたけどさ、まさかお前が、こんなにもいろんなことを考えてたなんてなあ……俺はとことん応援するぜ。実現するといいよな、うん」

「そんな中途半端な気構えじゃ駄目なんだよ、キアン!」

 ところが、枝豆をしがしがとみつつ、涙を拭った俺を目にするや否や、乱暴にジョッキを脇へと叩きつけたグリンデュアは、周りの客が次々と振り返るのも構わず、樫のテーブルにどんと拳をぶつけた。

「僕は出来もしない夢想をつらつらと話して聞かせてるわけじゃない。実現させなきゃ何も始まらないってことくらい、ちゃんと分かってるんだよ!」

 ぎょっと怯んだ俺に鼻先を近付け、彼はほとんど説教するような勢いでこちらの軽口を責め立ててきた。

 ――あれ? これってもしかして、絡まれてるんじゃ?

 普段はこんな酔い方をするような奴じゃないんだがなぁ……本当に何か途轍もなく嫌なことがあった後なんじゃないか。これは友人として、しっかりと吐き出させてやらねばならないところなのかもしれない。

「昼の連中に出来て、夜の連中に出来ないなんてことは絶対ない。働きやすい環境を作るためには、自分勝手な主張は捨てて、夜の皆だってちゃんと団結しなきゃ――」

 おいおいおい。お前は一体、いつまでこのよく分からない立ち位置からの説教を続けるつもりなんだよ?

 これじゃあまるで、俺がその団結出来ない連中の代表みたいじゃないか――そんなことより、今の境地に至った経緯に関しては、結局なんにも話してくれないのかよ。

 仕事あがりの足で酒場に行くと、よくいるんだよな……ぐでんぐでんに酔っ払って、こんな風に「俺たちで社会を変えよう」みたいな大義を叫びまくってるオッサン。だいたいそういう奴のほとんどが、壮大なテーマを並べ立てるばっかで、具体的なことは何も語らないんだ。

 呆れながらも俺は、数百年来の友人をそこいらの酔っ払いと同じにしたくなくて、やんわりと話題をすり替えてゆくことにした。とりあえず、まともに話が出来るくらいに落ち着くまで、この話は寝かせるとしようか。

「いやあ、お前はやっぱりすげえわ。俺にその発想は無かったなあ。そんならまずは、夜に蔓延はびこってるイメージの悪さから変えていかねえとなあ。俺たちからしてみりゃ、夜は楽園みたいなもんだ。楽園に居ながら楽しく飲めねえなんてのは、おかしな話だろ?」

 言ってる自分が恥ずかしくてたまらなくなるくらいの棒読みだったが、泥酔状態の相手に何も気が付くところはなかったみたいだ。グリンデュアは素直に俺の誘導に応じて、深々と首を縦に振っていた。

「確かにそうだね。後ろ暗い仕事は夜にやるもの、みたいなイメージが世に蔓延り過ぎてて。夜の街には怖いイメージもあるかもしれないけど、盛り場なんかにやってくる客のほとんどは日頃の疲れを癒したり、楽しむ目的で来てるわけだし、もっと華やかなイメージがあったっていいよね。それなのに、昼間の連中と来たらさあ……」

 拗ねたように口を尖らせたグリンデュアは、紛れもなく本気で、夜の仲間たちの不遇を案じているのだろうと思う。

 話すうち、グリンデュアの口調に元の穏やかさが戻ってくるのを感じて、俺はほっと胸を撫で下ろしていた。

「そうだな。心持ちひとつで働きやすさも変わるだろうから、世間のイメージを変えてくってのは重要なことだよな」

 全身を縛り付けるように滞留していた緊張感がやんわりと解きほぐされてゆくのを感じると、俺はようやく安心して、再び蜜酒の甘さを堪能していたのだった。


「な、何だ?」

 ――だが、安堵に包まれたのも束の間。

 頭のてっぺんに生えた二つの耳が何かを察知してぴくぴくと動くのを感じた途端、俺の四肢に再び鋭い重圧が絡みついてきたのだ。

 考えるよりずっと早いスピードで、身に迫る不穏な気配を嗅ぎ付ける――これは、人の何十倍と鋭敏に発達した知覚力を持つ、俺たち“獣人族ライカンスロープ”の象徴的な力だ。

 その研ぎ澄まされた感覚が、友人の発した不穏なオーラに警戒せよと告げている。

 何だよ、今度は何を言い出そうってんだ?

 傍らの気配がどんよりと濁ってゆくにつれ、蜜酒の甘みはまたも足早に遠のいていった。

「世間では昼行性の種族が幅を利かせててさ、僕たち夜の種族は奴らに“怖い”だの“不健康”だのと、理不尽なレッテルを張られてる。まるで昼間活動する奴らの方が健全だとでも言いたげにさ……」

 おーい、どうしたんだ。おーい。

 へらりと卑屈に口端を持ち上げた友人を、俺はただただ唖然と見つめていた。

 昼の連中だって俺たちと同じように普通に生きて活動してるだけで、ほとんどの奴は幅を利かせてるつもりなんてないだろう。それにお前が不健康そうに見えるって話は、もっと別の理由から来てると思うんだが――

「確かに偏見持った奴がいるってのは俺も感じてるけど……でもさ、率直に言って夜の連中って、コワモテ率高いと思うぜ? 俺だって暗闇で不意に悪鬼オーガなんか見ちゃった日には、背筋が凍っちまうよ。悪霊ワイト系の奴なんか、もっとアレなの居るだろ」

「……まるで“自分はそのコワモテ種族の中には含まれてない”とでも言いたげだな、キアン」

 しまった。睨んでる睨んでる。

 屍人に睨まれる怖さと言ったら、悪鬼の非じゃない――なんて言葉は飲み込んでおくことにして、俺は愛想笑いを捻り出すことに必死になっていた。

 飽くまで俺は冷静に正論を言っただけのつもりだが、逆効果だったみたいだ……どうやら今の友人は、とにかく自分の考えに賛同を得たいだけの心境らしい。面倒臭えなあ……褒め合いたいだけの不毛な女子会じゃあるまいし。

「コワモテが嫌われるって発想自体がナンセンスなんだよ! 逆に悪役っぽい方がかっこいいって、憧れられたりすることだってあるだろ。それに、見た目がアレでも中身が優しければ、ギャップにコロッとやられる女だって中にはいる!」

 待て待て、ここでどうして女の話が? ははーん……何だか雲行きが怪しくなって来やがったぞ。

 涙なのかアレなものなのか分からない濁った汁を目元に滲ませたグリンデュアは、ボサボサの黒髪を引き千切らんばかりに掻きむしりながら、とことん憤慨していた。

「僕はもう嫌なんだ……不死身でちょっと食いしん坊でコワモテって個性を生かす場が、マンドラゴラ農家かフードファイトかお化け屋敷のキャストしかないこの世界が嫌なんだ! もっと楽しい仕事がしたい!」

「……マンドラゴラ農家?」

「収穫を手伝わされるんだよ! 生きてる奴だと死んじゃうだろ!」

「ああ、そういうことか」

 知らない奴のために一応言っておくが、万病の霊薬と名高いマンドラゴラの根っこは、人間そっくりの不気味な形をしていて、引っこ抜く瞬間に恐ろしい悲鳴をあげるんだ。その悲鳴を聞いた奴はみんな苦しみもがいて死んじまうんだと。

 犬を使って引っこ抜くやり方が主流だと思ってたが、屍人に抜かせる手があったってのは、まさに目から鱗だ。グリンデュア……はっきり言って、お前の思い付いた商売よりずっと現実味があって画期的だぞ。起業するなら間違いなくそっち方面を選ぶべきだ!

「楽しい職場で、楽しい恋がしたああい! 僕に出会いをくれええええ!」

 だが彼は、億万長者になれる儲け話をふいにしてでも、仕事に楽しみを見出したい性分らしい。私生活を充実させるために、仕事は割り切ってじっと我慢するって奴は多いと思うんだが、こいつはそんな風に考えられないんだな――まあ何百年も生きてりゃ、そうなるのも仕方ない話なのかもしれないが。

 慟哭する友人に掛ける言葉を決めあぐねていると、背後のテーブル席からいやに甲高い下品な笑い声が響いてきた――ああ、そういやもう一人連れがいたのを完全に忘れていた。

「いつまでイジけてんだよ、グリンデュア。お前も俺みたくホストやりゃいいだろ! 毎日女の子に囲まれて、幸せな人生過ごせるぜえ! ぎゃははははっ!」

『イケメンは黙ってろ』

 不意に俺の喉元からは、ドスの効いた声が漏れ出ていた――傍らの友人とほぼ同じタイミングで。

 周囲からの白い目も気にせず、両手両肩膝上に女の子を侍らせて高笑うあのいけ好かない男は、“淫魔インキュバス”のメイニルだ。

 道すがらで声を掛けられ、断る理由が見当たらず共に酒場へやってきたメイニルだが、女の子のグループが現れるや否や、さっさと席を移ってしまったあいつに同席者の認識はない。むしろあんなのと知り合いだと勘違いされたくないとさえ思っている。

 淫魔のホスト――これ以上の天職はないよな。悩みなんてこれっぽっちもなさそうだし、誰かの悩みを聞く気なんてのはもっとなさそうだ。勝手に楽しんでろっての。

 早々に背後の色悪を黙殺した俺たちは、気を取り直してカウンターに向き直り、談義を再開することにした。

「世界のあちこちで日常茶飯事のように戦争が起きていた時代には、僕たち不死者はそれこそ“不死身の戦士”って言われて畏れられてたらしいけど……平和な世の中で僕等の個性を生かすのって、思った以上に難しいんだよな。いくら死なないからって、イカれた錬金術師の人体実験に付き合わされるなんてのも、もうたくさんだ!」

 付き合わされたことあるのか、お前!

 聞き返しそうになって、俺は身震いとともにそれを思いとどまっていた。

 確かにそうだ。不死身だってことを理由に、彼らの命(?)を軽んずるのはちょっと違うよなぁ……そう考えると不死者って、夜の種族の中でもなかなかにヘビーな宿命を背負った種族なんじゃなかろうか。

「君だってさ、少なからずあるだろ。今の労働環境に不満とかさ。あ、でも君って劇場のホールで働いてるんだっけ……わりと恵まれてる方だよな。かっこいいじゃん、給仕人ウェイターとか。やっぱり獣人って、マスコット的な扱い受けたりするんだろ?」

 とうとうグリンデュアは、カウンターに突っ伏してメソメソとすすり泣きを零し始めた。

 さすがにここまで卑屈になられると、ちょっとイラっとくるなぁ……

「いや、いいことばっかじゃねえよ。獣人つったって、いろいろ違いはあるんだからな」

 屍人のお前が獣人の何を知ってるんだと噛み付いてやりたくなったものの、実際のところ彼の抱えるものほどシビアな悩みも思い付かず、俺は話すか否かを迷いながら、ぼそぼそと歯切れ悪く答えていた。

人狼ワーウルフ人猫ワーキャットなんかはわりと持て囃されるけどさ、俺ほら――人熊ワーベアだし」

「いいじゃん、熊! 可愛いだろ! 赤い服着て蜂蜜舐めときゃキャーキャー言われるんだろ!」

「よくねえよ! 客引きとかやらされんだぞ! 熊の姿で、看板とか持たされてさ! 近くで見ると意外と可愛くないとか、中はオッサンのくせにとか言われて、子供ガキどもに蹴られたりすんだぜ!」

「やっべえ! それガチの着ぐるみってことだよな! キアンちゃんやっべえわ! ぎゃははははっ!」

『リア充は黙ってろ』

 何でもかんでも「ヤバい」の一言で片付けやがって……正しい言葉の遣い方しやがれってんだ、このキラキラ脳天気野郎!

 ああ、何だかまともに話してるのが馬鹿らしくなって来やがった――ほとんど八つ当たりみたいな勢いで蜂蜜酒のお代わりを注文した俺は、ヤケになってジョッキの残り半分を喉の奥へ流し込んだ。極太の眉をひそめ、カウンター越しの店主マスターが「もうやめとけよ」なんて声を掛けて来たが、これが飲まずにいられるかってんだ。

「おかげで、せっかく出来た淫魔サキュバスの彼女にもフラれちまうしさ――満月の夜の唐突なハイテンションが面倒だとか、都会慣れした獣人には野性味を感じないとか!」

「あー……淫魔の女の子ってわりと低血圧だし、肉食系好きっぽいもんねぇ」

「俺は山育ちだから、元々植物しか食わねえんだよ!」

「いやいや、彼女が言いたかったのってそういうことじゃないよね?」

 負の空気ってのは伝染するものなんだな。

 いつの間にか、傍らの友人以上にイジけ倒していた俺は、ぐずぐずの鼻先を乱暴に拭いつつ、胸元から煙草を取り出していた。

「キアンちゃーん、せっかく飲んでんだからさ、もうちょっと気楽にいこうよ」

「うるせえな、明るく飲めねえ酒だってあるんだよ」

 煙草を咥えた途端、条件反射のように素早い所作で点火の魔法を放ってきたメイニルのことを、ほんの少し「気の利く奴だ」と思ってしまった自分に嫌気が差した。確かにいけ好かない色男ではあるんだが、どっか憎みきれない性格してんだよなーあいつ。女たちが放っておかないのは、そういう一面なのだろうかと考えると、また一段と嫌気が差してくる。何で真面目に生きてる俺より、明らかに適当に生きてるあいつの方が女にモテるんだよ……。

「夜の種族の女の子って、そういう子多いよね……全体的に攻撃的で派手なのが多いんだよ。僕、一度でいいから昼間の女の子と付き合ってみたいなあ」

 ついでとばかりに勧めた一服をやんわりと辞して、長椅子の背もたれにだらりと体重を預けたグリンデュアは、いくらか棘の少なくなった口調で小さく呟いていた。

「だよなぁ……エルフとか、有翼族アーラエとか? きっと素朴で従順で、淫魔の女みたいにワガママ放題言わないんだぜ」

 燭台の暖かい光に何となく視線を落ち着け、これまで淫魔のに押し付けられてきたいろんな無理難題を思い返していた俺も、紫煙をくゆらせつつ、しみじみと零していた。

 すると、雨あられと飛び交っていた会話が、唐突にぴたりと途絶えた。何となくそこで、俺は今夜の協議のお開きを悟っていた。くだらないやり取りばかりで何ひとつ前に進めた気はしていないが、不思議と心が晴れ渡っているからだ。まあ平たく言えば、散々馬鹿話してスッキリしたってことだな。俺たちだって、伊達に長生きしてる訳じゃなくて、世の中には努力次第じゃどうにもならないものもあるってことくらい――

 

「あんたら、何夢みたいなことばっか口走ってんの? そりゃあいくら何でも幻想抱きすぎってもんだろ」

 ところが、すっかり締めの気分に浸っていた俺の耳へ、唐突に雑音が飛び込んできた。

「誰だ、あんた」

 何なんだよ。もうそういうオチで良かったじゃん。何でこのタイミングで蒸し返すんだよ。

 すっかり店を出る気で、吸いかけの煙草の火を灰皿に押し付けたばかりだった俺は、面倒臭さを隠しもせずに、首だけを捻って後方を見遣った。

 あれ? 誰もいないぞ?

 というのは俺の単なる見過ごしで、確かに闖入者ちんにゅうしゃはそこに居た。俺の予想よりもかなり地べたに近いところに。

 俺の背後で苛立たしげに腕組みしていたのは――俺の半分くらいの背丈の“子供”だったのである。苛立ちが頭の先からふっと抜けていくのが分かった。

「何だ、子供ガキか――」

「子供じゃねえ! 俺は“小人族ハーフリング”のピットだ!」

 小人族? ああ、そういうことか……

 子供のわりに随分大人びた話し振りだったから、妙にアンバランスな感じがして引っかかってたんだが――なるほど、これでようやく合点が行った。

 子供のような顔付きと背丈に加え、よく見れば彼はエルフほどではないものの、わずかに尖った耳を持っている。それは“草原の妖精グラスランナー”の異名を持つ彼らの特徴にぴったりと当てはまる。

 だが、実物を見るのは初めてだ。何故って、彼らは太陽を追いかけるように、日が昇る頃起きて、日が沈む頃に寝付く――つまり、俺たちが憧れてやまない“昼間の種族”のはずだから。

 仕事上がりの俺たちが酒場に現れる時間なんて言ったら、深夜も深夜。もはや明け方に近い時間帯だから、そもそも鉢合わせること自体が珍しいのである。何ゆえ彼はこんな真夜中、俺たちの前に姿を現したのか――

「さっきから聞いてりゃあんたら、都合の良い妄想ばっか並べすぎだぜ」

 まん丸の瞳の端をつんと尖らせ、ガキ大将みたいにふてぶてしい面構えで、ピットと名乗った男は俺たちを順繰りに睨み付けた。傍らの友人は、腑抜けたようにぽかんと開口している。

「昼の種族の女の誰も彼もが純朴なら、何で男が盛り場へ息抜きしに来る必要があるんだ?」

 言われてみれば、確かに――でもだからって、こいつみたいに朝方まで街をフラフラしてる連中はほとんど居ないと思うけど。

 正論を突き付けられ、思わず返す言葉に詰まっていると、呆然としていたグリンデュアがようやく正気を取り戻したようだった。

「もしかして……昼の連中も夜の奴らと同じように、夜の女の子たちに幻想抱いてたりするのかい?」

「そうだ、幻想だ! 今幻想だってことが分かったんだよ、ちくしょう!」

 思いの丈を吼えたてると、ピットは食い物の脂でテカテカになった床に膝から突っ伏して号泣し始めた。言わなくても分かりそうなもんだが、どうやらこの男も相当酔いが回っているらしい。

「夜の女の子たちは、素朴で優しい男に飢えてるって噂は嘘だったのかよ……! 昼の連中に、俺たちほど平和的で牧歌的な種族なんていないのに、どうして“チビ”って理由でフラれなきゃなんねえんだ!」

「何だよその噂……聞いたことねえよ」

「うわあ、小人族の根本否定されちゃったんだね。気の毒に」

 あーあー。とうとうあいつ、駄々っ子みたいにゴロンゴロン床を転がり始めやがったよ。汚ねえな。

 そうして低位から響いていた慟哭が嗚咽に変わった頃、カウンター側に向き直った俺たちは延長戦を開始していた。そろそろ窓の外の景色はほんのりと白みつつある。

「絶望的だねキアン――昼の世界も結局、背が高くて頼りになって、気遣いの出来るイケメンがモテるんだ。僕らは一体どの世界に行けばモテるんだい?」

「死んで生まれ変われりゃ、可能性はあるんじゃねえの? ってあんた、よく見りゃ屍人じゃねえか! じゃあ死んでも無駄だったってことだよな、あはは!」

 こいつの情緒は一体どうなってるんだ――さっきまでの泣きっ振りはどこへやら、ピットはグリンデュアの酒の残りを勝手にかっ喰らってゲラゲラと大笑いしている。

 無神経な小男のおかげで友人の情緒までどうにかなるんじゃないかと肝を冷やしたが、深い絶望感に苛まれるあまり、グリンデュアはピットの話をまともに聞いていないようだ。

 そんなグリンデュアの様子を良いことに、ピットは彼のツギハギだらけの肌を眺めては、「すげー! ほんとに腐ってら!」などと言いながら無邪気にはしゃいでいる――おそらく不死者が珍しくて仕方ないのだろう。

「顔が良くなくたって、女にモテる方法ならあるぜ。ひとつだけ」

 すると、またも唐突に、テーブル席にいたメイニルが割り入ってきた。相も変わらず、わらわらと女どもを侍らせたまんまで。

「何言ってんだ。イケメンは黙って――」

 たちまち嫌悪感を募らせた俺は、ギリリと両の牙を剥き出しにしながら後方をめ付けたのだが。

「待ってよ、キアン。どういうことだい、メイニル?」

 予想もしないグリンデュアからの横槍を受け、俺は慌ててメイニルへの反撃を思いとどまっていた。

 グリンデュアの眼差しは真剣そのものだ――そしてよくよく見れば、メイニルも珍しく真摯な面持ちを浮かべている。物憂げな横顔は、男の俺から見てもまるで劇場の看板役者のように美しく、「黙っていれば賢そうに見えるのに」と残念な気持ちが募る。

「そうだぜ! 勿体ぶらねえで聞かせろよ、イケメンの兄ちゃん」

「それは――」

 まさかこいつが、真面目な話を持ちかけてくるなんてことがあるのだろうか?

 奴の傍らから聞こえる黄色い声が一層大きくなったことは心底気に食わなかったが、淫魔のイメージを覆すその意外性に、俺は一瞬言葉も忘れて惹きつけられた。

「――大金持ちになることに決まってんだろ! この世で一番大切なのは金だ! ぎゃははははっ!」


 呆けきった俺の内側を、メイニルの高笑いが激しく揺さぶっている。

 そう、俺の心は揺さぶられたのだ――図らずも、あんなチャラチャラしたいけ好かない野郎に。

 ――いや、違う。恋愛に関しちゃ百戦錬磨のあいつだからこそ、醸し出すことの出来た説得力なのかもしれないと、俺はつくづく思い知らされていた。

「ケッ! そんなもん、なれたら苦労してねえっての!」

 大方予想の範疇だったとでも言いたげに、すぐさまピットがそれを一笑に付した。

 この酒場へやって来るまでの俺なら、きっとこいつと同じ反応をしていたに違いないだろう――しかし、この夜の語らいによって真の不条理を知った俺は、思いがけない境地に至ったのである。

「いや……あいつの言う通りかもしんねえな。女にモテる方法を具体的に考えるより、金を儲ける方法を考えるのが一番手っ取り早い気がする」

「確かにそうだね……仕事に楽しみを求めることそのものが間違いだったんだ、きっと」

 この世で一番大切なのは、金。

 この世で一番大切なのは、金。

 この世で一番大切なのは、金だ!

 何てこった。それがこの世界の真理だったっていうのかよ――!

 眉間に深い皺を刻み、固く目を閉じて思索に耽るグリンデュアも、今ごろは同じ境地に至っていることだろう。

「お、なんだなんだ? 兄ちゃんたち、何かいい商売のアイディアでもあんのか?」

 真理を得た俺たちの悟りきった表情に興味をそそられたのか、ピットはつぶらな瞳を宝石のように輝かせ、俺の隣の空席によいしょとよじ登ってきた。

「いいかい、ピット。これは運命に引き合わされた僕らの間だけの、とっておきの内緒話だ。君は、マンドラゴラを専門に扱う農園を見たことがあるかい?」

 斯くして、俺たちの談義は明け方を通り越し、太陽が真南へ昇るくらいの時刻まで続いた。


 その後グリンデュアが、万病の霊薬を生み出す大農園で、不死身の労働者を大勢抱えた敏腕社長として成功を収めたかどうか――まあ、その辺りの話は、次の酒の肴にするとしようか。

 永劫の追いかけっこを繰り返す月と太陽が重なったとき、そこに生まれる真理は果たして、光か、闇か。その答えが何にせよ、俺たちの悠久の時間は、とどまることなくのんびりと流れ続けて行くんだ。



《『月下の民は、それでも太陽に憧れる』・完》

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