第二十七話 勿忘草の記憶・2

 夢の始まりは同じだ。膝を抱えたユダは一人、小舟の真ん中にぽつんと座している。漕ぎ手を必要としないその舟は、ひとりでにくらい海原をすいすい進んでゆく。水平線の遥か彼方には、七色に煌めく不思議な大陸がうっすらと見えている。

 あそこには、何があるのだろう――どんな生き物がいて、どんな暮らしをしているのだろう。

 そんな風に胸を躍らせながら、ユダはじっと待っている。意思持つ小舟が、虹色の大地に漕ぎ着ける瞬間を、ひたすらにじっと待ち続けている。

 だがその夢路において、ユダの小舟がの岸辺に辿り着いたことはただの一度としてない。待てども待てども、彼方との距離は埋まらぬままで、そのうちにユダの心は不安と焦燥に溢れ返り、あらゆるものを疑う心が生まれてくる。

 陸のように見えている彼方の景色は単なる幻で、本当は自分の他に生きているものなど、どこにも居ないのではないか――そんな風に、圧倒的な猜疑心と孤独感とが大挙して押し寄せてくるのだ。

 ひとりぼっちは嫌だ。

 新しい世界なんていらない。

 それよりも、潮風に冷え切ったこの背中を温めてくれる〝誰か〟が欲しい。

 孤独な旅路を照らし、導いてくれる〝誰か〟が欲しい――。

 俯き、世界から目を背けたユダがそう望んだとき、小舟は軋みをあげ、大きく後方へ傾く。

 それが、自分ではない何者かの重みによるものだと気が付いたユダは、弾かれたように顔を上げ、背後を振り返る。そこに見えたのは――


「おはよう、ユダ。いい夢は見られたかい?」

 穏やかな呼び声と、瞼を撫でる白い光。二つのあたたかな気配に揺り起こされたユダは、ゆっくりと目を開けていた。

 頭が重い。何だか、とても長い夢を見ていたような気がする。

 傍らから呼びかけてきたのは、まばゆい金糸と、深い紫の瞳を持つ青年であった。

 ところがどういうわけか、懐かしさの込み上げるその面影を目にした後も、彼との思い出はおろか、その名前すら思い出すことができない。そればかりか、目覚めの淵となったこの場所が、何処なのかということさえ思い出せないのは――。

 目覚めたそばから、脳裏を駆け巡ってゆくたくさんの思いに翻弄されていたユダは、身じろぐどころか声を発することも忘れていた。しかし、うろたえる自分を急かすでもなく、傍らの青年はただただユダに優しく笑みを傾け、静かに喉を震わせていた。

「今度は一段と寝ぼけてるみたいだけど……まあ、いつものことか。でも安心して、ユダ。この花の香りを嗅げば、すぐに何もかも分かるようになるから」

 不安におののくユダの手を取った青年は、窓辺にあった鉢植えを取り上げると、そこに咲いた色鮮やかな花をユダに示してみせた。

 ――そうだ、あれは勿忘草わすれなぐさ。他のことは何もかも思い出せないが、あの美しい花のことだけは覚えている。

 ゆっくりと身を起こしたユダは、青年の差し出した鉢植えに迷いなく鼻先を近付けた。まるでそれが当然のことだと、本能に突き動かされたかのように。

 すぐさま、花弁の甘い香りがユダの鼻孔をくすぐった。続けざま、その芳しい気配に寄り添うように、瑞々しい青葉の香気が立ちのぼってくる。どこまでも澄み切ったその香りに触れ続けていると、昏がりの窓辺を開け放ったかのように、曇った意識の中へ一条の光が差し込んでくるのが分かった。

 途端にユダの脳裏を、懐かしい光景がよぎってゆく。

 白地を染め上げてゆくたくさんの色彩が、の青年と重ねてきた年月であることを認識すると、蘇る風景の数だけ、胸の内に安堵が生まれてゆくのが分かった。そこで初めてユダは、自らを取り巻く世界を認識する――鮮やかな青い花弁の中には、膨大な量の〝真理〟が詰まっていたのだ。

 すべてを解したユダは、そこで初めて、傍らに笑みを向けていた。

「僕は君を護るために生まれてきたんだよ。そう――思い出したかい?」

 ああ、思い出したよ。君の名は、ガラハッドだ。


「――おはよう、ユダ。いい夢は見られたかい?」

 穏やかな呼び声に揺り起こされ、ユダはゆっくりと目を開けていた。

 何だか、とても長い夢を見ていたような気がする。しかし、途方もない重さを孕んだ煙霧が意識の内側にべっとりと蔓延はびこっているようで、何ひとつ思い出すことができない――

 ユダを見下ろす青年の面影には、どこか見覚えがあった。こうして彼に揺り起こされることも、初めてではない気がする。

 湿風しめかぜに晒され、頬を伝う雫が微かに冷感を帯びている。光に満ちた世界を漂うような、心地好い夢を見ていたはずなのに、どうして自分は泣いているのだろうか。

「また一段と寝ぼけてるみたいだね――でも安心して」

 そんなユダの頬を、真っ黒い革手袋に覆われた青年の指先が、そっと撫で付けていた。

「今度はきっと、大丈夫。だって君はもう、〝自由〟なんだ」

 ――あれ?

 冷え切った体を抱きしめてくれた青年の体温に、ユダは胸を打つ懐かしさとともに、心底の安堵をおぼえている。しかし自身のどこかが、現況を受け入れてはならないと吼え立てているような気になるのだ。

 なにゆえ自分は、眠りにつく以前のことはおろか、彼の名前すら思い出すことが出来ないのだろう――否、そんなことより他に、もっと重要な何かを忘れてしまっているような。

「大丈夫だよ、教えてあげる。僕の名は、ガラハッド。僕は、君を護るために生まれてきたんだ」

 だが青年はまるで、そんなユダの思いを何もかも理解しているとでも言いたげに、柔らかく笑って頷いていた。

 その笑顔を見ていると、ユダの意識のほとんどを占めていた焦りや不安が消し炭のように小さくなってゆくのが分かる。

 僕は一体、何に怯えていたんだっけ――

 安堵に満たされたユダは次第に、ぼやけた記憶の存在すらも忘れ去ろうとしていた――まるで夢路の向こう側へ、全ての思い出を置き去りにしてきたかのように。

 夢路の気配を振り払うと、唐突にユダのあらゆる感覚が震撼していた。ガラハッドと名乗った青年の背後に果てしなく広がる世界を見た瞬間、途方もない思いがユダの胸を押し潰していたのである。

 この世界は、――?

 どこまでも続く鈍色の空と、荒涼とした大地。それらは酷く陰鬱で、ひたすらに殺伐としている。

 ようやっと自らを取り巻くすべてを認識したユダは、その仄暗い世界に激しく焦がれていた。世界とは、斯くも広大で荒々しく、混沌としたものなのか――と。


「ユダ、起きろ!」

 ――まただ。

 まどろみの淵から呼び戻されるのは、もう何度目になるだろう――それとも、これまで通り過ぎてきた目覚めの時間はすべて、夢路の出来事だったというのだろうか。

「ユダ、起きろ! で眠っちゃいけない!」

 魂を揺さぶるかのような喚び声に跳ね起きた。

 目を開けた途端、無数の棘を打ち込まれたかのような鋭い痛みが、全身に差し込んでくるのが分かった。その激しい感覚をもって、ユダはこの目覚めこそが〝現実の続き〟であることを瞬時に理解していた。

『せっかく揺籠を用意してあげたのに……二人とも目覚めちゃったの?』

 相棒ともメリルとも違う、耳馴染みのない声にはっと息を呑む。

 鉛のように重くなった四肢をどうにか動かすと、口元からボコボコと奇妙な水泡が湧き出すのが見えた。葡萄色ボルドーに染まった世界を目にした瞬間、ユダは突き付けられた現実に愕然としていた。

 しまった……!

 強烈な睡魔に襲われ気を失っていたのは、おそらく僅かな時間であったはずだ。その証拠に、真っ二つになったメリルもどきの断面はほとんど再生が進んでいない。だが、その僅かの間にユダは、相棒の閉じ込められたものとは別の捕虫器の中に囚われてしまっていたのである。

 どういうわけか、不気味な液に満たされた捕虫器の中では自在に呼吸ができ、息苦しさは全くと言っていいほどない。

 しかし、時が経つほどに全身の力が奪われ、意識に混濁が生じてゆくのが分かった。腰元の剣で捕虫器の側壁を斬り裂こうと思い立つも、既に柄をとる力すら失われている。

『目を開けているのが精一杯でしょう? それだけ貴女が無理を重ねているってことなの。いくら貴女でも、このまま無理を続ければ命が尽き果ててしまうわ』

 ――何を、言っているんだ?

 こちらの理解度などまるでお構いなしに語りしきるメリルもどきの言葉に、何ひとつピンと来るものはない。しかし、その薄ら笑う口元から一言一句が紡がれる度に、心の何処かが微かに揺れ動いているような、奇妙な感覚に陥るのである。

 そうするうちにユダは、とうとう思い至ってしまった――脳裏に直接語りかけてくるこの〝声〟の主こそが、欠け落ちたユダの記憶の一部を埋める存在パーツそのものなのではないかという可能性に。

「ユダ――そいつの話に耳を傾けるな!」

 しかし、もう一つの捕虫器に囚われたガラハッドは、余力の限りを振り絞り、〝彼女〟の真逆を叫んでいる。

『眠ってもいいのよ。だから、私を受け入れると約束して』

 再生を終え、地表からユダの眼前へゆっくりと浮上してきた彼女は、すっかり脱力し、呆然とするユダにそっと手を差し伸べてくる。捕虫器の壁は容易に彼女の小さな手を内側へ受け入れた。か細い指がユダの頬に触れた途端、まるで聴覚そのものが消え失せてしまったかのように、相棒の声が遠くなるのを感じた。

「駄目だ、ユダ――そんな出鱈目を受け入れちゃ――」

 声の主の口元に薄く灯った笑みをぼんやりと見つめながら、ユダは最後に聞こえた相棒の言葉を静かに咀嚼する。

 出鱈目? それは、違う――!

 この磁力に引かれるような激しい感覚が、偽りなどであるはずがない。自らの記憶ルーツを追い求め生きてきたこの二年間、これほど激しく根源を揺さぶられるものに出遭ったことなど、一度としてなかったのだから。

 思いを固くした分だけ、ユダの〝絶対〟であった相棒の言葉に、ひずみと揺らぎが生じてゆくのが分かる。そして再び、この廃村を訪れた時と同じ、あの奇妙な感覚がユダの内側を支配していた。相棒の気配が遠ざかってゆくほど、ユダの意識は鮮明に整ってゆく――まるで彼の存在そのものが、ユダの障壁となっていたかのように。

 どうして?

 彼は、僕の一番の相棒でなくてはいけないはずなのに。

 この世で一番、信じられる存在でなくてはいけないはずなのに。

 だって、そうでなければ、僕は――!

 真理に近づけば近づくほど、その破綻を望む気持ちが顔を出そうとする。

 鮮明に整った意識を掻き分けようとすればするほど、頭の中は混乱を呈してゆき、ユダの疲弊は急速に進行していった。

 ――もう、何も分からない。

 まるで、光すらも届かない海の底へ投げ込まれたような気分だ。あらゆる感覚とあらゆる感情の糸がめちゃくちゃに絡まり合い、もはや天と地の区別さえも付かなくなっている。

 僕は一体、何者なんだ……?


「――許さない」

 深い深い水底。絡み合った糸をどうすることも出来ず、混乱の最下層を漂っていたユダの意識を再び引き戻したのは、その小さな呟きを引き金に鳴り響いた、けたたましい破裂音であった。

「僕らの邪魔をすることは、絶対に許さない」

 吐き出す息すらも凍てつかせるような、温もりの欠片もないその声音が相棒のものであることを認識すると、ユダの全身を覆い尽くしていた倦怠感は嘘のように消え失せていた。そしてまたあの強烈な痛みが、まるで警鐘を打ち鳴らすかのごとく、鋭利に頭の芯へと差し込んで来る。

「欺瞞だらけの出来損ないどもめ――お前たちはやはり、塵すら残さず滅びるべきだ」

 いつの間にか、ガラハッドは捕虫器の拘束を逃れ、下方の地面にゆらりと佇んでいた。先ほど聞こえた破裂音は、おそらく彼が内側から捕虫器を破壊した時に聞こえたものだったのだろう――彼の足元には、詰め牢の外壁と思しき蠢く断片と、牢を満たしていた濃赤の液体が放射状に飛散している。

『おおお――あぁああ!』

 すると唐突に、人のものとも獣のものともつかぬ異様な叫び声が轟き、皮膚の内側を引っ掻き回されるかのような、鈍い衝撃が全身をはしり抜けていた。

 見れば、つい先ほどまでユダの眼前に居たはずのメリルもどきが、苦しげに頭を掻きむしり、ばたばたと地をのたうち回っている。

『貴方は――! また私たちの邪魔をするの? 〝護り手〟に過ぎない貴方が、私たちの邪魔をしてもいいと思ってるの!』

 露出した肌のいたるところに葉脈をびっしりと浮き上がらせ、血走った眼光で相棒を睨め付けるそれは、もはやメリルもどきですらない、ただの異様な怪物であった。

「私たち……? ユダがお前たちと同じだって? ふざけるなよ、汚らわしい獣ども。いつでも世界が、お前たちの思い通りになると思うな」

 しかしながら、そんな怪物の姿を目の当たりにしても、相棒は顔色ひとつ変えようとしない。

「楽に死ねると思うな。僕らの前に立ちはだかったことを、心の底から後悔させてやる」

 血溜まりから拾いあげた鍔付き帽子を膝に叩きつけ、無造作に滴を払い落としたガラハッドは、ゆっくりとそれを被り直すと、不敵に口端を持ち上げていた。

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