3-2 揺れる

シロはなんでも知っている。

だからこそ猫である。猫はなんでも知っている。けれど何も言わない。言葉がないからだ。人がわかる言葉を持っていない。故に、シロはこの街で独りぼっちの猫。クロという飼い主はいるが、それでも一人だ。

「最近、エイプリルの様子がおかしいな」

 寂しくはない。猫であっても、誰かと通じることはなくても、クロがいた。クロがいるからこそ、シロは幸せだった。何もかも持っていないクロがいるからこその、シロだった。

 クロはじゃれるシロを適当にあしらいながら、瞳はどこかを見ていた。黒い目は今はシロではなく、エイプリルを見ているようだ。

 エイプリルという少女はまるで少年のようで、シロと仲良く、また誰とでも気安い。まだ学生であるはずなのだが、学校に行っている様子はない。一応、制服らしきものを着ているが、もしかすると単なる普段着かもしれない。登校拒否するような性格でもなさそうなので、恐らく何か事情があるのだろう。

 そんな少女が泣く姿をクロは初めて見た。否――泣くという行為を、生まれて初めてに近いくらい、久しぶりに見た。悲愴で、見ているこちらまで苦しくなる感情は――そういえば、何と言うものだったか。幸せ以外持っていないクロは判断できなかった。何も持っていないクロはそれ以上考えることができなかった。

 何かあっただろうが、それ以上は本人の問題だ。土足で上がりこんではいけない。クロは飲み込むように瞬きをすると、シロをひょいと抱えた。シロは嫌がったが、しぶしぶ背中におぶさった。そしてクロの頬を舐めた。

「マリアの依頼か? 正直、迷ってる」

 エイプリルが泣くほどの理由があるのか、クロは判断できない。過去を持たないクロは比較する材料を持っていない。だからこそ動けず、ぼんやりとシロを撫でる。

「俺は探偵だ。依頼を受ければ、見つけるのが仕事。でも……。シロ、お前はどう思う?」

 シロは七色に輝く目でクロを凝視していたが、ふと視線を落とし、表情を消した。

「そうか。お前はエイプリルと友達だからな」

 シロは顔を上げると、体を回転させながらクロから離れ、少し戸惑った様子でクロを見上げた。その顔は「クロの好きにしていいよ」と言っているようだが、瞳は怯えを見せていた。エイプリルが見せたその色と同じ、揺れる悲しい色だ。

「わかった。無理に見つけようとしないが、見つかったら……マリアに伝える。それくらいなら、いいだろ?」

 尋ねると、シロは少しだけ顔を明るく見せた。少し、だが。完全には払拭されなかったが、それは依頼というものが本人によって破棄されない限りなくならないだろう、とクロはシロを眺めながら思った。やがてシロはクロから離れ、駆け抜けて行ってしまった。どこに行くかはわからないが、風力タービンを目指しているのだろう。シロは風が好きだった。

 いつもなら追わないクロだったが、今日はシロの背についていった。猫だと信じる少女の背中は細く、折れてしまいそうだ。影も落とさないほど走ってしまっては、ある日ぽきんと折れてしまうかもしれない。クロも小走りに追う。

 珍しく追いかけてくるクロにシロは振り向くと、たまらず笑顔を零した。白い風がその笑顔を街に伝える。幸せだよ、と。何度も、何度も、風力タービンと共に繰り返す。

 崩れない。幸せは決して。この街が街である限り。風が止まらない限り。

 だからシロは走る。走り、走り続け、街で唯一の出入り口である門を通り過ぎ、風力タービンへ。手を伸ばし、掴み取ろうと手をかざしながら。祈るように。

 それは長く続かなかった。シロは立ち止まり、笑顔を消した。振り向くと、クロがいつの間にか立ち止まり、それを見ていた。食い入るように、たった一点を凝視している。

 街で唯一の消失点。そこは街の終わり。

 誰もが近づかないそこに、マリアが立っていた。ハチミツ色をした瞳には四角い出口が映し出されていた。光はなく、それのみを映すスクリーンのようだ。

「マリア」

 クロの声にシロははっとなったが、遅かった。マリアはどこか虚ろにクロに振り向き、表情なく、くちびるはクロの名を呼んだ。シロは急いでクロに近づいてすがりついたが、クロはマリアをじっと見るばかりでシロに反応してくれなかった。

「ねえ、クロ。この先に何があるの?」

 クロもまた、四角い出口を見る。扉はなく、ただ開け放たれたままの門は、白いまま沈黙している。数百メートルも離れていないというのに、その先は見えない。薄暗い四角だけがぽっかりと浮かんでいる。

 クロは首を横に振ると、シロの頭を撫でて脇に抱えた。シロは慣れているので、そのままクロの背をよじ登った。そんな二人にすでに慣れたマリアはそのまま話を続けた。

「この先に行ったら、私の暇はなくなるかな?」

「さあ」

「探偵のあなたも知らないの?」

「そういった依頼は来ないからな。来るのは探し物と愚痴のはけ口ぐらいだ」

「誰も疑問に思わないのね。私ばっかり。お姉ちゃんは何も言ってくれないし」

 マリアはくちびるを尖らせると、そっぽを向いた。ようやく感情らしいものを表に出し、マリアはマリアに戻った。シロはそれにほっとした。

「どうしよう。私、暇……。前は何をしていたのかな。全然わかんない」

 シロはわかっている。マリアは幸せだけを詰め込まれた人だということを。本人がいくら何かを思っても、それは幸せという封印によって閉じられ、代わりにぬくもりが支配する。それを幸せと言っていいのか、それは本人の問題だ。幸せが何もかも洗い流してくれる。

 マリアはしばらく床を眺めると、何も言わずにどこかへ消えてしまった。目線の先に、白い塔がある。家に帰るのだろう。幸せと気づいたから、あるいはマザーに呼ばれて。まるで夢遊病のようだが、この街はすでに夢。それは近いようで遠い表現だ。

「変な子だな」

 クロの声にシロは笑顔で頷く。するりとクロから滑り落ちると、風力タービンを目指した。クロは追いかけてこない。家に帰って本を読むのだろう。何も書かれていない、白い本を。

 シロはちらりと出口を見た。時折誰かが通る、黒い扉。

 ――こんな扉など消えてしまえばいいのに。

 シロは願う。この街が永遠でありますように。

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