3章 pandora

3-1 探し物

 クロの朝は早い。朝日と共に起き上がり、シャワーを浴びる。シロはその音と石鹸の香りでぼんやりと目を覚まし、もう一度眠る。しばらくしてドライヤーの音が響き、布が擦れる音で着替えていることがわかる。シロはベッドの中でごろごろと喉を鳴らし、まどろみを味わい、何度も、何度もぬくもりを確認する。

 だがそれは長く続かない。クロが布団を剥ぎ取ってしまうからだ。布団にしがみついていたシロの体はころんと転げ落ち、クロはシロの首根っこをすばやく持つと、しわひとつない服を着せてあげた。その時、シロは少しだけ抵抗するが、クロは有無を言わせない。上から押さえ込むように頭から服をかぶせ、手を引っ張って、完了。シロは急いで毛づくろいし、一緒に朝食を手伝う。朝食はその日によって違うが、大体がベーコンとバタートースト、コーンスープに甘いミルク。シロはミルクにシロップを入れる係りだ。真っ白なミルクに透明なシロップが混じり、小さなバレリーナが回転するような動きをシロはいつまでも見ている。その間にクロは盛り付けを終え、二人はテーブルに着く。

 食べ終えた後は自由行動。クロは本を読み、シロはどこかに出かける。違うこともあるが、大抵はそうだった。

 しかし今日は違う。クロは出て行き、シロはぽつんと残っている。クロの家には何もない。白い街に転がっていたいくつかの本と着ている服。ここに残っているのは唯一の手がかり、小さな弾丸。

 シロはクロのディスクから弾丸を取り出した。

 クロが言っていた。パンドラの箱というものがある。何が入っているかわからない。うっかり開けてしまい――そこから出てきたのは沢山の絶望。この世を貶める天災。しかし急いで閉めたため、ひとつだけ箱に残ったものがある。最も恐ろしい厄か、それとも希望か。

 シロはそれを希望だと信じている。真っ黒に染められた中のたった一つの白い希望。誰かが流した涙のように清涼な一粒。

 シロは弾丸を握り締め、そっとしまった。ころん、と転がる音がするだけで何も言わない。弾丸はすでに役目を終えている。私は忘れない、そう叫んで、絶命したのだ。


 日々は単調だ。白い街は何も生み出さない。白はすでに生まれた色、それ以上は何も与えることができない。ただ、吸収することはできる。何かを取り入れ、別の色を生み出す。だが、住民はそれを望まない。ただひたすら白い色でいてほしいと願っている。

 シロは風力タービンの動きに合わせ、顔を動かした。塀に腰かけ、ぐるぐる、ぐるぐる、と追い続けている。細い足は海に投げ出され、ぶかぶかの靴が今にも脱げ落ちそうだった。

 今日は珍しく、風以外の音色が聞こえた。シロはうっすらと目を閉じ、その歌を聞いた。歌というより、単なる鼻歌であり、歌詞はない。気まぐれな音はシロを楽しい気持ちにさせた。

 歌の主はエイプリルである。黒い髪をなびかせ、マザーに散々結べと言われたネクタイを首から下げ、短いスカートをはためかせている。軽快な歌そのものの姿は一見楽しそうだが、漆黒の瞳はどこか遠くを見ていた。

 シロはエイプリルに近づくと、覗きこんだ。エイプリルはすぐに気付き、にっかりと満面の笑みを浮かべた。

「シロ、おはよう」

 シロは挨拶の代わりに、真っ白な歯を見せて笑った。そして、七色の目でエイプリルをじっと見つめた。それに気づいたのか、エイプリルは少し顔を曇らせた。

「何もないよ。ただ、歌いたくなっただけだ。……千春がさ、歌ってるんだ。ワタシの中で。すっごく幸せそうに。夢の中でも千春はアザレといるんだ。ワタシは……少し不愉快だ。だから歌ってみた。千春みたいな気持ちになれるかと思って。けど、やっぱりワタシは千春じゃないんだ。千春の体を乗っ取る精神体でしかない。おかげで不愉快は直らない」

 肩をすくめるエイプリルにシロも顔を曇らせた。とたんに瞳は灰色に変わり、あんなにも輝いていた光はぼんやりと薄らいだ。エイプリルは慌てて手を振り、無理やり笑みを貼り付けた。

「変なこと聞いた、みたいな顔するなって! ワタシは楽しいんだって。歌って結構いいなって……な? だから変な顔するなよ」

 本当に? と尋ねる瞳にエイプリルは何度も頷いた。頷きながらもエイプリルの顔は曇ったままだった。

「でも……正直言うと、ワタシはちょっと怖いんだ。どうしてそう思うのかわからないけど」

 シロはすがるようにエイプリルを見上げる。エイプリルは苦笑交じりだったが、笑みを取り戻した。

「それでも、ワタシは幸せだよ。大丈夫……ちゃんと幸せでいる」

 風力タービンが風を送る。何も生み出さない白い色を含みながら。白い空も白い雲も白い街並みも制止しているのに、風だけは人を動かす。

 二人は風の音に耳を傾け、頬に触れる感触を確かめ、そしてエイプリルはまぶたを閉じた。

「シロは、幸せだよな?」

 些細な問いかけに、シロは空を見つめながら頷いた。気がつけば笑みは消え、瞳はビー玉のようにただ光るだけだ。

「何もかも覚えている、シロ。何もかも忘れてる、クロ。ワタシは……覚えていて、忘れてる。マリアは……全て忘れてる。クロに近いけど、マリアは……違う。それを、疑問に思ってしまうんだ」

 エイプリルは口を両手で塞いだ。飴玉を飲みこむように、こくりと言葉を咀嚼し、押し込む。手を開き、まぶたを開き、目の前にあった白い壁だけを見つめた。

「なんて」

 エイプリルは自嘲気味に笑うと、シロの頭を撫でた。シロは心地よさそうに目は細めたが、顔は笑っていなかった。

「ごめん。シロは忘れることができないのに、こんなの愚痴って」

 シロは一生懸命首を振った。瞳は「違う」「大丈夫」と言っているように見えたのは、エイプリルがそう望んでいるからだろうか。

「シロは全部知ってるのに、わかってるのに……。幸せって人それぞれだよな……。ワタシだって、幸せなのに。怖いよ、シロ……」


 崩れるようにすがりつくエイプリルをシロは優しく抱きとめ、頬を舐めた。猫である少女はまるで人間のように、あるいはエイプリルは赤ん坊のように、二人は互いを慰めた。

 二人を覆う黒く大きな影が伸びた。シロはエイプリルからそっと離れ、見なくてもわかるその顔をうんと見上げた。遠くの空に、クロの顔はあった。特徴のない顔が二人を不思議そうに見ている。だがエイプリルが顔を上げたところで、少しだけ驚いた風になった。

「エイプリル、どうしたんだ? 転んだのか」

「今時、転んだだけで泣く奴なんていないよ。ごめん、クロ。シロ、ちょっと借りてた」

 エイプリルは気まずそうに笑ったが、顔は再び俯いてしまった。そんなエイプリルに戸惑うシロは、とりあえずクロによじ登った。エイプリルは鼻をすすると、二人を見ずにつぶやいた。

「珍しいな、クロ。散歩か?」

「散歩、というより探し物かな……。俺は一応、探偵だからな」

「頼まれたのか? それこそ、珍しいな。探し物なんて」

 白い街の住人は何も望まない。幸せだからだ。だから何かを無くしたところで、それはよっぽど、幸せに近いものでない限り、探そうとはしない。

 クロは少しだけ唸ると、シロをあやしながら白い空を仰いだ。

「マリアの理由」

 エイプリルは制止した。空のように、あるいは街のように。体中が硬直し、口の中が渇いた。唾を飲み込もうにも体は動かず、目すら一点から逃げられない。

 エイプリルはわからないでいた。クロが何を言ったのか。シロもクロの言葉に凍りついていた。少女二人は思わず顔を見合わせる。シロは何も知らない、と目で言った。

「クロ……今、なんて?」

 辛うじて出た言葉を、クロはなんてことなく口にする。

「マリアだ。マリアが理由を探してる。頼まれたんだ」

「そんなの、受ける必要ない!」

 思わず声を張り上げたが、クロは動じない。名前の通り、じっと黒く潜んでいる。エイプリルは肩で呼吸すると、へたり、とその場にしゃがみこんだ。クロは慌てたが、エイプリルは茫然とするばかりだ。

「や、やめろよ……クロ、お願いだから、マリアの虚言に構うな……!」

「エイプリル? 何なんだ」

「クロ。いいから。依頼は破棄だ……。動かないでくれよ……」

 白い姿がふわりと立つ。天使のような姿に、エイプリルはすがった。シロはエイプリルをもう一度抱きとめると、クロに七色の目を向けた。クロはそれを何と読みとったのか。黙って頷くと、シロの手を取った。

「わかった」

 ただそれだけを言うと、クロは踵を返し、どこかへと歩いて行った。シロはその姿を追う。そして振り返り、うなだれるエイプリルを見た。その目は憐みに潤み、やがて白い風と共に消えた。

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