💘52 それじゃあ詐欺じゃないのっ

 リュカの元上司であり、何百年もの間を共に過ごした恋人。


 そのラファエルの、澄んだ青空のような瞳もまた揺れていた。




『ラファエル……。僕は……』


『リュカ。私への言葉は必要ない。

 先日君の元へ降り立った時に、私はすでに予感していたのだ。

 あのとき君が僅かに見せた躊躇いは、もう消えることがないのだろうと。

 砂粒ほどのその躊躇いが、いつか明確な形を成して君にその理由を認識せしめる時が来るであろうと。

 そして先日、主にこの千紫万紅殿に呼ばれた時に私は知ったのだよ。

 リュカ、を咲かせられるのは、やはりこの私ではなかったのだと……』


 彼は寂しげに、静かに微笑むと、あたしに穏やかな視線を向けた。


『私は主のお傍に仕える身。

 愛する者が別の誰かを愛することも、私の元を離れることも、すべて主の思し召しであると知っている。

 そしてそれを受け入れ乗り越えることで、己の魂がより美しい花を咲かせることも知っている。

 ……もっとも、今日という日ほど、感情のままに動ける人間が羨ましいと思ったことはないが』


「ラファエル……」




 天使長の彼はきっと、喜びや悲しみを理性の殻に閉じ込めているんだ。

 人間のような醜い嫉妬も絶望的な悲嘆も感じることはないのかもしれない。

 けれど、時には分厚い殻を破って、思い切り怒ったり泣いたりした方が楽なこともあるんじゃないかな。

 あたしが人間だからそう思うんだろうか。




『ラファエル……。ではせめて、これだけは言わせてください。

 僕のことを、ずっと待っていてくれてありがとう。

 僕のことを、ずっと見守っていてくれてありがとう。

 僕のことを、愛してくれてありがとう――』


 涙を流したリュカが右手を差し出すと、ラファエルはゆっくりと頷き、彼の手を取り立たせた。




 その光景をにこにこと見守っていたおじいちゃんが、コホンと小さく咳ばらいをした。


『さて……。これで大団円といきたいところじゃがのう。

 リュカが贖罪を終えて天使に戻った今、地上界に彼を留めるわけにはいかなくなった。

 天使は天上界に住まうものであり、天使としての務めを果たしてもらわねばならんでのう』



 え…………




 ええええええええっ!?




「ちょっと待ってっ!!

 せっかくリュカと想いが通じたのに、どうしてっ!?」


『どうしてもこうしても、元々そういう話じゃったろう?

 ちえりが幸せを掴み贖罪が成せたときに、リュカは天上界に戻ると』


「何言ってんの!? それじゃ詐欺じゃないのっ」


『人聞きの悪いことを言うのう。何をもって幸せとするかはお前さん次第だったはずじゃ』


「ぐう……っ。とにかくそんなのずるいっ!」


 鼻息荒く詰め寄るあたしとおじいちゃんの間にリュカが慌てて割り込んだ。


『ちえりっ、落ち着いてっ!

 主よ。ちえりが別の形で幸せを手にしようとしていたのを自分のエゴで迷わせたのは僕の罪です。

 どうかもう一度僕の罪を問うてください。そして、僕をもう一度堕天させてください!』


『それはできなくもないが、新たな罪で堕天するとなると、再び地底界での何百年という謹慎期間を経ねば地上界には上がれんぞい?

 人間のちえりには到底待つことはできまい』


『ぐう……っ』


 揃ってぐうの音を出したあたし達。





 本当に、リュカとはこのままお別れするしかないの──?





 頭をハンマーで殴られたようにぐわんと頭痛が襲ってきたとき、あたし達の背後からくすくすと笑い声が聞こえてきた。


『主よ……。あなた様もお人が悪くいらっしゃる。

 そろそろこの二人にお導きを授けられてはいかがです?』


 目じりに涙をためて笑いをこらえるラファエルに、おじいちゃんが悪戯っぽく笑いかける。


『嫉妬もできぬおぬしの代わりに二人を少々困らせてやったのじゃよ。

 二人ともまっすぐな性格じゃから、からかい甲斐があって楽しいわい』




 おじいちゃんはそう言うと『そうれっ』と腕を伸ばした。

 すると、真っ白だった空間に無数の花々が現れた。

 百花繚乱、かぐわしい香りを放ちながら一斉に咲き誇る光景は天国そのもの。


 突然現れた光景に呆然としていると、おじいちゃんが独り言のように呟いた。


『わしは花を育てるのが趣味でのう。

 花といっても、咲かせるのは植物だけではない。

 天と地に生きるすべての魂の花を咲かせるのがわしの趣味であり務めなのじゃ。

 ここに咲く花はすべて、わしが慈しみ、大切に育てて咲かせた魂の花じゃよ』


 どこまで見渡しても尽きることのない花畑。

 ぼんやりとその美しさに見とれていると、おじいちゃんがあたしの肩を叩いた。


『ほれ、あそこを見てごらん。

 濃い桃色の春芳珠蘭がお前さんの花、その隣に育っておる真っ白な淡雪薔薇がリュカの花じゃ。どちらも今にも綻びそうじゃろう』


 おじいちゃんの指さすところを見る。

 ピンクと白、大きく膨らんだ二つの蕾が寄り添うように佇んでいる。


『人間は寿命が短いのでな。何代にもわたって少しずつ花を美しくさせていく。

 一方で、天使は寿命が長い。非常に美しい花を咲かせるが、咲くまでの期間が長い。

 育て方がまったく違うし、普通であれば人間の花と天使の花が互いの成長に影響し合うことはないのじゃがな。

 珍しいことに、お前さん達二人の花は、固く小さな蕾をつけた頃からああして寄り添って、互いの成長を促しているのじゃ』




『以前見せていただいた時は、僕の花はまだ蕾すらつけていませんでしたよね?』


 あたしの隣に立つリュカがおじいちゃんに尋ねると、おじいちゃんは目を細めて頷いた。


『そうじゃ。おぬしは元々天使らしからぬ性分を持ち合わせておったせいか、花の生育が今ひとつでのう。

 ひょろひょろと力なく茎だけが伸びたところに、ちえりの花が芽を出したのじゃ。

 ピンと来たゆえ、おぬしの贖罪の対象をちえりと定めたのじゃが、ちえりの花が双葉を出した辺りからおぬしの方も生育が良くなってきてのう。

 どちらもあともう一息で花が咲きそうなのじゃよ』




 あたしがリュカの贖罪の対象に選ばれたのには、そんな理由があったんだ。

 あたしとリュカは、寄り添い、助け合いながらお互い成長していたんだ。




『おぬしらの花はああして寄り添ってこそ美しく咲くことができるのじゃろう。

 それがわかっていて引き離すことなど、花を愛するわしにはできぬことじゃ。

 ちえり。お前さんはリュカと寄り添うことで、ズボラを乗り越え誰かのために頑張ることを厭わなくなりつつある。

 リュカ。おぬしはちえりと寄り添うことで、必要なのは自己満足の過保護ではなく相手を思いやる心なのだということを学びつつある。

 二人とも蕾が綻ぶまであともう一息じゃ。

 地上界で寄り添い、互いの花を咲かせてくるがよいぞ』




「それって、今まで通りリュカと暮らせるってこと……?」


『では……僕は地上界に戻れるのですか?』




 あたしとリュカがほとんど同時に尋ねると、おじいちゃんはどちらにも答えるように頷いた後で、人差し指を立てた。


『ただし、じゃ。それには条件がある』

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