💘51 彼の名がこれまでにないくらい愛おしい音で零れ落ちた


 人垣を押しのけ、輪の中心へと躍り出たリュカ。


「ちょ、リュカ、何を──」





 あたしが声を上げた瞬間、彼は猛然と大山先輩に走り寄り――




 今まさに人工呼吸を施そうとしている先輩に体当たりをかましたのだ!




「うわっ!?」


 横から受けた突然の衝撃に、先輩が倒れ込む。





「あっ!? 何やってんのっ!!?」



 あたしの命を助けようとしてる人になんてことをっ!!



『リュカ! 君はまた罪を犯すつもりなのか!?』


 隣のラファエルも動揺して声を上げる。


 天上界あたし達の驚きを知らぬまま、リュカは先輩の代わりにあたしの胸を圧迫しだした。




『ちえりを助けるのはこの僕ですっ!

 ちえりは僕のものだ!!

 誰にも触れさせないっ!!』




「えっ──?」






「なんだ? 何が起こってるんだ!?」


 慌てて起き上がった先輩があたしに近寄ろうとしても、リュカが見えない盾となり触れることができない。




『ちえりっ!

 どうか目を開けて!

 幸せになんかならなくてもいい!

 僕の傍から離れないで!』



「何、それ――」





 リュカはあたしの胸に重ねていた自分の手を離し、あたしの顔をじっと見つめる。




『ちえりと離れるくらいならば、僕は地に堕ちたままでいい。

 僕はもう迷いません。

 ちえりの傍にいたい。

 ずっと。ずっと――』




「リュカ―──―」


 あたしの口から、彼の名がこれまでにないくらい愛おしい音で零れ落ちた。



 それに気づいたとき。





『彼を迎えに行っておいで』





 しゃがれた声がして、後ろから伸びてきた腕があたしを優しく泉の中へ押し込んだ。




「あっ……」




 再び水の中に潜った感覚はほんの一瞬で――



 あたしの頬に雫が落ちる感覚にうっすらと目を開けると、ずぶ濡れのリュカの前髪と、深い湖の色の瞳が近づいてきた。



 その瞳を瞼がそっと覆う。

 あたしも再び目を閉じる。




 そして――





 強く押しつけられた唇の感触。


 注がれる甘やかな息。


 やがて絡まる指と指。





 これじゃまるで、あたし達は恋に落ちているみたいだ。





 ううん。違う。





 確かに、




 あたし達は恋に落ちている。





 彼の言葉が。

 彼の口づけが。

 あたしだけに注がれる蜜のように甘美な思いが、こんなに嬉しいだなんて――――








 そう思った瞬間、とても暖かなものに包まれ、続いて水中にいるかのような感覚がした。


 目を開けると、あたしは再び白い空間に戻っていた。





「……あたし……」


『あっ!! ちえりっ! 気がつきましたかっ』


 すぐ隣からリュカの声がして振り向いた。


 けれども、そこにいたのは――




「え……? リュカ!?

 どうしたの、それっ!?」




 そりゃああたしも驚くってもんだ。


 黒髪、黒の燕尾服、黒い翼をもった夜闇の欠片かけらが、まばゆいほどの金髪、白い燕尾服に純白の翼という容貌に変わっているのだから。




『あ……あれ? この姿は……元に戻ってる!?』


 座り込んだまま自分の体を見回すリュカの前にラファエルが歩み寄り、穏やかな笑みをたたえて彼に告げた。


『おかえり、リュカ。

 長きに渡る謹慎生活に耐え、晴れて贖罪を成し得た君を祝福しよう』


「ラファエル……!

 ここは天上界なのですか……?

 ちえりと僕は、一体――」


 不安げな瞳をあたしに向けるリュカ。

 あたしもさっぱりわからなくて首を傾げてみせる。


『リュカ。おぬしはたった今ちえりを幸せに導くことができた。

 それにより、かつて聖人マラカスを怠惰に導いた罪が贖われたのじゃ』


 ラファエルの背後からひょっこりと出てきたおじいちゃんを見た途端、リュカは慌てて跪き、両手を組んで声を震わせた。


『おお、主よ……! 主がお導きくださったのですか……!

 ありがたきお言葉ですが、僕はこの事態がまったく把握できていないのです。

 僕が贖罪を成したというのは……ちえりを幸せに導いたというのは、本当のことでしょうか』


『ほっほっ。わしがドッキリなど仕込むはずがなかろう。

 信じられないのであれば、隣にいるちえりに尋ねてみればよかろう。

 彼女が心からの幸せを感じたかどうかを――』




 リュカが再びあたしに視線を向けた。

 深い湖の色の瞳はあたしの知ってるリュカのままで、風にざわめく水面のように不安げに揺れている。



『ちえり……。僕は本当にちえりに幸せをもたらしたのでしょうか?

 先ほど僕の取った行動といったら、ちえりにキスしようとした白フンの君を突き飛ばして……』


「あれはキスじゃなくて、人工呼吸で救命しようとしてくれたんでしょうがっ!

 そんな大山先輩に体当たりして押しのけて、あれじゃあ助かる命も助からないわよっ」


 呆れて思わずツッコミを入れてから、あたしはリュカの瞳をまっすぐに見つめた。


 リュカを幸せにするためには気づいちゃいけないと、ずっと心の奥にしまい込んでいた気持ち。

 いざそれを口に出そうとすると、心臓が飛び出そうなくらいドキドキする。



「あのさ……。

 さっき横たわるあたしに向かってリュカが叫んだ言葉、覚えてる?」


『言葉? 僕は無我夢中で、とにかくちえりを失いたくなくて……』


 くるりと瞳を巡らせた直後、リュカの顔がみるみる青ざめていく。


『あぁ……! 思い出しました……。僕はなんて自分本位なことを……っ』


 おじいちゃんに向かって懺悔をしようとした彼の手を、あたしはぎゅっと握った。


「リュカの言葉は、確かに天使としては失格かもしれない。

 でも、その言葉をもらって、あたしはすごく嬉しかった。

 それから、口づけをもらって、あたしは天にも昇る気持ちだった。

 あたしはリュカから最高の幸せをもらったんだよ?」


 彼の細い指を握る手に力を込める。

 彼の瞳に映るあたしは、いまだ不安げに揺れている。


『でも……。ちえりの幸せは、白フンの君との恋が成就することじゃないですか。

 僕のエゴで、ちえりの進むべき道を無理やり曲げてしまったのでは……』


「確かに、あたしの当初の目標は大山先輩との恋の成就だったよ。

 そのためにリュカと一緒に頑張っていたはずなのに、いつのまにか傍にいるリュカが誰よりも大切な存在になっていたの。

 リュカと離れるくらいなら、恋が実らなくてもいいと思うほどに」




 深い湖の瞳が大きく揺れた。

 真っ白になった彼の燕尾服の胸に、あたしはおでこをそっとくっつけた。




「あたしももう迷わない。

 ずっとリュカの傍にいたい。

 あたしもリュカが好き。

 大好き――」




 ここまで伝えれば、不安げな彼の瞳は凪ぐだろうか。


 顔を上げて彼を見た。


 彼の瞳は大きく揺れたまま、まっすぐに前を見つめていた。




 彼の視線の先にいたのは、ラファエルだった――


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