二丁目

 目の前に現れたのは、赤い蟻だった。

 彼の身の丈を越える上背、頭は大きく、腹部はその頭よりも更に大きい。

 丸々と膨らんだ腹部は薄く透けていて、何らかの液体で満たされているであろうその中に、衣服を纏ったままの数人のエルフが、目を見開き、口を半開きにして沈んでいた。


 光る石がふんだんにあしらわれた広い穴の中、絶句して立ち尽くす威焔に気付いていないのか、赤く巨大な蟻の足元には忙しなく動き続ける影が見える。

 赤い蟻の脚の一関節分ほどもない小さな白い蟻たちが、肌色の小山を中心に行ったり来たり、あるいはその小山の上で小刻みに揺れ動いている。


 それまで見たどんな穴よりも温かく、音とに満ちた空間。

 言葉になっていない呻き声。

 小刻みに水を打ち付けるような音。

 甘ったるく生臭い匂い。


 よくよく目を凝らせば、肌色の小山は折り重なった裸のエルフの男女であった。

 無作為に並べられた5人ほどの女性エルフの足元を白い蟻たちが代わるがわる行き交い、その中の一匹はぐったりとした様子の男性エルフを中脚で器用に抱きかかえ、女性エルフに覆い被さって小刻みに動いていたのだ。

 白い蟻が動くたびに、色とりどりの嬌声が響く。


 威焔は状況が飲み込めないまま、習慣的にその場にいる者の数をカウントしていく。



(赤い蟻が1、白い蟻が18、エルフが12。赤い蟻の腹の中に沈むエルフの存否は不明……蟻も重量その他、戦力は不明……)



 蟻の数は多いが、大規模な魔法は確実に生存者を巻き込んでしまう。

 どうすればいい、どこから斬り込めば被害を最小化できる――答えの見えない問いが重ねられ、結論が出ないまま、時間だけが過ぎていく感覚に囚われる。


 彼が立ち尽くしていると、変化が訪れた。

 白い蟻が抱えていた男性エルフが口から泡を吹いて激しく痙攣しだしたのだ。

 白い蟻はそれを拘束し続けることができず、男性を取りこぼしてしまう。

 威焔は反射的に動き出した。

 袋小路の入り口から男性の元まで約30歩。

 隠蔽の魔法は維持したまま、自身を覆う物理障壁を解除して腰の刀を右手で引き抜きながら、赤い蟻の眼前を素通りして間合いを詰める。



「あえっ」



 上ずった声と、何かが割れる乾いた音が響き、威焔の視界の中でのたうっていた男性の四肢が動きを止めた。

 男性を取りこぼした蟻とは別の蟻が素早く男性に歩み寄り、拳大ほどの顎で男性の目元を挟み、噛み砕いたのだ。


 ――ブチっと、何かが千切れる音がした。


 威焔の手の中の刀が熱を帯び、朱を撒き散らすエルフに群がり始めた白い蟻の群れに、力任せに叩きつけられる。

 ぶつん、ぶつんと音が弾け、乱雑に千切れた白い蟻が左右に舞う。

 朱と白とが入り乱れる中、彼の踏み込みに耐え切れなかった長靴の靴底は我砕け、硬い地面にめり込んで模様の一部と成り果てた。

 突然の事態に白い蟻は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、赤い蟻は隠蔽の魔法が切れて姿を表した侵入者に襲い掛かる。

 鋭く振り下ろされる槍のような前脚は、猛り狂う鬼の暴力によって薙ぎ払われ、両の前脚、中脚を瞬く間に裁断されて、赤い蟻の上体は地に伏した。

 その蟻の胸の下にいた鬼は、それによって潰されることなく、両手で真っ直ぐ上に突き立てた刀で支えて凌ぐ。

 鍔元まで埋まった刀身には見た目ほどの重さは伝わらず、存外軽い赤蟻の頭目掛けて刀が振り抜かれた。

 刀は斬り裂く音を立てるでなく、破裂音を奏でる。

 赤蟻はのたうつ間も無く、熱に焼かれながら、弾かれたようにして胸部から上を壁に叩き付けられて果てた。


 完全に地に伏した下半身を顧みることなく、鬼は次の獲物の背を追う。

 八方に散った白い蟻たちは、袋小路に繋がっているはずの二つの穴の前で必死に前脚をばたつかせて踊っている。

 そこにエルフの姿がないことを確認しながら一息に間合いを詰め、背後から、躊躇なく、乱雑に、白い蟻は薙ぎ払われた。

 同じようにして残った白い蟻も壁のシミに変え、半ば放心状態のまま懐の手布で刀身を拭って刀を鞘に収めると、換気を断たれた袋小路の中は様々な臭いが複雑に混ざり合った、目眩がするほどの刺激臭に充たされていた。


 ――そう、目眩がするほどに。


 威焔がハッとして周囲を見回す。

 注意して耳を傾ければ、転がされていたエルフの女性たちが発していた声は途絶えていた。

 慌てて駆け寄ると、女性たちは誰もが顔を青褪めさせ、白目を向いて呼吸を止めている。



「ああ! クソ!」



 急いで物理障壁を展開して女性たちを外気から遮断し、障壁内の空気を浄化しながら次々と脈を測っていく。

 5人とも弱いながら脈はあり、停止していると思った呼吸はとても浅いもので、仮死に近い状態に陥っているとも取れる。

 治癒魔法を施そうと肌に触れると、膨大な両の苦痛の記録が頭に流れ込み、火花が散ったような感覚と焦げ臭い臭気が鼻腔を刺激した。



(落ち着け……やるべきことをやろう……)



 威焔は目を閉じ、深呼吸を大きく一つ。

 軽く吸って、細く長く吐き出して、目一杯吐き出し切ってから、ゆっくりと空気を吸い込んだ。

 表情が落ち着いたところで、手早く、しかし丁寧に、治癒魔法を施していく。


 5人は全員がほとんど同じ状態だった。

 白目だったのは失明して瞳が濁っていたことも大いに関係していたし、体の内部のあちこちが損耗して弱っていた。

 汗腺を除いた他の多種の分泌腺から様々な液が排出され、体の上と下は主に自身の体液でベタベタの状態になっている。


 できることならば応援が駆け付けるまでそのまま眠り続けていて欲しい。

 威焔はそう願いたかったが、そうもいかないことは理解していた。

 その場にいた蟻たちが死んでから気温が急激に下がっていっているというのも、その理由の一つ。

 生きている者を同時に5人も抱えて移動できず、同時の移動でなければ残された者の安全を確保できない。


 そこまで考えて、威焔は漸く見落とし・・・・に気が付いた。



(腹の中の6人……!)



 赤い蟻の下半身が有ったはずの場所を振り返ってみると、大きかったはずの腹は萎んで縮まり、変わり果ててしまった蟻の死体がそこにあった。

 威焔の落ち着いていた表情に、深い皺が刻まれる。

 物理障壁の端に寄り、横たわる5人を覆える物理障壁を再展開して、外側の障壁を解除、赤い蟻の下半身へと歩いていく。

 頭痛が起こっては消え、消えては起こり、小々波のように繰り返されるそれが、悔恨の深さを痛感させるようだった。


 萎れ草臥くたびれた腹部を見下ろすと、蟻の外皮が微かに上下している。

 魔法で生成した水で蟻の死骸ごと周囲を洗い流し、広めに物理障壁を展開して救助の準備に取り掛かる。

 腰の鞘から刀を抜き放ち、蟻の腹の中で折り重なるエルフたちを傷付けぬよう注意を払いながら刃を挿し入れて、丁寧に外皮を切り開いていく。

 姿を表したのは、成人間近の女性を含む6人のエルフ。

 いずれも衣服を身に着けており、半数は外套まで羽織っている。

 彼らを濡らしている蟻の体液の刺激臭は弱く、甘ったるい香りが鼻にまとわりつき、意識が刈り取られそうになる。

 威焔は軽く左手で口元を押さえ、右手を突き出して、淡い期待を込めながらエルフたちを水で洗い流してみた。

 凍えるほど冷たい水ではないが、温かいわけではない。

 気温が低下し続ける洞穴内で放たれれば、彼らに届く頃には気付け程度の効果を持つ程度には冷やされてくれるだろう。

 しかし、臭気が薄まってなお、誰一人として目覚める者はなかった。



 結果的に6人全員の救助は適ったが、生存者がいるという想定が全くなかったので、威焔は単独で乗り込んだ判断を後悔していた。

 女性10人、男性1人、合わせて11人のエルフたちは、目覚めれば拘束と心の療養が必要になる可能性が高いと考えられた。

 そんな重荷・・は、さらに増える余地を残している。

 その上、外は吹雪で、最寄りの集落には食糧すら残されておらず、状況は絶望的だと言えた。


 頭部を欠損して絶命した男性の遺体を赤い蟻の外皮で包みながら、これからどうするのかと悩み、悩み続け、最後には考えるのを辞めた。



「なるようにしかならん。やれるだけやる……しか、ないわな」



 威焔は誰にともなくそう言うと、天を仰いで苦笑いし、軽く溜息を吐いて立ち上がった。

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