森の使者の憂鬱⑤

「傷口が塞がるだけじゃなくて傷跡までキレイに消えちゃうって、どんな治癒魔法なのこれ?」



 威焔の右手を両手で掴み、まじまじと眺めながらマルセリーが呟く。

 問われた威焔が細々と説明すると、相槌を打ったり、少し考え込んでは質問したりと、研究意欲に火が点いたマルセリーは真剣な表情で、実に楽しそうに、威焔を質問攻めにしている。

 そんな二人の傍らで、モーリは憔悴した様子でティーカップの中の揺れるハーブティーを見詰めていた。

 あるいは、その目は何も捉えていないのかもしれない。

 小さな両手で包まれたティーカップがゆらゆらと揺れ、室内を照らす魔具の灯りが水面に溶ける。



「……ちゃん。モリちゃん」

「あ……はい」

「少し横になる? 顔色悪いわよ?」



 いつ会話を終えたのか、マルセリーは心配そうにモーリを見詰め、威焔は何を考えているのか読み取れない眼差しをモーリに向けている。

 自分を見る二人の視線から逃げるように顔を伏せ、作り笑いを貼り付けて「大丈夫です」とだけ告げた。

 それっきり場は沈黙し、気まずい空気だけが流れる――ことにはならなかった。



「どっこいせー!」

「な、あああッ!?」



 無言で立ち上がった威焔は、気合一声、モーリを椅子ごと抱え上げ、寝室まで運んで無理やりベッドに転がしてしまったのだ。

 その道中のドアの開閉はマルセリーがテキパキとこなし、ベッドの上に放り出されたモーリの頭の下に枕を滑り込ませ、靴を剥ぎ取って毛布を被せてしまう。

 抵抗する余地のない見事な連携だった。



「お姉様、まだ長が……!」

「どうとでもならーな。寝てろ」

「ちょっとイエンちゃん……んもう。あのね、モリちゃん。厳しいこと言うかもしれないけど、聴いてくれる?」

「……はい」

「ありがとう」



 しぶしぶ了承したモーリに笑顔を向けて、言葉を選びながらマルセリーは言葉を紡ぐ。



「聖地がどういう判断をするのか分からないけど、私たち3人が調査から外されることはないわ。

 それでね、調査する相手は、モリちゃんも分かってると思うけど、とても危険だということは確実よね?

 なのに、その状態で大丈夫だと思う?」



 優しく問い掛けるマルセリーの言葉の意味と、敢えて避けられた厳しい言葉を、モーリは理解できた。

 自分が今のまま調査に赴けば、最悪の場合、自分が死ぬか、自分のために誰かが死ぬことになる。

 その可能性が高くなってしまう。

 それを責めるでなく、そうなってしまった自分の行動も咎めるでなく、考えさせ、自分で気付かせようとするマルセリーの姿に、モーリは返事もできなくなってしまった。

 毛布の中でギュッと身を縮めると、髪に優しく触れる手を感じて、涙が溢れ出てくる。



「……今はしっかり休んでて。精一杯やってみてどうしようもなかったら、イエンちゃんがなんとかしてくれるから大丈夫よ」

「マルセリー? ぼく、なんかすごい無茶振りされてない?」



 モーリの胸がチクリと痛む。

 零れかけた涙は引っこみ、頬が膨らんでいく。



「負けないもん……」



 そう口にすると勢いよくベッドの上に立ち上がり、威焔を指差して、



「絶対におまえになんか負け」



 視界が一転、再びベッドに転がされた。



「……は?」



 状況を理解できずにモーリが間の抜けた声を発すると、天井の灯りを背にした威焔の暗い顔が視界を遮り、鋭い視線が射抜いてくる。



「俺は寝てろと言った」



 威焔が自分を「俺」と呼ぶのをモーリは初めて耳にしたが、そのことに気付く余裕はない。

 明らさまな怒気を真っ直ぐぶつけられて、湧き上がった対抗心も、嫉妬も、怒りも、たちまち恐怖に呑まれて消え去ってしまう。



「オマエのその恐怖は正しい・・・。戦闘でオマエが俺に勝てる可能性は万に一つもない。必ずオマエが負ける」



 一方的な物言いに反論できず、悔しさだけを瞳に込めて、モーリは威焔の目を精一杯睨み返す。

 その視線に威焔は苦笑いし、モーリの服に手を差し入れ、ほんの少し前に彼の右手を貫いたナイフを取り出すと、モーリに両手で握らせ、自分の胸に突き立てさせた。



「なにを……」

「なぜ勝てないか、もう一つ種明かしをしてやろう」



 威焔の纏う空気が変わり、部屋の灯りが消えてしまう。

 ナイフを握るモーリの両手を掴んだ威焔の手に力が込められ、ナイフ越しにモーリもよく知っている感触が伝わってきた。


 ナイフの刃が肉を裂く感触。

 程なくしてその感触に脈動が加わる。



「感じるか? オマエのナイフが俺の心臓を貫いているのを。分かりにくければ、よく見るといい」



 威焔が言い終えた瞬間、モーリの手元に魔法の光が灯り、威焔の胸に深々と刃を埋めたナイフが視界にハッキリと映し出される。

 血の一滴もしたたることなく、しかし確かに衣服を刺し貫いている銀のナイフは、威焔の脈動に合わせて微かに揺れ動き、その感触をモーリの手に伝え続けている。



「これ以上やると壊れるな……ナイフが」



 おもむろにナイフが引き抜かれ、ほんの一瞬だけ血飛沫が上がり、モーリの顔を朱に染める。



「おっと。わりぃわりぃ」



 言うほど悪びれた顔もせず、威焔の指がモーリの目元の血を拭い取る。

 その指を目で追って、赤に染まったことを確認しても、モーリには何が起こっているのか理解ができない。



「イエンちゃん……やめてよぉ……」



 マルセリーが泣き出しそうな顔で威焔の服の裾を引っ張る姿が視界の隅に見えたが、モーリの目の前の彼は微動だにしない。



「化物……」



 微かに動いた唇が、震えながら恐怖を言葉として紡ぎ出す。

 その言葉に、化物・・の口がニヤリと歪んだ。



「そう、俺は化物だ。オマエらエルフどもは何を勘違いしたのか、俺をオーガだと侮ってくれるが、違うぞ? 俺は鬼だ。オマエらが知るオーガと一緒にするな」



 その時、部屋の明かりが戻り、モーリと威焔の間に灯っていた魔法の光が弾けたように眩い閃光を放ち、部屋の中を白く塗り潰した。

 反射的に目を閉じたモーリの瞼まで射抜くような強い光は、彼女から色を奪い去る。



「あ、ごめん。マルセリー、大丈夫?」

「イエンちゃん今のなに? なにしたの?」

「明かり点ける魔法が暴走した感じかな……」

「暴走するような魔法なの!?」

「いや……えーと……先に目の治療しようか。うん。説明は後でするわ」



 すっかり毒気の抜けた威焔の声で緊張の解けたモーリの全身から、一気に冷や汗が噴き出す。

 視界は真っ白に焼きついたまま色を取り戻さず、激しい頭痛が襲う。

 が、顔に温かい手が触れたと感じた瞬間、頭痛は消え去り、白は黒に覆われてしまった。



「その、なんだ。八つ当たりして悪かった。寝てろって言ってるぼくが寝付けなくしてるんじゃ世話ないよな」



 バツの悪そうな声がすると、モーリの視界を覆っていた黒がゆっくりと浮き上がって手の輪郭を描き、失われていた色を取り戻す。

 手の向こうには威焔がいた。

 いつもの、どこか気の抜けた顔をした、冴えない男。

 その顔が悲しげに歪んで、遠退き、後ろを向いて去っていった。

 マルセリーと何か話している声がしたが、モーリには聞き取れず、寝室から威焔の気配が消えたところでようやくモーリの緊張の糸が切れ、安堵の溜息が漏れ出る。



「モリちゃん、大丈夫?」



 疲れた表情のマルセリーがモーリの顔を覗き込み、濡れたタオルで顔を拭う。

 いつお湯を準備したのか、タオルは少し熱いくらい温かく、湯浴み用のお湯と同じ花の良い香りがする。

 マルセリーの力加減が心地よく、返事もせずにされるがままに任せていると、顔と首筋を拭き終えた手は離れていってしまった。



「少し落ち着いた?」



 目を開くと、マルセリーの笑顔が目に飛び込んでくる。

 返事をしようと口を開くと、カラカラに渇いた喉は耐えられずに咳を誘い、堪え切れずにせてしまう。



「ちょっと待ってて、お茶持ってくるから!」



 大丈夫――そう伝えたかったが、モーリの喉はそれを許さない。

 走り去っていったマルセリーを追うこともできず、一人残された部屋で言い知れぬ不安が襲い、肩を抱いて震えながら恐怖に抗おうと足掻く。

 彼女にとって、それは初めての経験ではなかったが、再びその感覚に襲われる日が来るとは思ってもいなかった。

 こうならないために体も心も鍛え抜いてきたはずだったのだ。

 森の使者に選ばれたことは彼女に安心と自信とを与え、職務に従事することで誇りをも抱かせてくれた――はずだったのに――あの化物・・はいとも容易く、あっさりと、それらを打ち砕いてしまった。

 マルセリーが戻るまでの時間が永遠に感じられる。

 扉が開く音が聞こえるまで実際には数分ほどしか経っていなかったが、それまでの間、モーリは濡れて冷たくなった服をさらに汗で濡らし、噛み合わない歯の根を必死に食いしばり、懸命に耐えた。




 その夜、集落の長が再び訪れることはなかった。

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