第4話 母や妻でなく、女として――

 - 6 -


 私の機嫌は一日寝れば戻っていた。

 とは言え、主人に対する不満は残されたまま。ただ単に、夢見が良かったと言うだけだ。


(ふふっ、夢の中でもご飯がっつくなんてね)


 夢の中の私は大人に戻り、家の中で野山くんに晩ご飯をふるまっていた。

 そして、満足そうにお腹をさする彼の姿に、私は微笑みかける。

 覚えているのはそれだけだ。良い夢ほど指の間からさらさらと消えてゆく。けれど、これだけは|溢(こぼ)すまいと、手を固くぎゅっと握り締めたのだ。それが、私の機嫌をよくしている。


「ふんふ~ん♪」


 このような気分はいつぶりだろうか。随分と遠い昔のように思えてしまう。

 いや、遠い昔だろう。若返っておらずとも、心がすっと軽くなるような気持ちなんて久しい。

 だから、マキちゃんも野山くんも『愛情を求めている』と気づかない、分からず屋の主人も、今日だけは許してもいい気持ちになっていた。


【マキマキ:カレー美味しいよ~(T_T)】


 感想を述べてくれることが非常に嬉しくなる。


【マキマキ:あ、保存もバッチリだよ】


 カレーは二日目が美味しいと言うけれど、“ウェルシュ菌”がと言う食中毒の原因になる菌が繁殖しやすいため、夏場は粗熱を取ってからすぐに冷蔵庫で冷やし、加熱前・加熱後はよくかき混ぜないといけない。その注意を忘れずに守っていてくれたようだ。

 マキちゃんの親御さんは明日帰ってくるみたいなので、明日の昼ぐらいまでは大丈夫だろう。


 ……と、当時の私はそう思っていた。

 しかし、主人が帰って来てから少しして――彼女からの電話で、私は愕然とした。


「ぜ、全部食べちゃったぁっ!?」

『そ、そうなのぉー……美味しくってついぃ……』

「あれ、六人分ぐらい残ってたでしょ」

『一・五人前ぐらい食べちゃった……』

「えぇ!?」


 何とも、育ち盛りの食欲旺盛さには度肝を抜かれてしまう……。


『お願いっ、タマネギとカレールーだけあったからもう一回作り方教えてっ!』

「はぁ……分かったわ。どこまで覚えているの?」


 マキちゃんは、材料切ってみじん切りにするところ、水を入れるところまでは覚えているらしい。

 そこまで覚えていれば十分だ。後は水の分量が分からないらしいので、それと残りの工程をゆっくりはっきりと電話口で伝えてゆく。

 最後に『分かった!』と、明るい声で話したところで一方的に切れた。恐らく忘れないうちに取りかかりたかったのだろう。

 私は苦笑しながら切ると、横で聞き耳を立てていた主人に事情を話した。


「若い子の食欲ってびっくりするわ……」

「そう言うのは普通、本当の母親に言うものだろう」

「多分、言えないのよ。以前、台所に立とうとして突っぱねられたようだし。

 大人って、自分の都合で子供の成長を阻害しちゃうこともあると分かったわ」

「自立を妨げるだけだ、お前もあまり関わりすぎるな」


 主人の言葉に、私はムッとした。


「どうしてよ。あの子らは親に甘えたくてもできないのよ!」

「お前は他人だろう! 自分の立場と目的を分かっているのか!」

「そんなの分かっているわよ! だけど、あの子たちが頼れるのは友だちだけなのよ!

 助けを求められて、手を差し伸べるのがダメだって言うの!」

「家のことを蔑ろにしてまで、何が友だちだ!

 お前がやっているのは、大人が学生の格好をした“学生ごっこ”だ!

 このままずっと子供でいるつもりか! 深く関わりすぎるな!」


 この人は――


「あなたは、何も分かってないのね……」


 怒りや哀れみ、悲しみ……どの感情が正しいのか分からない。


「何だと」目を怒らせた主人に、私はもう耐えきれなくなっていた。「こんな時間にどこに行くんだ!」

「私は大人なんでしょッ! 何もしないくせに干渉しないでよ!」


 バンッと扉を乱暴に開き、飛び出した。

 後ろから『紀子!』と怒りに任せた声をあげるが、追いかけて来ない。

 つまり、そう言うことなのだ――。

 どうせ遠くまで行けない、すぐに帰ってくるだろう、なんせ俺の妻なのだから。

 そう思っているに違いない。

 主人にとって私は、家にいて当然の存在なのだ。“妻”と言う首輪を付けた、主人のシナリオの演者となっているのだ。だから、その首輪を外そうし、自由に動き回ろうとする私が気に入らないのだ。


「ひ、ぐっ……うっ、うぅぅ……」


 悔しくて、涙が止まらなかった。

 何で今まで気づかなかったのだろう。あの人は、私のことなんてこれっぽっちも考えていないんだ。

 帰ってやるもんか。

 そう思うけれど、足がない。靴も思わずローファーを履いてしまったので、長時間は歩き回れないだろう。それに、行くアテもない。


 大人ならこう言うとき、誰を頼るのだろう?

 犬も食わないような夫婦喧嘩なぞ、話すだけ恥だ。


 子供ならこう言うとき、誰を頼るのだろう?

 私は、ポケットに入れていたスマホを取り出した。



 - 7 -


 私は二十分ほど歩いた先の、小高い丘にある公園にやって来ていた。

 公園と言っても住宅街の中にある、ブランコやベンチがあるだけの小さいものだ。

 何と狭い世界で生きてきたのか、思い当たる“目印”がそこしかなかった。

 公園に来てからどれくらい時間が経っただろうか――後悔が浮かび上がり始めていた時、一台の原付のライトが見えた。


 ――来た


 ほんの少しだけ主人が探しに来たのかと期待したけれど、それとは違う。


「おう。大丈夫かあ?」

「野山くん……っ!」


 私のところにやって来てくれたのは、迷彩のハーフパンツに白いシャツの“同級生”――野山 アキラくんだった。

 頼れるのはマキちゃんか彼だけ。私は真っ先に彼に連絡をした。マキちゃんも来てくれただろうけど、足がないのを考えると少し憚られたのだ。

 藍色に包まれていても、私の目が赤いのが分かったのだろう。野山くんは何も言わず、私の近くのベンチに腰をかけ、私が話し始めるのを待ってくれた。

 思えばつまらない内容だけど、私はしばらく間をおいてから、ポツリ……ポツリ……と事情を話し始める。とは言え、若返ったことなどは言えないので、私のことをまったく考えてくれない主人とのことを話した。内容は愚痴に近いものに変わっていたけど、彼はじっと話を聞いてくれていた。

 そして、ゆっくりと口を開いた。


「親父ってのはどこも勝手なもんだな」

「え」

「うちもそうだったんだよ。

 カーちゃんに全部任せて、自分は好き勝手やっててさ……口癖は『誰が食わせてやってんだ』だよ。

 で、高校一年生の秋、ついに限界を迎えたカーちゃんが三行半を突きつけたんだ」

「そう、なんだ……」

「ま、俺はそんときに良い機会だったから、思いっきりぶん殴ってやった」

「えぇっ!?」


 スカッとしたぜ、と満面の笑みを浮かべた。

 それまでは喧嘩やヤンチャのやりたい放題だったけど、父親を殴ってからと言うもの『忙しいのに、呼び出すのはなー……』と、喧嘩は極力封印しているのだと言う。


「立派だね……」

「そんなイイもんじゃねえよ。普通にやってりゃ、親なんて呼びだされねえんだしよ。

 ワルがイイコぶったら良く見えるあれと一緒だ。

 真面目にやってる、お前の方がよほど立派だよ」

「そんなことは……」

「家のことやりながら、ガッコもちゃんとやってなんて考えられねーよ。

 お前を見習って、掃除とかやってみたけど一時間もせず飽きちまったし……」


 私は思わず、ふふっと笑みを浮かべてしまった。


「飯はうめーし、勉強もできる……お前の欠点ってなんだよ」

「え、えぇ!?」

「ああ、あれか。真面目すぎんだ、アホバカなほど真面目」

「ちょっと、アホバカってなによ!」

「お前の様子からして、これまで親に反発したもことねーんだろ?

 誰かの言いなりになって、はいはいって従ってたの」


 何だろう、肩の力がすっと抜けた気がする。

 言われてみれば……確かにそうだ。私はこれまで、誰かに強く反発したことなんてない。大人が『こうあるべき』との型に納まっていただけだ。


「ま、そのおかげで俺も助かったがな。

 あのテストよ、カーちゃんが見て『凄いじゃない』って泣いたんだぜ?

 四十点とかのそれでよ。お前が馬鹿正直に、俺に付き合ってくれたおかげだよ」

「それは、野山くん自身の実力よ――」


 遠足の時のように、私は彼の方に身体を傾けていた。

 突然のそれに「おい」と慌てたけれど、私はそのまま体重を乗せた。


「女の子が身体預けてるのよ?」

「い、いやでも……い、いいのか?」

「女の子に訊かない」


 私がそう言うと、野山くんは私の両肩を掴み――そっと唇を重ね合わせた。

 これは言いなりではなく、私の“意思”だ。今までなかった、私の“反抗期”だった。

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