第8話 試験発表

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 私の学校生活は、いよいよ七月を迎えていた。

 あと二十日もすれば夏休み。しかし、学生たちにとって最大の試練が待ち構えている――。

 それは、“期末試験”だ。これで赤点を取ろうものなら、最低でも一週間は夏休みが奪われてしまう。


「ああー……紀子さんが羨ましぃー……」


 マキちゃんは机を鳴らしながら、恨めしそうに私を見た。

 私はここに来たばかりなのと、今回はテスト範囲が広いもあって、もし赤点であっても補修などは免除されるようだ。と言うより、受けなくてもいいようだ。その代わり、夏休みの間に勉強はちゃんとやり、九月からは同じスタートを切れるようにとの“課題”が出されている。

 私はそれに甘んじるつもりはなかった。予習と復習はできるだけやっているおかげか、英語以外は何とか手応えがありそうな気がしている。

 集中すべきなのは英語だ。まずは苦手な英単語を、そしてまだ何とかなるリーディングを伸ばしつつ、併せてライティングもやってゆく……これで何とかなりそうだ。


「よしっ!」


 私は握りこぶしを作ると、マキちゃんは「その拳で教師殴ってきてー……」と力なく訴えた。


 思い立ったが吉日、と言うより、テスト期間は否が応でもでも思い立たねばならない時期だ。家で勉強するのはもちろんだけど、分からないところはその日のうちに聞けるよう、ギリギリまで学校に残っておきたい。

 私はスマホを取り出すと、周りを確認してから画面に光を灯した。


『もしもし――』

『あ、あなた?』

『ああ、どうしたんだ?』


 主人の声が少しぶっきらぼうだった。

 私は気持ちが萎縮するのを感じながら、ゆっくりと要件を伝えてゆく。


『今日から学校がテスト期間に入るの。

 それで時間の許す限り残りたいから、遅くなったら……』

『ああ、それは構わないが……』

『…………』

『いや、まあいい。無理はしないようにな』


 主人は私の返事を待たずして切った。

 やはり。

 私は胸の奥で渦湧いていた、不安に似た何かがハッキリと形になったのが分かった。

 このところ帰りが遅くなっていることが、主人は気に入らないんだ。いや、それだけではなく、恐らく学生であることにも眉をしかめ始めている。

 主人は『妻は家にいるもの』と、古い考え方をしていると分かったのは数日前だ。そこに『年頃の娘を持つ父』も合わさったのかもしれない。とにかく早く帰れ、と言いたげな顔を見せる。

 まぁ無理もない……。最近、家のことが疎かになってきているんだから……。

 主人のシャツを洗い忘れていたり、アイロンがけを忘れていたり、晩御飯もあまり手の込んだものができなかったり。食器は溜まりがち、掃除も行き届いていないし、ゴミ捨てもうっかり曜日を間違える――ようは全部だ。

 以前の私でも、魚を焼こうとしてグリルに入れたまま、と言うことはあったけれど、それ以上に主婦業に頭が回っていない。


(主婦は暇だから、頭が回ってたのかしら……)


 もしくは、これまでやっていたルーチンワークに、“学生”が入ったことで大きなズレが生じたのかもしれない。

 主婦は限られた時間の中、いかに効率よく動けるかにある。また学生も、少ない自由時間のために効率的に動こうとする。

 どちらも目的は同じだろう。ならば、両立できる道も見つけられるかもしれない。

 私は英単語帳を開きながら、まずは何から始めるべきかと考えていた。


 それから約一時間が過ぎた。

 進学校らしく、校内には自習勉強用スペースがいくつか設けられている。

 ……が、始まったばかりだからか、ここにやって来る学生はまだ見ていない。

 私は区切りをつけるように一つ息をつく。窓の外には青みが差し始め、左手首の時計は十八時を指そうとしていた。

 学校に残れるのは十九時が限界だろう。今日はそのギリギリを試してみるつもりだ。

 勉強の最中に今夜の献立を考えておいたので、帰ったらすぐに取りかかって時間を計る。考えているのはオムライスと簡単なものだけれど、そこから少しずつ凝ったものに戻してゆけばいい。


(ご飯と言えば……)


 私のお腹が小さく鳴った。お昼がいつもより少なかったのだ。

 その理由は、


「――お? 何だ、お前まだいたのかよ」

「の、野山くん!?」


 この場に一番そぐわぬ人物が現れ、私は驚いた声をあげてしまった。

 授業が終わる十分前からそわそわし始め、終われば一番に教室を飛び出し、一本早い電車に駆け込むのだ。通常ならホームで十五分ほど待たねばならないけれど、それなら待たずに済む。


「な、なんでここに?」

「んだよ、俺がいちゃダメなのか?」

「い、いや、ダメってことはないけど、いつも飛んで帰るから……」


 その言葉に、野山くんは口をモゴモゴとさせた。


「俺だって、ちっとヤバいって思う時あんだよ……」

「あ、な、なるほど」

「言うなよ! 絶対に言うなよ!

 島崎とか、あいつらを出し抜いて夏休み満喫してやるつもりなんだからよ!」

「分かってるわよ」


 私がそう言うと、私の横の席に乱暴に鞄を投げ置いた。

 どうやれば二年目でこんなに色あせ、角がすり切れるのかと思えるほどボロボロだ。

 野山くんはそのまま、その席にどっかりと腰を落とし、じっと私の顔を見た。


「な、何?」やや切れ長の鋭い目に、私は視線を合わせられなかった。

「ちょうどいいから、テストの内容教えろ」

「は?」

「ここやっときゃ赤点回避できるって場所知ってっだろ?」

「し、知らないわよ!?」

「嘘つくな。マキが言ってたぞ、『紀子さんは赤点免れられる』って」

「そ、それは……」


 何やら盛大に勘違いしているようだった……。

 私の事情を話し、理解してもらえるまでそう時間はかからなかったけれど、アテが外れた野山くんは、「なんだよー……」と、落胆の色をハッキリと顔に表している。


「どうすんだよ」

「知らないわよ。真面目に勉強するしかないわね」

「あー、面倒くせぇ……ま、補修はバックレりゃいいか」

「ダメよ。最初から諦めてちゃ何も進めないわ」

「お前、俺の前のテスト知ってっか? 百万点だぞ」

「……は?」


 現代国語一点、古典・英語二科目・数学・社会・理科が〇点――。

 全部並べて百万だと言う。


「奇跡の一点ね」

「おう、逆転サヨナラホームランだ」


 私は頭痛を覚え、大きくため息をついた。まったく危機感を持っていない……。

 勉強は過去ありきで進む。日月を経るたびに難しくなってゆくので、一度|躓(つまづ)くと、追いつくまで負債となってしまうのだ。学生がやる気を無くす、大きな要因の一つである。


「どれか一つでも回避できるよう、勉強したら?」

「その勉強ってものがよく分かんねえんだよ。

 勉強が分かってたら、今頃は勉強できてるよ」

「う、うーん……確かにそうだけど」


 学生の勉強と言うのは、ようは授業でやっていることを覚えることだ。

 同時にそれを応用する術を学ぶのだけど、進学校はあくまで大学進学を主目的としている。入試をクリアするための勉強を、問題の解答方法を頭に詰め込むのだ。

 この学校は進学校と言っても、その意識はさほど高くない。

 それでも、野山くんはよく退学にならないな、と私は感心していた。


「まぁ、経験を学ぶってことかしら」

「経験?」

「私は、学校はテストでいい点を取るために通うところじゃない、と思うわ。

 経験を学ぶところ。

 勉強ももちろん大事よ? でも、ただテストのために答えを覚えるんじゃなくて、その覚えようとした行動が大事なのよ。この時失敗した、次はこの方法を……ってね。

 そうした試行錯誤が、成長に繋がっていくと思うのよ」

「んー……何か分かったような、分からんような……」


 野山くんは椅子を傾かせながら、『経験……経験……』と呟き続けた。


「偉そうなこと言ったけど、私自身が出来てるか分からないけどね」


 学生の頃の経験が、まるで生きていないわけでもない。

 勉強も、当時の感覚を思い出し始め、効率的に進められるようになっている。

 ただ……それ以外はどうなのか、まだなままだ。

 すると野山くんは、「よし!」と声をあげた。


「俺に勉強教えろ」

「へ……?」

「勉強だよ、勉強! 俺も勉強したって経験してやんよ」

「えぇぇっ!? そんな、私だって教えられるほどじゃ――」

「いいんだよ。俺は元々ゼロだからよ、失敗しても構わねえ。

 周りの奴らに『勉強してやったぜ』って、言ってやりてえってだけだからよ」

「そんな喧嘩するみたいな……」


 とは言え、人に教えると言うことは私の復習にもなる。

 分からないところを洗い出すにも使えるし、悪いことばかりではないだろう。

 私は鞄からノートを取り出し「覚悟してね」と、彼の目を真っ正面から見据えた。



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 覚悟するのは私の方だったかもしれない、と思い始めていた。

 あれから一時間半……野山くんが一番点数の取れた科目・現代国語から始めたものの、小学生レベルの漢字すら危ういのだ。しかも、途中で寝かかる。

 やっと問題文が読め、さあ、と言うところで、私は時間に気づいて大慌てで帰って来た。

 幸か不幸か、電車が遅れていたようだ。

 家に到着したのは、予定よりも一時間遅い、二十時となっていた。

 まるで門限を破った娘のように、そろそろと玄関の扉を開いた――。


「た、ただいま……」


 主人はリビングにいた。テレビの方をじっと見ている。

 机の上には、カップラーメンの容器が一つ置かれている。


「ごめんなさい、遅くなっちゃって……」

「いや、大丈夫だ」主人は私の見ず、一本調子で言った。

「明日はもう少し早く帰ってくるから」

「勉強で忙しいんだろ」抑揚のない声に、私は少しカチンときた。「ええ、まあ」

「なら好きにしろ」


 私はその言葉に、頭が真っ白に……いや、血で真っ赤に染まった気がした。

 喉まで出かかった言葉を、私の大人の理性が飲み込ませる。

 しかし、感情まではそうといかなかった。


「そうさせていただきます」


 私の言葉もぶっきらぼうになっていた。

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