第4話 異変

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 金曜日、私はいつも通り〔2-C〕組の、自分の席に座っていた。

 けれど、朝から妙に臭いが気になっていて、私はすんすんと鼻を鳴らしてしまう。


「紀子さん、どうしたの?」

「え? ああ、ちょっと、妙な油臭いような臭いがしてね……」

「油臭い? どれどれ――」


 マキちゃんも小さな鼻をすんすんと鳴らしたけれど、「洗剤とお弁当のいい匂いしかしない」と言う。お弁当……と言われれば、確かに“アスパラベーコン”を作っていたけれど。


「“アスパラベーコン”の油の匂い、じゃないのよねぇ」

「え、マジで! やったぁっ、私あれ大好き!」

「え……」


 食べる気満々の口ぶりに、私は唖然としていた。

 念のために二つ多めに入れておいたのだけど……二つで足りるのかしら?

 でも、美味しそうに食べてくれるので、不思議と嫌な気持ちにはならない。

 お弁当は自分の分だけでなく、主人のも作っている。帰って来た時、空になった弁当箱を見ると、今日は昨日より美味しいものを、との向上心が生まれてくる。

 お昼の『今晩のおかず』のコーナーが見られないのは残念だけど、今はスマートホンなどで、いつでも欲しい情報が得られるのがありがたい。


「スマートホンって本当に便利よね」

「え、今更……?」


 ぽかんと口を開いたままのマキちゃんを横に、私は教科書類を机に入れてゆく。

 昔の携帯電話なんて、ショルダーバッグを持っているようなのから、巨大な受話器……だったのに、それからポケベルとか、PHSとか色々と出た。

 今では音楽まで聴ける。確かその時、コンパクトディスクが広まり始めたのは高校生の時だったかしら? 携帯用CDプレーヤーが出て、お金を貯めて買う子もいた覚えがある。

 私はその頃はまだ、テレビのスピーカーの前にカセットテープを置き、部屋を閉め切きった状態で歌番組を録音していた。あと僅か、と言うところで両親の声や自分の咳……雑音が入ったら台無しだった――。

 世の中がバブルに浮かれていた時期だったけれど、私たちは微妙にズレていたし、田舎の方だったのでそのおこぼれにあやかることはなかった。……と言っても、今を思えば改築や就職など、十分におこぼれを頂戴していた気もする。

 ただ、ディスコで踊り狂う女の子やボディコンなどと言ったものは、同じ日本国内で起こっていることだとは思えなかった。


(思えば、不自由な青春時代だったわね……あ、痛たたたっ……!)


 ふう、と息を吐いた途端、腹部にチクりとした痛みを覚えた。

 一昨日より、若返ってから初めての“月のもの”を迎えているのだ……。

 その痛みはシャープと言うかキーンと言うか、覚えたての英単語で言うとそんな感じだけど、日本語で言うと、若いときと違って鮮明な痛み、だ。

 ナプキンは一応あるけれど、数も足りないし……帰りにコンビニに寄って行こうかしら。


「ねぇ、マキちゃん」

「ん?」

「この近くにコンビニってある?」

「あー、駅近くにあるよ。正面の入り口に繋がる道あるじゃん? その坂の前の左がそうだよ」

「わ、分かったわ……」


 マキちゃんの説明はイマイチ分かりにくい。

 なので、学校帰りにとりあえずその近くに行って探してみることにした――。


 私は部活には所属していないので、基本的に終業を告げるチャイムがなったらすぐに帰る。

 放課後、夕暮れが差しこむ教室の中で……との思いはあるものの、そのようなことをしていては、主人の晩御飯がレトルトカレーになってしまう。

 それに、今日はご飯を使い切ってしまったので、カレーうどんになるだろう。

 考えていたら、口がそれになってしまった。


(カレーうどんもいいわね)


 ちょっと手抜きになっちゃうけど、帰ったらすぐに洗濯物を取り込まなきゃいけないし、明日は主人と買い物に出かけるのだ。ご飯を炊いても、丸一日保温することになるので、それも考慮するべきだ。うん、そうだ。

 そうと決まれば、コンビニに寄るだけだ。

 取り敢えずマキちゃんに聞いた通りに進むことにしよう。私は帰宅部の学生の波に乗り、駅に向かって歩いた。


(えぇっと、正面入り口だから東口よね?)


 マキちゃんの説明では、駅の前の坂道に差し掛かる所だった。

 学生の流れはズラっと駅に伸びてゆくのだけど、そのような場所は一切なく、説明された場所にあるのは小さなパン屋だけ。ここと間違えたのだろうか? 流石にそこまで『賢くない子』だと思いたくない――。


「え、えぇと……スマートホンで調べた方が早いかしら」


 友達を信用していないわけではないが、と私は自分に言い訳をしながら、スマートホンに光を灯した。

 ちょうどその時だった――


「おい」

「え?」


 私の横から低い声がした。思わず身体を震わせ、振り向くとそこには


「の、野山くん……?」

「こんな所で突っ立ってたら邪魔だ。それにうちはケータイ禁止だぞ」

「あ、ご、ごめんなさい……!」


 私は身体を縮こませながら、そそくさと道の端っこに移動した。

 それに野山くんもついてくる。その顔はどこか弱みを握ったような、悪い顔だった。


「お前もイイコちゃんだと思ったけど、人並みに“校則違反”すんだな」

「お生憎様。これはちゃんと許可もらっている……けれど、あまり堂々と出していいものじゃないわね」


 学校で許可を得ているのは、あくまで“緊急連絡用”の用途だけだ。


「なんだ」野山くんはつまらなさそうな返事をした。「仕返ししてやると思ったのによ」

「し、仕返しって何? 私、何も……」

「前のボタンだよ。あれのせいで、他のやつにはからからわれるし、辰じぃに褒められた手前、外せねぇしよ……窮屈でたまらないんだよ」

「あ、そうなの……出すぎた真似しちゃったわね」

「いや……」


 野山くんは、ばつが悪そうに鼻先を掻いた。


「べ、別に、付ける手前省けたから構わねーけど……そ、その、なんだ」

「ん?」

「あ、ありがとう、な……」


 礼言えなかったからよ、とぶっきらぼうに言う姿は少し可愛らしく見え、私は口元に笑みを浮かべてしまった。


「何笑ってんだよ」

「え、いや、別に……」

「で、お前は何してたんだ?」


 首を傾げる野山くんに、私はマキちゃんから教えて貰ったコンビニを探している旨を伝えると、彼はすぐに「逆だ」と顎をしゃくった。


「逆……?」

「アイツは自分が使うところを正面っつーんだよ。この駅はどっちも正面っぽいけど、本当は西口が正面なんだ」

「え、ええっ!?」

「だから、面倒つったろ。アイツの考え方が分からねーんだ」


 私はがくりと肩を落とした。西口まではぐるりと回って行かなきゃならない。


「ま、案内してやっからついて来いよ」

「わ、悪いわよ……」

「いいよ。ほら来い」


 不良っぽいと言うだけで、彼を色眼鏡で見ていた自分が恥ずかしくなりそうだ。

 何て出来た子なんだろう。そう思ったのも、一緒に入ったコンビニで、『案内代』と言って会計中にジュースが置かれるまでだった。



 その日の夜、私は主人が風呂から出た後すぐに脱衣所へと向かっていた。

 家長が一番風呂、というのは昔からだったので、これは特別変なことはないんだけど……。


「ん……?」


 私は鼻をすん、と鳴らした。朝嗅いだ時の臭いが漂っている。

 もう一度、小さく鼻を啜るように鳴らす。古くなった油、と言うより天ぷらのような臭い……。天ぷらはしばらくやってないし、今夜の夕食は学校帰りに思い付いたカレーうどんのはずだ。

 となれば、これは食べ物などによる臭いではない。


「もしかして……!」


 私は洗濯機の中に鼻を近づけると、途端に「うっ」と顔をしかめてしまった。


 ――加齢臭だ


 主人の服が原因だ。

 理由が分かってスッキリした反面、あまり釈然としない。衣服・下着を脱ぎ捨て、浴室へと踏み込むと、密室とその熱気によってより増した臭いに思わずそうになってしまう。

 いったいどうして? 今まで気にならなかった臭いなのに。

 いや、思い当たることはいくつかあった。一つはここ最近、シャンプーやボディーソープの匂いが、まったく好みに合わないこと、そして――


(確か、臭く感じるのは相手を拒否しようとしているって聞いたけど……)


 四十六歳と十七歳……ちょうど、父と娘の年頃だ。

 前の生物の授業でも『生き物はより良い子孫を残そうと、においから相手を選別している』と先生が与太話をしていた。そうと考えた場合、臭いが気になり始めた理由も理解できる。

 若々しいオスに比べれば、年のいったオスは劣ってしまうのだ。

 私たちは夫婦だ。しかし、それは他人同士を繋ぎ留める書類上のものに過ぎない――。


(って、いけないいけないっ!)


 私はざばっとお湯を被った。

 これは、娘が『お父さんくさい!』と言う様なものだ。他のオスを求めようとしている、なんてことは絶対にないんだから……!

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