第2話 学生は大変

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「突然だが、お前たちに大事なお知らせがある――」


 約三十年ぶりの教室の前。扉の向こうから勿体ぶった男性の声がすると、たちまち歓喜に揺れた。

 多分、学校の外、職員室の中で起こったことが広まっていたに違いない。

 廊下に面した窓ガラスから、落胆の表情を浮かべる子、朝の会の最中にも関わらず顔を出す子、“非日常”に興味を向ける子……など、ここに来るまで様々な想いが私に向けられていたからだ。

 私は緊張の面持ちで〔2-C〕とプラスチックのプレートを見上げた。

 ここが、今日から通うことになる私の教室……。


「――じゃあ、林谷さんどうぞ」


 教室から名を呼ばれ、私は「はい」と、小さく返事を返した。

 胸に手をやり、ふっと小さく息を吐く。

 教室の扉は、記憶のものと違って随分と軽かった。カラカラと音を立てて開かれると、眩い光と共に教室に満ちていた熱気が私を襲った。紙と鉛筆の匂い、と言うのだろうか。非常に懐かしい匂いが、私の記憶を呼び起こした。

 事前に先生から指示を受けていた通り、私は教卓の前に立った。

 緊張の面持ちのまま、全体を把握するように見渡した。男の子は口角を上げ、女の子は興味の目を向けている。

 その後ろから、カッカッとチョークが黒板を叩く音が響き出した。恐らく、私の名前を書いているのだろう。

 それが終わるまで、私は目だけで教室を見渡していた。

 三十ほどの机があり、一つを除いて全部埋まっている。そこに座る十七歳の少年少女の視線は、“お下げ髪の女”と黒板に書かれた私の名前を交互に見比べ続ける。

 黒板を叩くチョークの音が止んだ。

 いよいよ来た。私はすぅっと息を吸った。


「は、初めまして! 林谷 紀子と申します!

 慣れぬ場所なので、至らぬ点も多々見受けられるかもしれませんが、何卒よろしくお願いしますっ!」


 私は言い終わると、深々と頭を下げた。

 職員室と同じく、一斉にきょとんとした顔を向けられたのが分かった。もう何度も味わったので、既に慣れつつあるのが悲しい。

 先生も『こういう子』だと分かったのか、落ち着いた様子で周囲を見渡し、一つ間をおいてから口を開いた。


「えー、林谷さんは、ご両親の都合でこの町にやって来たようだ」


 先生は少し言いにくそうなニュアンスを含めながら、“事情”を説明し始めた。

 私は『転勤が多く、長く定住したことが無い家の子で、引っ越してきたと同時に親が入院して、親戚の家に身を寄せることになった』ことになっている。

 よくよく考えると、『ん?』と思うかもしれないけれど、学校はあまり個人の事情に深く立ち入らないようだ。

 なので、先生も「仲良くしてやってくれ」と言うのが関の山なのだろう。


「あそこの後ろの空いている席が、林谷さんの席だよ」

「は、はい!」


 黒板を背にした、真ん中の列の一番後ろを指差した。

 私は短く返事をすると、鞄を胸に抱き、足下に気をつけて慎重に歩いてゆく。

 同性の横を通る時は要注意だ。女に足をかけるのは女の役目、と当時はよく耳にしていた。

 ゆっくりと、自分の席が近づいてくる。最後まで油断してはならない――。

 

(あ、あれ……?)


 しかし、その心配と警戒はどこへやら……。結局何も起こらないまま、私はすとんと椅子にお尻を乗せていた。

 もしかして、今時の子はしないの……?

 まぁよかった、と安堵の息を吐くと、職員室でもらった教科書類を机の中に移し始めた。

 するとその時、左腕に何かが触れるのを感じ、私は「ん?」と顔を向けた。

 そこにはニマっと笑みを浮かるソバージュ髪の女の子が、ふるふると手を振っていた。


「私、|布藤(ぬのふじ) マキって言うの。よろしくね!」

「こ、こちらこそ、よろしくお願いします」


 座ったままペコりと頭を下げた私に、マキと名乗った女の子は『タニンギューギみたいにしなくていいよー』と手をパタパタと振った。“他人行儀”のことかと分かったのは、しばらく間を置いてからだ。

 このことから、直感的に感じた『あまり賢くなさそうな子』と言う印象は、確たるものとなった。

 まず最初に目に入ったのは、彼女の耳にあったピアスの穴だ。学校の規則を読む限りでは、ピアスは禁じられているはず。そして髪色も、明るい茶色だったのを、慌てて黒に染め直した痕跡が見受けられた。

 最初は緊張して一人一人見渡す余裕がなかったけれど、このクラスの三分の一は『あまり賢くなさそうな子』に思える。これも時代、なのかしら?


『起立。礼――』


 しかし、だらけた始まりの挨拶から始まるのは変わっていない。

 私は落胆の気持ちを一旦胸の奥にしまい込み、三十年ぶりの授業に臨んだ――。



 - 4 -



 先ほどの、『あまり賢くなさそうな子』と言う言葉は取り消そう。ごめんなさい。


「紀子さん、凄い疲れてるね……」

「う、うん……」


 あれから約四時間――。

 お昼の時間になり、私はマキちゃんの案内を受けながら、食堂へと足を向けていた。真っ直ぐ伸びるベージュの廊下は、沢山の生徒が往来している。


「紀子さんは肩肘張りすぎなんだって。

 五十分の授業を四セット、全部“正しい姿勢”で受けてたらそりゃ疲れるよ。

 私らみたいに頬杖ついて、だらーっと授業受けたほうがいいよ」

「う、うん……」


 疲れているのはそれではない。

 確かに、昔は何で大丈夫だったのかと思えるくらい、姿勢を維持するのは辛かったけれど、私が疲弊しているのは、肉体的なものとは違うものだ。


 ――授業が分からない


 私が疲れている本当の理由は、これにあるのだから……。

 一時間目は現代国語だった。これなら大丈夫そうだ、と思ったのもつかの間、英語、英語、数学の三連続に、私の頭は破裂しそうになってしまう。『ここの式に、先ほどのXの解を代入して――』と言う説明に、前の授業の関係代名詞を入れようとしたほどである。

 その英語もまた、アルファベットすら危うい。リーディングとライティングの二つに分かれている意味も分からない。前者は“読み方”、後者は“書き方”と知り、その後の数学に『読み書きそろばんか』、とボヤいてしまった

 疲労困憊となった私の横では、マキちゃんが延々と喋り続けている。


「紀子さんってさ、教科書から出てきた女の子みたいだよね」

「え?」

「だってほら、えぇっと……あったあった」


 マキちゃんは学生証を取り出すと、“模範的な女学生の絵”を広げて見せた。

 服装に関する項で、私もそこは熟読していたので記憶に新しい。


「お、おかしいかな?」

「うーん、おかしいってことないけど、こんな馬鹿正直に従う子なんていないよー。

 よほどのイイコちゃんか、親が古風でなきゃ」

「こ、古風……」その言葉に、私は強いショックを受けた。


 “当時”はこれが普通だったのに、今や着こなしも大きく変わっているようだ……。

 思えば、男子学生の髪、服装は基本的にだらしない。

 そして、女子生徒は全体的にはしたない。

 “従うべきもの”は今や、“従うことが好ましい”となっているように思える。


「まぁでも、紀子さん自身が古風だよね。話し方とかさ」

「そう、かもしれないわね」


 それは、授業と授業の間、休憩時間になると、クラス内外から色んな女の子が私の下へやって来ていた時に痛感している。


『紀子さんの家はどこ』

『家は三駅ほど下ったところで――』

『休みの日は何しているの?』

『う、うーん……家のことが多いかも?』

『家のことって、掃除とかご飯作ったり?』

『うん。炊事洗濯とか全部やってるわよ』

『ええ、凄い!? いつからやってるの?』

『結婚してからだから……三十年くらいかしら?』

『……え?』


 皆が口を開いたまま固まっているのを見て、私はそこでハッと気づいた。


『あ、その、け、結構してるけど、三年ぐらいかなって』

『あ、ああ、そうだよね! 結婚してるって聞こえちゃった、あはは……』


 今の私は、四十五歳の“林谷 紀子”ではない。

 十七歳の高校生になっているのだから、私が時代に合わせなきゃいけない、と思っていた。


「――で、ここが食堂でぇーっす」


 そう言って左手を伸ばして指し示した場所は、時代に合わせる気概を叩き潰すような、地獄のような光景だった。



 - 5 -



 私は主人が帰ってくるなり、学校での出来事を話し続けていた。


「それで、そんなくたくたになっているのか――」

「そうなのよ……とても飛び込めなくて、パン買ってきてもらったぐらいなんだから」

「ははは! お前は確か弁当だったから知らないけど、当時も学校の購買は戦場だったんだぞ」

「そうなの!?」


 主人は思い出したのか、懐かしむような表情で頷いた。

 巻き込まれぬよう、四時間目の終了十分前に授業を抜け出すのは基本で、中には“代理購入”で小遣いを稼ぐ者までいたらしい。


「焼きそばパンはまだ人気か?」

「どうなのかしら? マキちゃんって子は『カレーパン』が人気って言ってたけれど」

「そうなのか。昔はそれを買おうものなら不良に目を付けられる、至高の一品だったんだけどな……当時は焼きそばパンのために、不良になるのもいたのにな」

「そんな時代が終わってよかった、ってしみじみ思うわ……」


 パン一つで道を踏み外すなんて、親からすればたまったもんじゃない。


「学校行っていて思ったんだけど」

「ん?」

「私たちの世代って、『新人類』って呼ばれていたじゃない?」

「ああ……確かにそうだな」


 それは、価値観の違いや世代格差を表した言葉で、私たちはその過渡期にいた。


「私はまた、『新人類』になるのかしら……?」

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