第23話

 ぐわりと世界が暗く反転する。

 どっちが上で、どっちが下か。自分が立っているのかも座っているのかもわからない。そんな不思議な世界に、風紀委員長たちは呑みこまれる。いつの間にか下がっていた顔を上げると、そこにいたのはゆらゆらと残像のように渦巻く黒い大蛇だった。1枚1枚の鱗が虹色に光っていて、こんな場面でなければ美しいと言えるようなそんな存在だった。

 しかし大蛇と言っても普通の大きさではない。迷宮に出てるという体長15m、太さは2mにもなるという毒蛇の王である黄鱗バジリスクと呼ばれる存在に似ていて。

 その大蛇を背景に背負うように立っているのは亜芽だった。


「へ、蛇神! 貴様」

「最愛と傲慢のなれ果てへ。ひどく愚かひび割れた毎日ひびが、その顛末だろ?」


 ぞくり。

 まるで嘲笑で塗り固めたような歌声に背筋を悪寒が這う。蛇神の黒く長い髪がうぞりと蠢いたような気すらしてぞわぞわと背が粟立ってたまらない。恐怖心がただただ爪の間から忍び込んでくるようにかたかたと手が止まらない。


 息苦しい、怖い、息苦しい、怖い、息苦しい、怖い。恐ろしい。助けて。


 目を限界まで見開いて、呼吸を荒くする。満足に瞬きも出来ない、そんな現状に恐怖するしかなかった風紀委員長だったが、思い出す。自分には仲間がいる、使える道具ひとびとがいる。自分がだめでもそれを!

 わずかに見出した希望に、無理矢理ににやりと口元を笑ませる。そして振り向いたのだ。



 うつむいた亜芽が口が裂けんばかりに、笑っていることなんて気づかずに。

 亜芽の震える身体が、恐怖故だと疑わずに。



 下から生えた黒い逆十字に一人残らず串刺しに……磔にされている人々を。


「あ……」

「あ……あ……あははははははははははっははははっはははははははははははははははははははははははああはあっはっははっはははあはははははははは」


 誰も彼もがもう息絶えていると思わせる。ただどろりと剥かれた人々の白目が責めるように自身に向けられているのを感じる。

 そんな残虐な光景の中、ただ1人亜芽の楽しそうな至極愉快、愉悦に満ちた嗤い声は止まらない。

 三白眼を大きく見開き、大きく口を裂けんばかりに拡げる。愉楽に悦楽にむせび嗤う。止まることのない哄笑に涙すら浮かべて。


 絶望に崩れ落ちる風紀委員長を見て、さらに嘲笑は止まらない。

 がんがんと耳に響くような嗤い声のまま、ゆっくり、ゆっくりと頭を抱えてその声から逃れようとしている風紀委員長に向かって歩いてくる。ずるずるっと髪を引きずりながら一歩一歩嗤いを踏みしめるかのように。


 そして。


 風紀委員長の横まで来るとその身を屈める。

 いけないと思った。この歌を完成させてしまっては。そうしたら自分は、自分は。……どうなるのだろうか? わからないわからないが、事態が好転することだけはないと分かっていた。

 亜芽はぺろりと赤い舌で自身の唇をなめると。耳元で囁くように歌う。


「来たる来たる来たる鬼哭きこく

「あ……も、もう。もうやめてくれ、やめ」

「足掻く毎日ひびを寵愛しよう!」

「あ……ああああああああああああ!!」


 あまりの恐怖。なんて存在を敵に回してしまったのかという後悔。白目をむいた人々の責める気迫。歌が完成してしまったのだと悟った本能。そしてなにより、それらをひっくるめての絶望感に。

 気が狂ったように頭をかきむしる風紀委員長。

 それを見てただひたすらにうっとりと嗤っている亜芽。まるで腹がいっぱいになった子どものように胃のある部分をゆっくりと撫でる。


「ごちそうさん」


 そう言って。

 かがんで首に向かって手を伸ばす。そう、影族を殺したときにする処理のように。

 伸びてくる白魚のようにすべらかな手に絶望しか感じない。圧倒的なまでの強者、自分はここで殺されるのだろうという恐怖。息を浅くして、その瞬間を待つことしかできない絶対的弱者の自分。恐ろしさのあまり固く目を閉じた風紀委員長の首に触れた右手。


 左手はとんっと風紀委員長の喉仏をついた。


 その、予想していた衝撃とは違うあまりにも優しい攻撃と呼ぶのもおかしいほどに優しいそれに、風紀委員長の脳の容量が一気にオーバーする。処理が追いつかない。ぐるぐると回る思考で、ぽたりと勝手に涙がこぼれた。あ、あ、あ、あ、あ、あと身体が震えだし、頭をかきむしっていた手がだらりと落ちて脱力する。


 そこで。


 暗い世界が明ける。

 広がったのは先ほどまでいた、対人間の風紀本部前だ。

 だがそんなことはもうどうでもよかった。

 完全に気が参ってしまった風紀委員長にとっては、それはどうでもいいことだった。あの、あの化け物から逃げられたことだけが幸いで。はあはあと荒い息をつきながら肩を震わせる。恐怖の余韻がまだ消えていなかった。


 さくり。地面を踏む音がして、顔を上げればそこに立っていたのは、邪悪に嗤う蛇神で。その笑顔に、嘲笑に先ほどまでの嗤い声が耳によみがえってきて。今度こそ、風紀委員長は押し寄せてくる吐き気にも似た絶望感に耐えきれず気絶したのだった。

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