吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア……」


 口を開くその瞬間まで気配を悟らせず公園内にアイリスは侵入した。


「ははっ、流石は神話の住人、自分の魅せ方をよくご存じで」


 しかしそれでニコラの余裕が崩れる事はない。以前、詠歌の命はニコラの手の上だ。


「偉そうに登場して、無残に死に絶える。神話というかコミックの悪役そのまんまですねえ。ついでに服の趣味も悪趣味だ」


 差した月明かりによって露わになったアイリスのどくろ柄のシャツとシルバーのアクセサリー類、良いとはいえない趣味のそれを肩を竦めて嘲る。


「貴様なんぞに理解出来んのは無理もない。無知にして蒙昧、厚顔にして面恥。悪というには芯もない。やはり愚かという他ないな、人間」

「んー不愉快。状況理解してます? あなたのお気に入りは御覧の有様、まあこんな手を使わなくても無名の、しかも吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアなんていうごった煮的神様如きどうにでもなりますが」


 見せつけるように持ち上げた詠歌の首筋に剣で叩く。少し手首を返せばそれだけで喉笛に穴が空くだろう。

 ニコラの言葉に嘘はない。慢心はあっても油断はない。アイリス相手であっても負ける事はない、本気でそう思っていた。

 アイリスを破った黒騎士とアイネを同時に相手取り、卑劣であっても追いつめた以上、はったりではない。


「けど僕的に理解出来ない事が一つ。虱潰しで辿り着いたにしては早すぎる。あなた、僕と会った後にバートレットの隠れ家に向かったんでしょう? それ以外に当てもなかったはずだ」


 そうするように誘導もした。そして空振りで終わったその後にのこのことやってきた吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアに変わり果てた勇士の姿を見せつけてやるつもりだったのだから。


「魔術による結界は張ってない。手がかりはなかったはずだけど」

「なに、我が勇士の願いだ。それを少々後押ししてやろうとしただけの事よ」


 詠歌がアイリスに語った一つの選択。

 ――まだ対攻神話プレデター・ロアの脅威が街に在るなら、僕はそれを取り除きたい。


「降り掛かる火の粉を払う、勇士としては少々奥ゆかしさが過ぎるが、それでも我が勇士の選択だ。手を貸したくもなる」

「説明になってないですよねえ? 惚気なら他所でやって欲しいんですけど」


 そう言いながら、最初に公園に飛来した蝙蝠を見て予想は出来ていた。


(コソコソつけて来てたってわけ。仮にも神に仕える戦乙女の一角がそんな真似をするとはね)


 吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア――北欧神話の戦乙女ヴァルキュリア、その亜種。悪ぶっていても本来は主神に仕える乙女、たとえ追放された身であってもこんな真似をするとは思わなかった、と内心でニコラはアイリスを軽蔑する。人より優れた存在であってもやはり異教徒か、と。

 アイリスの天上における役割まで、彼は把握していなかった。


「まあいいや。結局の所、その勇士も今じゃただの抜け殻。これじゃあ火の粉どころか虫も払えやしませんよ」

「ふむ、何故そのような無様を晒しているのか、それは後で確かめるとしよう。まずは返してもらうぞ、我が勇士を」

「返すとでも?」


 アイリスが魔術武装を展開すれば即座に首を穿つ。しかし動いたのは注視していたアイリスではなく、闇に溶けたもう一人の人影だった。


「――無理矢理にでも返してもらうよ!」

「なっ!?」


 全く予期していなかった方から、少女の声がした。それが出会った時、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアと共に居た少女の声であると理解するが、反応は追いつかない。

 僅か、ほんの僅かにだがニコラの体がまるで体当たりをされたような衝撃に揺らぐ。普段であれば決して揺るぐ事などしない小さな力だが、完全なる死角からでは微動は抑えられない。

 その一瞬の揺らぎが今は致命であるとニコラは理解している。今も見えない衝撃の正体を捉えるか、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの攻撃に備えるか、黒騎士か、アイネか。無数にある選択肢の中から、最良としてそれを選択する。


「わっ……!?」


 突如、ニコラの肉体から無数の触手が湧き出るように生え、ニコラの全身を繭のように覆いだす。その内の一本に引っかかるようにして、纏っていたマントがはだけ、彩華の姿が月明かりの下に現れる。

 形成されていく繭に巻き込まれそうになる彩華をアイリスは魔力で編んだ鎖によってからめとり、自身の方へと引き寄せた。


『これは……!』

「『アイオド』の力か……!」


 即座に体勢を立て直し、ニコラから離れたレラとアイネが蠢く触手を見て確信する。間違えるはずもない、『アイオド』と同じ力をニコラから感じていた。


「あ、ああ……!」


 ユーリは自らを一度は捕えた『アイオド』の触手を思い出したのか、震えだす両手を合わせ、祈りを捧げた。それは『アイオド』に向けられたものなのか、それとも名も知らぬ都合の良い神に向けたものなのか、誰にも分からない。


『我から離れるな。汝を奴に渡しはしない』


 そんなユーリの前に再び騎士兜を被り、レラが立つ。一瞥もせず、だが決してユーリに触手を近づけぬようにと彼女を庇っていた。


「それが奴の名か」


 アイリスは腕の中に納まった彩華に視線で説明を促す。言われるよりも早く、既に彩華の中では今まで得た知識が嵐の如く廻っている。


「『アイオド』……! 魂を狩る、輝きの追跡者! 『ウルタールの猫』のような因果応報ではなく、戯れに人を襲う異次元の邪神です!」

「成程、臭いがせぬわけだ」

「っ、エリュンヒルテ様、アイネちゃんを!」


 ユーリにはレラが、彩華にはアイリスが、しかし残る人間であるアイネには誰もいない。『アイオド』に最初に狙われるとすれば一人きりのアイネの可能性が高い事に気付き、彩華が叫ぶ。


「あーあ、ネタばらしはもっと後にとっておきたかったんだけどなあ」


 だが『アイオド』の触手によって形成された繭の中から聞こえる声は先程と変わらぬニコラのもの。

 以前のアイネのように邪神の影響を受け、対攻神話プレデター・ロアの本能のままに暴れる、という様子はない。

 それを裏付けるように一度は肥大化して完成した繭が逆に小さく縮小していき、ニコラの全身を覆うサイズから、しゅるしゅると仕込み杖を持つ右手に巻き付くだけになっていく。


「僕たち『審問会』は表向きは『アイオド』を信仰しているけど、実際には僕たちが審問を行う為の手段に過ぎない」

「……!」


 巻き付く触手以外、完全に元の外見へと戻ったニコラが告げた真実に一番の驚愕を示したのはレラの影のユーリだった。


「ああ、当然だけどバートレットには知らされてない。教えるのは本当なら一番最期だ。ネタばらしは『アイオド』様の御力を借りて、最後の使命を果たしたその後にってのがお決まりだから」

「そ、それはどういう事ですか……! 『アイオド』様は私の信仰に応えて下さったはずじゃ……!」


 ユーリが信じていたものが崩れ去っていく。形は違えどそれを経験しているアイネは悲痛そうに顔を歪めた。


「あはっ。はははははは! ばーか! そんなわけないだろう! お前みてえな使い捨てのゴミ人形に神が慈悲を示すわけがない! まあ? 『アイオド』自体、僕にとっちゃ神とも言えない道具だけどなあ!?」


 そんなユーリをニコラが嘲笑う。耐え切れずに顔を覆いながら、それでも抑え切れない声で剥がれかけていた善人ぶった仮面を完全に脱ぎ捨て笑う。


「じゃあこのまま答え合わせといこうかあ! お前がバートレットの名前を与えられてからのさあ!」

「ひっ!」


 狂気を孕んだニコラの表情にユーリが短い悲鳴を上げる。自分が委ねていた気になっていた狂気など、紛い物に過ぎないと思い知る。


「アイネ・ウルタール、あなたは数少ないの人間だから知らないだろうけど、あなたみたいに親だの世界だのから見捨てられた奴らを拾い集めて教団は成長していった。だけど信奉者がいくら増えても、それだけじゃあ意味がない。何の才能も取り柄もない奴なんて、教団にも必要ない」

「何を……!」

「そういう奴の使い道はそれぞれ違うだろうけど、僕たち『審問会』では二つに一つ、『アイオド』の生贄か、それとも魔術の材料か。『アイオド』は餌を与えれば召喚者に従う。魔術も人を捧げれば相応に強力な術を行使できる」


 それはある意味、教団に属さぬ彩華には容易に想像できる事だった。対攻神話プレデター・ロアとはそういう事がありふれた神話なのだから。


「ソレにも審問官としての技術を仕込みはしたけど、駄目だね、才能がない。このまま不出来な審問官として使い潰すよりも『アイオド』に喰わせた方が利になるんだよ。元々『アイオド』も喰いたがってたみたいだしさあ」

「なんて……酷い……!」

「まあねえ。でも因果応報じゃない? ソレだってそれなりに酷い事を他人にしてきたんだ。そりゃあ仕込んだのは僕たちだけど? だからって許されるわけじゃないよねえ?」


 自分を棚上げにした人を人とも思わぬ言葉。なんてことのないように語るニコラをアイネが睨みつける。


「『クタニド』派だってそれなりの悪事を働いてただろう? トップに至っては吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアと内通しようとしてたみたいだし」

「黙れ……! 仮にそうだとしても……お前のような者に処断される謂れはない!」

「うん、まあそうだ。僕も別に興味はない。今回の僕の仕事はバートレットとついでにあなたを捕える事だからね。一石二鳥だと思ったのに、余計な手間を増やされて困ってるけど。吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアまで出張ってきちゃうしさ」


 肩を竦めるニコラにアイネが気付く。

 それはつまり、


「まさか……利用したのか、彼女の信じる神を使って……!」


 神を祀る者が、その神を使って信者を騙していたという事。

 たとえどのような神であっても信者たちにとっては救いだったはずなのに。


「正解! 『アイオド』の神託で、あなたを捕まえないと大変な事になるよーってね。そうすれば『アイオド』の好む恐怖を煽れるし、あなたを捕まえる手間も省けて僕も楽出来ると思ってたけど、結果はこれだ」


 聞きたくないとユーリは自らの耳を塞ぐ。だがよく通るニコラの声を遮断する事は出来ない。


「最後の最後で余計な手間を取らせてくれたよ、本当。こんな事なら最初から喰わせておくべきだったよねえ!」

「貴様ッ!」


 拳を握り締める。ユーリにはレラが、彩華にはアイリスが居る。憂いはない。たとえ自分がどうなろうと、目の前の悪だけは許しておけない。

 そんな義理はない。けれど見過ごす事は出来ない、それは背後の彩華も一緒のはずだ。


(僅かな間だった。交わした言葉など数える程だ。だが……あなたがそういう人だと良く分かってる。だからこれはせめてもの罪滅ぼし。今更、私は正義や善など名乗れはしないのだから)


 その決意と共に一歩前に踏み出たアイネだが、真実を知るレラが制止した。


『待て』

「……止めるな。お前の目的が何であれ、私は奴を倒し、この街から対攻神話プレデター・ロアを排除する。それが『クタニド』の巫女であり、『ウルタールの猫』に選ばれた私が最後にすべき事だ」

「カッコいいねえ。その顔を直接恐怖に歪ませるってのも惹かれるけど、それも面倒だ」

「貴様の事情など!」

「僕だけじゃない。君たちの事情も考えてあげてるんだよ?」


 どういう意味なのか、その答えをレラが示す。


『奴が邪神の召喚者ならば、勇士は未だ奴の手の中だ』


 アイリスの瞳が僅かに揺れた。

 そう、ニコラが『アイオド』の召喚者であるならば、アイリスと彩華によって逆転したかに見えた状況は再び反転していた。


「どういう意味だ。……我が勇士は何故、眠り続けている」

「お察しの通りさあ! 個人的に吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアなんていう奴に与した人間が気になってたからさあ、バートレットが捕まえてくれて助かったよ。そんな命令、ああいや、神託は授けてなかったけど。こうなったら利用しない手はないよねえ」

「っ、貴様は何処まで……!」


 自分や吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアと関わりこそあれ、『審問会』とは何の関係もない詠歌を人質に取るその行為、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアまでも完全に敵を回す真似をするニコラ。ここまでの邪悪が教団内部に息づいていた事に後悔が湧き上がる。


「まさか吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア相手に人質が有効とは考えなかったよ。天上を追放された邪悪だって聞いてたから」


 アイリスは動かない。ニコラの言う通り、動けない。


吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアが、そこまで久守詠歌に……)


 アイリスが悪である、その認識は今もアイネの中で変わらない。けれど悪にも守りたいものがあるのだ、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアでさえ、誰かの為に動けるのだ。なのに何故、派閥が違っていても同じ教団で育った者がこんなにも醜い。

 それとも私もそうなのか。取り繕っているだけで、本質は同じなのか。そんな疑問が過ぎり、すぐに掻き消した。


(そんな事、分かるはずもない。私は知らなすぎる。教団も自分も、世界の事も)


 それはきっとユーリも同じだ。震え続ける少女を見る。アイネを審問した時からは想像もつかない、怯え切った表情。それはずっと少女が冷酷と狂気の仮面の下に隠して来た本当の表情なのだろう。


「そいつの魂は今、『アイオド』の本体の中に居る。じっくりと恐怖を熟成させて、審問の準備を整えてる所さ」


 さて、と手を叩き、ニコラは提案する。


「これ以上僕に手間を掛けさせられるのは不愉快だ。戦う事すらあなたたちには許さない。下ごしらえして、綺麗に盛り付けて、自分たちの足で全員『アイオド』の前に並びなよ。そしたら一人一人喰わせてあげる。どういう順番がいいかなあ? やっぱり恐怖とは無縁そうな吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア? でもそれに恐怖を教えてメインディッシュにするってのも悪くない。なら最初は勇士くんかな? それともそこの賢者さんか」


 品定めするように向けられた視線に鳥肌が立っていくのを彩華は感じた。今まで向けられた事のない悍ましい視線は虫が素肌を這い回っているかのような錯覚を与えた。


「……勇士と言えどただの人間。そんなものが盾になるとでも思っているのか?」

「へったくそな芝居だねえ。別にいいよ? 向かってくればいいじゃん。それならそれで、面倒だけど潰してあげる」


 アイネすら空々しいと感じたアイリスの嘘を切り捨て、ニコラは踵を返す。もう用はないと言うように。


「来るのはいつでもいいよ。早くても遅くても。遅いならその分、勇士くんで楽しませてもらうだけだから。ただあんまり遅いと壊しちゃうかもしれないから、そこはご了承下さい」


 開かれた異次元の穴へと消えていく背を睨みつけるのは、今度はアイリスたちの番だった。

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