⑩
轟音が夜の街に響く。
レラが跳躍したのは詠歌たちを見つけた公園だった。騒ぎを起こすべきではないと着地には気を使った為、クレーターが出来る事はなかった。見渡せば昼間作ったものも消えている。
「此処、は……」
未だ呆然とした様子でユーリが呟く。自分の身に何が起こっているのか、理解が追いついていないようだった。
「は、放してっ、放しなさい!」
『無駄だ。既に我が身の呪縛は解かれている。この身が汝の命令に従う理由はない』
いつの間にか装着された兜の奥から声を発しながらもレラはユーリを地面に下ろし、その後で意識を失ったままのアイネを横たえた。
ユーリが逃げる様子がない事を確認し、自身も膝をついてアイリスの頬を叩く。
「うっ……?」
頬を叩く衝撃にアイネがゆっくりと目を開けた。数度瞬きを繰り返し、やがて目を覚ます。
「……うぁわ!?」
当然、目を覚まして最初に目に入るのは黒騎士、レラの姿だ。如何に元『ウルタールの猫』の宿主とはいえ、寝覚めに無骨で不気味な黒騎士の姿が飛び込めば悲鳴の一つも上げる。
『起きたか』
「お前は……? 私は確か……」
体を起こして記憶を辿り、頭を押さえたアイネが自身の体が粘液に濡れている事に気付く。レラの跳躍による風圧で多くが吹き飛んではいたが、それでも額や髪に粘液が残っていた。
「そうだ、『アイオド』……!」
アイネは『アイオド』に捕えられている間、意識を失っていたがそれでも覚えているものもある。一瞬だが垣間見た『アイオド』という神性の姿。
そしてその御前へと自身を捧げたユーリの事だ。
「……」
しかしそのユーリは呆然と座り込んでいる。アイネの記憶にある姿とはまるで違う。
『汝に訊きたい事がある』
言いながら、レラは騎士兜を外す。当然、その下にあるのは詠歌の顔だ。
「久守詠歌……!?」
『汝を連れ戻す。それがこの人間との約定だ』
露わになった鎧の装着者が詠歌であった事にアイネは目を見開くが、意識がない事に気付き、警戒の色を濃くする。
「事情は呑み込めないが……棺の中で眠っていた、いや封じられていたお前が何故、久守詠歌と共にいる? ……彼は
詠歌に敗北し、結果としてアイリスに命を救われた。アイネにはもう詠歌たちの仲に口を出すつもりはない。無論、早く吸血戦姫と手を切って欲しいと願ってはいたが、詠歌がユーリたちの側に鞍替えしたなどとは思えない。
「
昼間、この公園で相対したアイリスの姿を想起し、レラは納得する。あの時と結界を張り、レラに鉄槌を下した人ならざる者を指しての言葉だったのだと。
『約定を果たすにはまだこの人間の魂が足りない。勇士の主であれば力を借りられるかとも思ったが……期待外れか』
あの一戦、人間であれば善戦、見事と賛辞を贈る所だが、人ならぬ者であの程度ならば『アイオド』を相手取る戦力には足らない。それがレラの所見だった。とはいえやるべき事は変わらない。一人であっても約束を果たすつもりだった。
「……お前も
詠歌の身に何が起こったのかは想像でしかないが、恐らくは自身や目の前のレラを逃がす手助けをしたのだろう。そんな詠歌を助けようとするのは騎士としての矜持だと納得が出来る。だがユーリを生かしておく理由はないはずだ。
アイネの言葉に、座り込むユーリの肩が震えた。
「まさか邪神を相手に人質のつもりでもないだろう」
『無礼な。何者が相手であってもそんな真似はしない。彼女もまた汝と同じだからだ』
「『アイオド』に捧げられた生贄だと?」
然り、と頷き、片膝を着いた状態でユーリと視線を同じくした。既に兜は被り直している。
『選ぶがいい、此処で一人寒空と孤独に震えるか、共に来るか』
「それ、は……」
アイネはまだレラの言葉に応じた訳ではないが、詠歌が『アイオド』とレラに囚われている以上、従うしかない。また彩華の下に身を寄せる事になるのは気が引けたが、かといって詠歌を見捨てるなど出来るはずもない。
「わた、しは……」
躊躇いがちにユーリは口を開いた。
こうして見る瞳はまるで親に捨てられた子供のようだ、とアイネは思った。
「はーいそこまでー」
背後から掛かった声に、ユーリが震えた。
◇◆◇◆
気配もなく、空気に溶け込むように忍び寄った少年はレラたちの前にその姿を晒した。
「どーもどーも。うちのバートレットがご迷惑をお掛けしたようで」
へらへらとして笑みを張り付け、心の籠らない謝罪と共に頭を下げる。
「お前は……教団の者だな?」
「ええ、まあ。どーもです、アイネ・ウルタールさん。こんな形で挨拶に伺いたくはなかったんですけどねえ。あ、僕はニコラって言います」
「何……?」
肩を竦める少年――ニコラにアイネは訝しげな視線を送った。
「僕は仕事はきちっとするタイプなんで。本当ならしっかりと正装して書面を持って、ってやりたかったんですよ」
確かにニコラの服装はラフなワイシャツ姿で、彩華の服を借りたままのアイネとそう変わらない普通の格好だ。ユーリのようなローブ姿でも、以前のアイネのようにマントを纏っているわけでもない、教団らしからぬ格好だった。
「けどバートレットが
「お前が、私の……? ではその少女は……」
アイネの背信を審問する為にユーリは来たと言っていた。実際の審問方法については身を以て体験した通りだが、ニコラは自分こそがアイネの審問官だという。
「んー、今は審問官として来たわけじゃないんでお答えしましょう。こいつもあなたと同じ、いやそれ以上に
「う……あ……」
「ほい、なしっと。いやあ、後で調書作る時に楽でいいわあ」
怯えた様子で後ずさるユーリを見下ろすニコラに、アイネは警戒の色を強める。
「うちに保管してあったその鎧の略奪、僕の担当者を攫った越権、
「ち、違い、ます……」
「あ?」
ニコラは震える声で異議を唱えたユーリを睨む。それに怯えながらも、ユーリは言葉を続ける。
「詐称なんか、じゃ……ありません。わたしは……!」
「んー……黙ってな?」
ニコラはワイシャツの裾から短い杖のような物を取り出し、一振り。その勢いで杖が伸び、一メートル程の長さを持つ鈍器となる。
それを振り上げ、何の躊躇いもなくユーリへと振り下ろした。
「……ふうん?」
しかし杖が殴打したのはユーリの華奢な肉体ではなく、無骨な金属鎧。
レラがユーリを庇うように立ち、杖を受け止めていた。
「まさかとは思ったけど、へえ? お前がコレを庇うんだ?」
『……汝にどうこうさせるつもりは、ない』
重苦しい声。負の感情の乗った声音、詠歌が女性である事に気付かないのも道理だろう。
『
「はははっ! 言うねえ! 僕たちに呑み込まれたちっぽけな噂話風情が! 此処にだって怯えて逃げ出して来たんだろう!?」
顔を覆い、耐え切れないと下品な笑い声を上げる。アイリスが敗北した黒騎士、レラであってもニコラは危機を感じていない。
もう一度杖を持ち、騎士兜の隙間から眼窩へと突き入れようと腕を引いた。
「僕たち、などと同じにされるのは背信者の身でも不快だな……!」
その腕を背後からアイネが掴む。
レラとアイネ、二人に挟まれ溜め息を零す。
「アイネさーん? 滅多な事はしない方がいいよお?」
「何をしても私は背信者なのだろう? ならばせいぜいそれらしく振舞うだけだ!」
腕を掴んだまま、容赦のない回し蹴り。『ウルタールの猫』としても剣士としてもアイネは敗れた。それでも並みの人間が敵う相手ではない。それだけの鍛錬をこなして来た。
もう一方の手で蹴りを受け止めながらもニコラが大きく後退する。
「わっかんないなあ。あなた、バートレットにあんな事やこーんな事をされたんじゃないの?」
痺れる手を振りながら、馬鹿にした口調でアイネへと問う。
「確かに人を人と思わぬ彼女の所業、それは度し難い」
ニコラの言葉をアイネは否定しない。
「だが今更、私が言えた義理でもない! ああ、認めよう。私は間違えていた。『クタニド』を妄信し、『ウルタールの猫』という神性に呑まれ、何も出来ず、しようともしなかった! 私は……っ!」
唇を噛み締め、後悔を叫ぶ。決して取り戻せない過去を悔やみながら、それでもアイネは前を、眼前のニコラを睨みつける。
「神に選ばれた巫女だというのなら! 私は迷い、戸惑い、選択するべきだったのだ! 神の教えとは絶対なる正道ではなく、人々を導く標であるのだから!」
敷かれた道を絶対として歩む。それは歩む者に安心と安穏を約束するだろう。アイネがそうだったように。
けれどそれは違うのだと、今なら分かる。分かってしまう。だから悔やんでしまうのだ。
何故なら歩むはずだったその道の先にはきっと、自らに手を差し伸べた少女が埋まっていた。その屍を屍とも思わず、路傍の石程にも気に掛けなかっただろう。
(この感情が、新たな寄る辺を求める浅はかな心が生み出したものだとしても……そんな未来は悍ましく、間違っている)
神は道を敷く事はない。ただ示すだけ。その標を目指して歩む事こそが求める人々にとっての救いとなるのだ。
それが今、アイネの出した答え。神を捨てたアイネにはそれが正しいかは分からない。最早、標はない。
ただもう一つ、分かっているのは。
「何より、奪うだけの、略奪を示す神など神ではない! 『アイオド』の使徒よ! 貴様の信じる教えは間違っている!」
「……はっ」
アイネの叫びを、答えを、ニコラは酷薄に笑う。
「背信者けってーい! 余罪もぽろぽろ出そうだし? ついでに此処でやっときますかねえ!」
下品な笑い声を上げ、杖を一振りすると杖の上部が霞のように消え、刺突剣へと姿を変える。ニコラの持つそれは隠匿の魔術を用いた仕込み杖だった。
『今、此処で決定している事象はただ一つ。背信せし人間よ、汝の言う事は間違っていない。だが正しく告げるならば――』
無手のアイネへと向かう剣を弾き、レラが告げる。
『愚かな人間よ、汝そのものが間違っている、だ』
神に関わらず、何の罪悪感も感じずに震える少女を笑うニコラこそが何よりも間違っている、そうレラは言い切った。
「ああ……その通りだ!」
レラの肩に手を置き、飛び越えてアイネがニコラへと足を振るう。一瞬の死角から飛び込む一撃を仕込み杖の持ち手部分で受け止めながらニコラが舌打つ。
「ああ、うざったいなあ! 背信者に反逆者、審問官の僕が間違ってるはずないだろう!?」
「くっ!」
目の前を通り過ぎていくアイネの蒼髪を乱暴に掴み、力任せに引っ張り上げる。苦痛に顔を顰めながら、逃れようと足払いを仕掛けるが、それを跳ぶ事で避け、一切の躊躇なくアイネの顔へと刺突した。
(この男、口だけではない……!)
紙一重、蒼髪がはらりと散り、アイネの頬に一閃の傷が入る。
ユーリには黒騎士が付いているが、そうではない審問官は審問、拷問だけではなく捕らえる事も任務に入っている。ならば当然、戦闘能力にも長けた者でなくてはならない。
巫女としての象徴的役割も重要視されていたアイネと違い、純粋な戦闘員としての力をニコラは持っている。
(
その上、アイネの記憶には残っていないが、肉体は『アイオド』の生贄とされた事で疲弊している。二対一であっても旗色が良いとは言えない状況。
「『クタニド』派の看板娘ってのはこんなもんか! 歯向かうにしてももうちょっとしっかりしてくださいよ!」
「かはっ!」
刺突剣に気を取られ、その隙を逃さずに放たれた蹴りがアイネの胸部へと命中する。その衝撃に肺の中の酸素と共に血液が口から零れた。
「んーっ、やっぱり刺すのも蹴るのもあなたの方がいいねえ。鎧相手じゃ感触が面白くない」
『下衆め!』
「おっとぉ!」
背後からのレラの拳をひらりと避け、刺突剣を首元に差し込み、掬い上げる。
『!』
「うっわあ、顔色悪っ! それ生きてるの?」
騎士兜の下の詠歌の顔が露わになり、その蒼白の顔を見たニコラが大げさな素振りで驚く。
『死なせるものか……我にはこの人間との約定がある!』
「人間相手に媚び売るとか、終わってるねえ。お前はそういう存在じゃないだろうに」
『黙れ……! 我をその役割から逸させたのは汝たちだ!』
詠歌が感じていたレラの負の感情。それが強まり、怒りと憎悪が暴力となって放出される。地面を陥没させる程の拳による一撃だが、それがニコラを捉える事はない。
意思を封じられ、自由を封じられていた時と違い、今のレラは感情と行動が直結している。機械的な冷酷さと正確さを持っていた彼女の動きは感情的な残酷さと苛烈さへと変わっている。それはニコラ相手では悪手だった。審問官であるニコラは他人の感情を操り読み取る。彼相手にはむしろ機械的な戦いこそが有効だろう。
「ははっ、せいかーい! でも手も足も出ない鎧ちゃんなのでした、っと!」
そして今のレラは詠歌を抱えている。剥き出しになった詠歌の頭部を狙われれば、それを庇う他ない。顔の前で交差した両腕を掴み、ニコラの体が宙を舞う。背後へと回りながら、腕力と体重、重力を用いてレラを地面へと押し倒す。重い衝撃と共に鋼鉄の鎧が倒れ込んだ。
「ほいチェック」
ピタリと詠歌の額に突き付けられた刺突剣によってレラはそれ以上動く事が出来なかった。
「あれ、あなたも動かないんだ? じゃあこれでチェックメイトの間違いか」
アイネが詠歌を見捨てる事も考えていたのだろう、動きの止まったアイネを見て、つまらなそうにニコラが言う。
僅かに力が籠められ、詠歌の額と刺突剣の間にぷつっと一つの血の玉が浮き上がる。
「やめろッ! その者は関係ないだろう!」
「僕にはね。けど
膝を曲げ、刺突剣を握るのとは別の左手で詠歌の髪を掴んだ。
「こいつの命が惜しければ大人しくしろー、ってさ」
「……私が共に行けばいいのだろう」
「いやいや、話聞いてた? 今回あなたはついで、本命はそこで震えてるソレなの」
ニコラはアイネ達から離れ、しかしどうする事も出来ずに公園内に設置されていたポールにしがみ付いていたユーリを顎で指す。
また一際激しくユーリの肩が震えた。
「あなたも連れてく、ソレも連れてく、ついでにこいつらも連れてく。全員まとめて一網打尽ではいお終い。お分かり?」
「……
「だから? むしろ好都合だよねえ。僕の好きな言葉と嫌いな言葉、分かる? 正解は正当防衛と過剰防衛。けどま
ユーリとアイネ、レラと詠歌。それぞれを見渡し、意地悪そうにニコラは笑う。
「さあアイネさん? 選ばせてあげますよ。迷って戸惑って、それでも選んでくださいな。大人しく僕に従うか、従わないか」
「……!」
「いやあ啖呵を切るのはいいけど、すぐにこのザマじゃ格好もつかないよねえ。やっぱりそういう台詞は言い時を見極めないと」
嘲笑うニコラにアイネは拳を握り締め、唇を噛み締めながら怒りに震えた。このやり方がニコラの手で、思うツボなのだと理解していても。
――だってこれでは本当に、格好がつかない。ならせめて、と口を開いた。
「その台詞、そのまま貴様に返そう。勘違いの
「はあ?」
バサリ、と一羽の蝙蝠がユーリの掴むポールに逆さまに留まる。
逆転の、盤外からの一手が飛来する。
「――くっ、くくくっ。こうも盤上を整えられては私もセオリー通り口にするしかあるまい」
バサリ、と一人のマントが翻る。
「人間とは本当に愚かな生き物だ、とな」
艶やかな黒髪を闇に溶かし、しかし決して染まる事のない紅い瞳と白い牙を覗かせて。
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