そのつもりはなかったが、極度の疲労と緊張感からの解放から、詠歌はいつの間にか眠っていた。

 微睡みの中、話し声が詠歌の意識を揺り起こす。


「殺せ、貴様に話す事など何もない」


 それがアイネの声だと気付いた詠歌はゆっくりと目を開いた。

 予想通り、黙秘を貫いているらしい。しかし暴れるような激しい物音は聞こえない。

 未だ覚醒しきっていない様子で周囲を見渡すと、部屋の隅、カーテンの向こうにシルエットが見えた。

 目を擦り、意識をはっきりとさせると詠歌もカーテンに近づいていく。


「ふん、それにしては随分と何か言いたげな顔をしているぞ? いや、欲しがっていると言うべきか?」

「黙れ……っ」


 相変わらず尊大なアイリスの声と何かに耐えるようなアイネの上擦った声。

 何か嫌な予感を詠歌は感じた。何というか、心なしかカーテンの向こうからピンク色のオーラが見える気もする。


「私としては貴様に訊く事などない。だが、お前が質問に答えるというのなら、褒美として与えてやらんでもないぞ?」

「誰がっ……!」

「猫に忠誠心などあるまい? 己の欲望に正直になるが良い。体は我慢できないと言っているぞ?」

「んっ……はぁっ……やめ……」


 ……一体何をしているんだ。カーテンを開こうとしていた手を止め、思わず顔を覆ってしまう。

 正直、関わりたくない。善悪以前に人として間違った行為が行われている気がしてならない。

 躊躇う詠歌の前に、カーテンの隙間から彩華がこちらを覗き、詠歌に気付くと這いながら出て来た。何故か顔が酷く上気している。


「わわわわっ……!」

「会長……何してるんですか」


 口許を押さえて首を小刻みに振る彩華に、詠歌は呆れるしかない。


「ほ、ほんの好奇心だったんだ……場を和ませるというか、エリュンヒルテ様が性急な行動を起こさないように、って……でもまさか……わわわっ」


 何を思い出したのか、というか何が行われているのか、彩華はついには顔全てを覆い隠してしまった。


「どうやら勇士の目が覚めたようだな。敗者の運命さだめだ。お前の痴態を見てもらうのも良いな?」

「なっ……こ、これ以上私を辱めようというのか……!」

「なに、心優しい我が勇士の事だ。貴様に同情し、情けをかけてくれるやもしれんぞ?」


 巻き込まれた。彩華と同じように再び顔を覆い、まだ眠っていれば良かったと後悔する。

 正直、今すぐにでもお暇したいが、そういう訳にもいかない。

 意を決して詠歌はカーテンに手をかけ、一思いにそれを開けた。


「くっ……このような恥辱を……!」

「ふははははっ! まさに畜生、良いザマだぞ、狂信者!」

「……いや、本当に何やってるのさ」


 其処にはベッドの上に寝転がり、シーツを握り締めながら顔を枕に埋めるアイネとその枕元で嗜虐的な笑みを浮かべて彼女を見下ろすアイリスの姿があった。良く見れば、アイリスの手には何か香辛料の瓶のような物が握られており、それをアイネは睨みつけるように、或いは恨めしそうに上目遣いで食い入るように見つめていた。

 その様子だけで、詠歌は大体の事態を把握した。実を言えば、詠歌もそれを考えなかったわけではないのだ。

 最初の邂逅の際、詠歌は猫騙しという古典的な方法で危機を脱した。であれば、その方法も多少の効果があるのではないか、とも思った。しかし命のやりとりになろうかという状況で、その選択肢を選べるはずもなく、結果としてアイリスに授けられた聖剣を用いた一騎打ちとなったのだ。

 その失われた選択肢、アイリスの持つ瓶の中身を、マタタビと呼ぶ。


「ふーっ、ふーっ……!」

「……………………うわぁ」


 彩華以上に上気した顔で詠歌を睨みつけ、しかしアイリスが動けばその手の先をすぐさま追ってしまう様子に、詠歌はおよそ女性に向けるべきでない感情が短い言葉となって漏れ出た。

 何というかもう、悲しい。三度の命のやりとりを経て、詠歌を悪だと呼び、その命を奪おうとしていた蒼髪の剣士、『ウルタールの猫』を宿した女性。その痴態は恨みとか憐憫とかを通り越し、何とも言えない悲しさを詠歌に齎した。

 ついでに言えば、それを引き起こしているアイリスに対してはもう、恥ずかしさしか感じない。身内の恥、というわけではないが、こんな奴と知り合いだと思われたくなかった。


「……会長。原因は会長みたいだから、謝りません。後で一緒に掃除しましょう」

「え……」


 そう言って、詠歌は迷いのない足取りで一度下がり、キッチンから水をコップに入れて戻ると、やはり一切の迷いなく、悶えるアイネに向かってそれを掛けた。


「んんっ!?」

「ん?」


 そして乱暴な動作で叩き落とすようにアイリスからマタタビ入りの瓶を奪い取った。

 水を滴らせ、驚いた表情で詠歌を見るアイネを見下ろし、真っ直ぐにその瞳を見ながら言葉を発した。


「君もさ、恥ずかしくない? 一応命のやりとりって奴を何度かしてさ、僕も必死だったよ。でもさ、善悪とか語って神の教えとか何とか言ってた奴がさ、こんな醜態を晒してるのを見せられた僕の気持ち、分かる? 君にこんな事言うのも嫌なんだけどさ……頼むからもっとちゃんとしてよ……」


 酷く冷たい言葉だった。掛けられた水よりも冷たく、鋭い言葉だった。


「……すいません」


 そんな言葉を向けられた本人は、耳と尻尾を垂らし、俯いてそう謝罪の言葉を口にした。

 それを聞いていた彩華も己の行動を鑑みて、同じように俯いて同じ言葉を口にしていた。


「はぁ。それじゃ、一応訊くけど。僕たちに情報提供する気は?」

「……ありません」

「そう。ならもういいや」


 今、これ以上問いただしても無駄だろう。少なくとも彼女にも冷静になる時間が必要だと判断した詠歌はあっさりと会話を切る。

 詠歌自身、寝起きと必死の決闘の後で平時とは違う自覚があった。


「まっ……待てっ」


 しかし、あまりにも冷たい詠歌の言葉と自らの醜態から、完全に見限られたように聞こえたのだろう、アイネが詠歌を止めた。


「わ、私の口からは”司祭様”の不利になる事は言えない……だが、私たちが崇める神の事ならば、教えられる。教団で私は教えを説く立場ではないけれど、それでも良いのなら……」


 見限られる事を恐れた訳でも、価値がないと殺される事を恐れたのでもない。ただ詠歌たちに残る最期が痴態である事に耐えられなかったのだろう。アイネはしおらしい口調で詠歌を見上げる。


(……あれ。これって、僕は僕で、とんでもない事してる?)


 罪悪感と共に冷静さを取り戻した詠歌は、女性に水をぶっかけ、見下しながら冷酷な言葉を吐くという自らの行動を改めて振り返り、またしても顔を覆いたくなった。

 だが彩華は未だ自省中であり、アイリスはつまらなそうな表情を浮かべているだけだったので、このまま誤魔化そうと咳ばらいを一つ。


「ああ、うん……でもその前に、タオル借りてくるよ」


 自省中の彩華に頼み、持って来てもらったタオルで顔を拭ってから、アイネは語り始めた。

 流石にその頃には彩華も神妙な表情を浮かべ、その語りに耳を傾ける。


「……我らが崇めるのは神話において旧神と呼ばれる神々の一柱、その名を人に発音できる形で呼べば……『クタニド』」


 聞き覚えのない名に視線で彩華に訴えると、彼女は瞳を輝かしてアイネの言葉を補足した。


「『クタニド』! 英国で生まれた『タイタス・クロウ』に登場する旧神! 以前言っただろう? クトゥルー神話には人間が大活躍する話もある、と! 『タイタス・クロウ』がまさにそれだ! タイトルは魔術や怪奇といった非科学事件を探求する探偵である主人公の名前から取られた物で、人が持つ勇気と科学と核爆弾で邪神に立ち向かう様子を描いたヒロイックサーガ!」

「待って、ちょっと待って下さい」


 早口に間髪入れずにツッコミを入れてしまったせいで、内容が理解出来ているとは言い難いが、それでも口を挟まずにはいられなかった。


「核爆弾って」

「ふふふっ、ツッコミたい気持ちは分かるが、ふざけて言っているわけではないんだ。まあつい人に勧める口調で抜粋して説明してしまったが、『タイタス・クロウ』は多くのクトゥルー神話と同じホラーでありながら、それまで少なかった痛快娯楽的要素が大きい物語なんだ。創設者であるラヴクラフトが恐れた恐怖の具現であるクトゥルフの邪神たちを人の手で討伐する。ある意味、私たちが参考にすべき物語だ」

「……お詳しいのだな。私たちが信仰するのは『クタニド』様であり、『タイタス・クロウ』に関しては私は物語として語られている以上の事は知らない」

「ああ、話の腰を折ってごめんね。とにかく、『クタニド』はクトゥルー神話の邪神たちと敵対している、旧神と呼ばれる神なんだ」


 旧神。その単語なら詠歌も覚えがあった。詳しくはないが、一応は人間の味方に近い神たちの事だったはずだ。

 もっとも、神話に登場する神を単純な人間の敵味方にカテゴライズするのは難しいだろうが。


「『クタニド』様は人を愛しておられる。私たち人に発せられる名を名乗り、我らの信仰に応えて下さった」

「アイリスを狙ったのはその『クタニド』の命令?」

「いいえ、『クタニド』様は私たちに命ずる事はありません。あのお方はただ世界の平和を願うお方。私たちは少しでもそのお力になろうと集っただけです。吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアを討とうとしたのは司祭様のお言葉です」


 自らが狙われた原因、『クタニド』を祭る教団の司祭。だが横目で窺ったアイリスはそれ程興味を示してはいないようだった。

 聞いてはいるのだろうが、怒りを表すでもなく、聞き流しているだけのように見える。


「我らは対攻神話プレデター・ロアを信仰し、語り継ぐ教団。しかし対攻神話プレデター・ロアという一つの神話で括られていても、それは無数の信仰の集合体。世界を滅ぼす邪神や安寧の地を求める異星の神を信仰する集団もある。だが私たちは違う。邪悪なる『クトゥルフ』だけではない、いずれ人を脅かす異教の神々から人の世を守る為に、『クタニド』様に信仰を捧げているのです」


 心からの信仰なのだろう。その言葉には確かな芯がある。ただ一つ、その教えを正しいと信じ、それを広め、世界に救いを齎そうとする思い。彼女にとって『クタニド』というのは他者からすれば創作上の存在に過ぎなくとも、確かに救いの神なのだろう。

 それに詠歌も彼女の超常的な力を知っている。それがただの創作でない事を知っている。その信仰を否定する気にはなれなかった。


「司祭様は吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアを『クタニド』様に捧げれば、『クタニド』様の力になるだろうと仰いました。邪神に対抗する為、異教の神に対抗する為、世界に平和を齎す為の力となるだろう、と」


 対攻神話プレデター・ロア。人の手によって生み出された、神話を冒す神話。その全容は未だに理解出来ない。

 その信仰者ではない詠歌たちにはアイネの言葉にどれだけの真実が含まれているのか判断できない。


「だから私は司祭様の言葉に従い、あの夜、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアを討つ為にあの場所に居た。北欧の勇者エインヘリアルにその身柄を渡したところで、その悪性は浄化される事はない。また同じような存在が生まれるだけだと。それこそ吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアにとっても救いなのだと」


 分かったのは、詠歌が居合わせたあの場所に至るアイネの理由だけ。それが分かった所で、今更何が変わるわけでもない。

 ただ、あの出会いが偶然であった事には安堵出来る。偶然が重なっただけの、決して選ばれた勇士などではないのだと。


「くだらん」


 そこで静観していたアイリスが口を開いた。怒りはない、だが苛立っている事は間違いなかった。


「この私に救いなどと、ふざけた事を。私を悪と叫ぶのは良い。正義を語り、善を為そうとするのも良い。だが、救いだと? 驕るなよ人間。私に向けるのは救いの手ではなく、己が正義と信ずる刃を向けるがいい」

「貴様……! 『クタニド』様の慈悲を驕りと言うか!」

「異教の存在たる私を貴様らの価値観ではかるな。それが驕りでなくて何と言う。ましてやそれが神そのものでなく、ただの人間であれば尚の事だ」

「司祭様のお言葉は『クタニド』様の代弁に等しい! 心優しき『クタニド』様が我らを思い、口にせぬ事をあの方は仰って下さるのだ! それをしるべに我らは『クタニド』様の為に信仰を捧げられるのだ!」


 己の信ずる神と司祭を侮辱され、激昂するアイネをアイリスは冷めた目で見ていた。狂信者と嘲っていた時はまだ、その瞳に興味の光があったはずなのに。


「落ち着いて、アイネちゃん。属する神話が違えば、互いの理解が難しい部分もある。そこで言葉を荒げてしまえば、いつまで経っても分かり合う事も、分かってもらう事も出来ないよ」

「っ……今の私は敗北し、捕えられた身。今、貴様に理解出来るとは思っていない」


 彩華の言葉に息を吐き、アイネは怒りを収めた。納得はしていなくとも、これ以上の醜態を晒す事はしたくないのだろう。

 アイリスもまた、それ以上挑発する事はなかった。


「一つ質問。別に答えられないなら答えなくても良い」

「……何だ」

「君のその耳と尻尾、それに『ウルタールの猫』。それはどうやって?」


 人ならざる部位と人ならざる姿を持った猫。アイネに宿っているとアイリスは言っていたが、その意味をまだ理解出来てはいない。


「これは司祭様が私に授けて下さった力……『クタニド』様のお力となる為に与えられた、神の祝福だ。神の力、その一部をこの身に下ろし、対価として魂の一部を捧げる。捧げた魂は『クタニド』様の一部となり、永遠となる」


 物は言いようだ、と詠歌は思いつつも内心を口にする事はない。他人の信仰を、信じるものを否定する権利は誰にもない。それが理解できないものだとしても。


「会長、『クタニド』にもやっぱり分かりやすい弱点はないんですか?」


 詠歌の問いに申し訳なさそうに彩華は頷いた。詠歌自身、期待をしていたわけではない。『タイタス・クロウ』ならぬ身では、神に立ち向かう術など本来ないのだろう、と。


「さっきも言ったように『クタニド』は人の味方として描かれた神だ。だからこそ、人に倒される逸話もないんだよ」

「『クタニド』様は人を愛するお方だ。それを倒そうなどと考える事が間違いなのだ」

「詠歌君、私も『クタニド』が物語通りの存在であれば、彼の神自身と敵対する必要はないと思う」

「はい。僕も神そのものと戦おうなんては思っていません」


 アイネの身に宿る『ウルタールの猫』でさえ、詠歌にとっては強大過ぎる敵だった。それを越えるであろう神と戦えるとは思ってはいない。

 対攻神話プレデター・ロアも北欧神話も、アイリスがそばにいる限り無関係ではいられないだろう。だから詠歌はアイリスの期待に応えぬよう、彼女の思惑から外れようと、自分が思うままに行動してきた。アイリスを打倒するだけの力がない以上、詠歌は彼女に協力するしかない。彼女が詠歌への興味を失うまで、或いは彼女が滅びるまで。

 だがそんな詠歌すらアイリスは認め、未だに詠歌を勇士と呼ぶ。

 とはいえ『ウルタールの猫』からアイネを引きずり出す、というアイリスの目的は果たした。詠歌自身の目的と重なっていたとはいえ、以前語ったように、これでアイリスへの借りは返したはずだ。もっとも、アイリスの気が変わらないとは限らないのだが。


「それで、私をどうするつもりだ。言っておくが、人質になるなどと思うな。私たちは神に身を捧げた。皆、命を断つ事にも断たれる事にも迷いはない」

「別に。これ以上僕たちを襲わないならどうもしない」

「……約束は出来ない。司祭様が命じれば、私はそれに従うだけだ」

「なら、その司祭と話が着くまでは大人しくしてもらうよ」


 どうせ自分にはアイネの命を断つ覚悟も、断たれる所を見る覚悟すらない。目の前で人が死ぬ、という事自体が御免だった。


「甘い事だ。いつまた貴様らに剣を向けるか分からないぞ」

「僕や会長には君やアイリスみたいな覚悟はない。巻き込まれただけの一般人だ。だから、そうするしかないんだよ」


 詠歌の言葉に、アイネは気まずそうに瞳を逸らす。そんな一般人に敗れた事を気にしているのかと思ったが、そうではない。


「そう、だったな……私が巻き込んでしまったんだ。もしもあの時、私が吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの首を早くに落としていれば、お前を巻き込む事もなかったのだろう」


 詠歌を巻き込んだ事に責任を感じていた事が、意外と言えば意外だった。司祭に命じられた使命の為ならば人を斬る事に躊躇いすら抱かないと思っていたからだ。


「……私も出来るなら何も知らぬ人々を巻き込もうとは思わない。そんな人々こそ、私たちが守らなければならない者たちなのだから。あの時ももしお前がすぐさま逃げていたなら、追いはしなかったさ」

「なら、すぐに逃げなかった僕にも原因はあるよ」


 もしもあの時、震えていたアイリスを見つけていなかったなら。そう考えて、すぐにそれを消した。

 今更もう遅い話なのだから。


「もっとも、お前に私の首が落とせたとも思えんがな」


 ただ、もしもアイリスがこんな性格だと知っていれば、とは思わずにはいられなかった。

 結局、後の祭りに違いはなかった。

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