2-3.姫琴は力無く笑う。


「姫琴おはよう!」


 教室に着くなり葦木くんが千切れんばかり手を振りながらわたしにそう言った。残像で彼の右半身だけ千手観音に見える。隣の席の人が迷惑そうに身体を反らしている。やめてあげて欲しい。

 当たり前だけれど、彼は人間の姿だった。

 太陽の出ている間は人の姿から戻れないなんて制約でもあるのかと、悪魔の生態について推測してみたりもする。

 教室も日常の毛色を取り戻している。見慣れた顔ぶれの並ぶ世界が目の前には確かにあり、まるで昨晩の出来事など嘘であったかの様だ。

 それにしても毎朝早起きだね、葦木くん。

 少なくとも、葦木くんはわたしより遅く登校したことはないんじゃないだろうか。悪魔って夜行性のイメージを勝手に持ってたけれど、そんな事はないようだ。

 悪魔だからって不規則で自堕落な生活を送っているわけじゃないんだな。やっぱり悪魔の生態レポートを付けようかな。学会に発表しても馬鹿らしいと怒られてしまうだろうけど。


「お、おはよう葦木くん」


 小さく手を振り挨拶を交える。

 彼に対する警戒心もそうだけれど、それだけが理由ではない苦笑いが漏れた。

 教室中の視線が痛いのだ。ヒソヒソ話で耳も痛い。居心地の悪い好奇がわたしを取り巻いている。

 葦木くんはそんな空気に気付かないようで、純白な笑顔を貼り付け駆け寄ってきた。

 モーゼの十戒のように人が割れて道ができるあたり、彼の扱われ方がどの様であるかわかるね。あぁ、ちょっと悲しくなってきた。


「なぁなぁ! 昨日の約束覚えてるか!?」


 空気が震える程度のざわつき。


『ひ、姫琴さんと葦木の間にいったい何が!?』と、皆だいたいそんな事を囁いているのだろう。聞こえてるよ。わたしは別に気にしないからいいけど、葦木くんが怒りださないか心配なささめきだ。

 もともと存在感の無いわたしが悪目立ちを生業とする彼から、急に親し気に話しかけられているのだからその不可思議さは否めない。

 そりゃあみんな興味津々だろうさ。

 仮に別の誰かが同じ目にあっていたなら、わたしも彼等と同じ反応をしていただろうし。その人の事を患ってしまうかもしれないし。

 でも昨日の出来事で彼を知ってから、笑えないし苦笑いしか出ない。

 どうして葦木くんと話をする事で、親しくする事で身を案じられなければならないのだろう。今のわたしの心内はそんな感じ。

 鞄を下ろしながら、みんなの注目を振り払うことを諦める事にした。


「朝から元気だね。もちろん覚えてるよ」


「良かった! 楽しみにしてるぜ!」


 満足そうにスキップで去って行く彼を見送り、わたしは一緒に登校し、教室に入りその存在が希薄になった友人、まゆちゃんに言葉を投げる。


「ごめんね、今日からお昼ご飯は葦木くんと食べる事になったから」


 友達の驚く顔も残念がる声も、それを上回る周囲の好奇心に掻き消されてしまった。わたしがその立場なら以下省略。

 あぁ、もう好きにしておくれ。煮るなり焼くなり蒸すなり衣をまぶしてからりと揚げるなり、お好みの方法で召し上がっておくれよ。

 どうせ昨日のことを鼻息交じりにお話ししたとして、誰も信じちゃくれないだろうし、そもそも話すつもりもないし。

 たまたま葦木くんと話をしてたら意気投合しちゃったんだよと、そんな風に終始お茶を濁した。

 それよりも帆篠さんの姿が無いことが少し気がかりだ。

 昨日あんな事があったから、今日は休みなのかもしれない。気に病んでいなければ良いのだけれど。

 授業中もずっと上の空、虚ろな瞳で溜息を吐くき、昨晩のことを思い出す。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「葦木くん、まずは人間の常識を学ぶところから始めようよ。そしたら、友達いっぱい出来るよ」


 あの後、わたしは彼と二人歩きながらそんな話をした。

 昇降口で彼が指を鳴らした途端、渦の様に連なった雨雲がすっと消えた。水溜りだけが残るアスファルトを見て、わたしは彼が本当に悪魔なのだと身震いしたのだった。

 葦木くんは平然とした面持ちでわたしの言葉だけを捉え、困った表情で彼は答える。


「いや、色々勉強してんだけどうまくいかないんだ」


 わたしは、彼が転校初日からかなり頭の痛い発言をしていた事を思い出す。


「自己紹介で『酒とタバコと喧嘩が趣味です』なんて言ったら、みんな警戒するのは当然だよ。

 わたしもこわい人かと思っちゃったし」


「え、あれダメだったの? 人間の女の子は『不良』が好きだって聞いたから、不良についてちゃんと調べて、あの挨拶考えたんだぞ」


 少し頭を抱えた。これは重症だなぁ。

 結果、迎井先生が『みんな、仲良くするように。そして葦木はこの後すぐ職員室に来い』と締めくくり、初手から入り口を間違えた彼は瞬く間に孤立する事になったのだった。うん、残当だね。

 その後も様々な奇行を起こすし、そりゃみんな関わりたくないし避けるよ。

 例を挙げるなら、突然教室でカキ氷を振る舞う、こたつを教室に持ち込む……その他諸々。枚挙にいとまがないので紹介は省く。

 あのカキ氷、誰も欲しがらなかったなぁ。葦木くんって季節感とかないのかな? あぁ、それ以前の問題か。

 でも今のわたしは全てに合点がいく。

 だって彼は悪魔だったんだから。

 人間世界のルールや常識が理解できてなくても不思議ではない。今では、しょうがないとさえ笑うことが出来る。それにしても転び過ぎだよ葦木くん。お尻大丈夫?

 友達が欲しくて、寂しかったんだななんて同情するのもおこがましいけれど、わたしは彼の友達になる事を否定しない。

 悪魔の脅威は拭いきれないし、彼が少しでも人間の事を好きになればそれは人類の為、そして帆篠さんの為にもなるのだと考えたからだ。


「帆篠さんは? 友達になろうと思わないの?」


 葦木くんの中で彼女が特別であることは疑いようがない。

 昼休みの騒動でも、彼は帆篠さんを庇っていた。自らが矢面に立つことも厭わず、ひとり買って出ていた。実を言うと、彼のおかげでわたしも走り出す決心が付いたのだ。

 理由はわからないけれど、わたしと同じく彼女を特別な存在として捉えている事が彼にシンパシーを感じる一つの要因なのかもしれない。


「あいつとは友達じゃない。俺はあいつが嫌いだからな」


 それは思いがけない言葉だった。


「帆篠も俺のこと嫌いだから別に構わないけどさ。顔を合わせる度に馬鹿にしてくるし、あいつも友達以下の存在だって言ってたし」


「帆篠さんが?」


 少なくとも、彼女が誰かを悪く言うところを見た事がない。それどころか、人と親し気に話しているの姿は記憶に無かった。

 彼女は他者との繋がりを持たない孤高な狼のような人で、彼女にとっての孤独はある種強さの象徴のに近い。

 それはわたしの勝手な思い込みに過ぎない。単なる憧れを抽象化した結果で、全てではないとわかっている。

 それどころか、わたしは現実の帆篠さんの事を何も知らない。寧ろ彼女への色眼鏡は一際色濃く厚いだろう。だから、葦木くんの言う彼女の人物像が正解なのかもしれない。自らの世界だけをこの世の全てと言い張るほど、わたしは驕ってなどいないつもりだ。

 それでもなんだろう、少しモヤモヤする。


「でも、さっきのはあいつに嫌がらせをしようとしてたわけじゃないぞ。嘘じゃない、俺は嘘を吐かない」


 疑うつもりはない。

 彼がわたしのことをーー友達のことをーーどんな存在として扱っているかなんて、この短い時間でも理解しているつもりだ。

 信頼と信用は違う。

 全てを信じる事は出来ないなんてわかってはいるけれど、それでも自分に言い聞かせる。

 彼の言葉にどれも偽りは無いと、拙い感覚でわかっていると言い聞かせる。

 体操服に悪戯しようとしていたとしても、それは本当に悪魔としての目的があったからだろう。

 『信じる』という単純で複雑な思考は簡単に切り替わり、そんな自分を信じることができないのが常だ。だから、それでいい。

 それでも、何故か嫌な気持ちだった。


「帆篠さん、葦木くんのこと好きなんじゃない?」


 帆篠さんを肯定したくて、そんな言葉を紡いだ。

 しかしそれは、わたしの持つ彼女のイメージ、そして強さを否定するに等しい口上なのだと気付けなかった。

 心のどこかで、縋る様に彼を見る。


「さっきも言ったけど、あいつは俺のこと嫌いだよ。嫌いな奴に知能指数が低いだとか、顔が悪いだとか言わないだろう、普通」


 冗談めかして零した言葉はばさりと断ち切られた。

 切り落とされた言の葉はどこへ消えるのだろう。枯れ木の様に地に残るのであれば拾い上げることができるのに、感情や気持ちと言った不確かなモノは煙よりも透明で影よりも軽いから、生まれてすぐに此岸に隠れてしまう。

 考えるのが嫌になって「そうだね」笑い誤魔化す事にした。

 わたしがなんとなく口にした言葉が、嘘であればいいのにと強く強く願う。後悔から逃げ出したくて、肯定という否定に逃げたのだ。そんな自分が、堪らなく嫌いだ。

 葦木くんの呼んだ月灯りに視線を落とし、そして物語は話の冒頭、何気無い朝に続く。

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