2-2.姫琴は決心する。


 悪魔はどこから取り出したのか、学生ズボンを履いて「お待たせ!」とわたしに瞼を開く合図をよこした。

 茫然自失。言葉も出やしない。

 汚れてしまった……視界と海馬を同時に汚されてしまったよ……。

 わたしの中で大切な一日になるはずだった今日が一瞬でゴミ箱フォルダへクリックアンドドラッグ。終い悪けりゃなちゃらけ。瞬く間に最悪の一日となった。

 目の前の悪魔は笑いながらツノの根元をぽりぽり掻いている。

 本日三度目の勇気を振り絞り、開口一番告げる。


「……あ、あなたは悪魔ですか?」


「ば、馬鹿なことを言うな! 俺のどこが悪魔だ!」


 全てだよ!

 太く禍々しい二本のツノ、大きな翼、鋭利な爪と牙、そして凶悪な目付き。どこをどう見ても漫画や映画に出て来る悪魔だ。今更惚けるにしては無理があるでしょ。

 悪魔とは、即ち悪を具現化した存在である。人の心に付け込みその魂を奪うと聞く。弱さを見せれば、それは魂を奪われると言うことと同じだ。漫画で得た知識だけどね。

 正直膝は笑ってるし声も震えているけれど、それでもあくまで動じていないフリをして表情に力を込めた。


「さ、さっきの叫び声を聞きつけて先生達が来ます。そしたら警察に捕まえてもらいますから」


 精一杯の強がりにあっけらかんとした声色が返ってきた。


「あ、お前が入ってきた時に魔術でこの教室を現世と隔離したから誰も来ないぞ。叫び声も聞こえてないだろうし、そもそも入れない様になってるから大丈夫!」


 全然大丈夫じゃない。

 まぁ、悪魔の前に学校の先生や警察官がどれくらい役に立つかは甚だ疑問ではあるけれど。


「や、やっぱり悪魔じゃないですか! 魔術を使うなんて、悪魔以外に考えられません!」


「な!? ハメやがったな!」


 あなたが勝手に言ったんでしょうが。


「これだから人間はずる賢くて嫌だ! くそぅ、そうさ! 俺が悪魔だ!」


 開き直ったよ、この悪魔。

 でもいよいよもって追い詰められた。どうやらこの教室に魔法をかけたと言うのは本当らしい。今入ってきた扉は鉛の様に重くピクリとも動かない。


「お前が入って来る前に結界張っとくんだった‥‥‥。

 邪魔しやがって! もう少しだったのに!」


 もう少しで何をするつもりだったのか。放り投げられた体操服をちらりと見る。

 きっと変態的な何某に違いない。むしろ最中でなくて良かった。本当にお嫁に行けなくなってしまうところだったよ。それに帆篠さんを変態の魔の手から救えたのだから、その点は良しとしよう。

 なんて無駄口叩いているところでギラリと銀色の目がわたしを刺した。

 恐怖で指先から血が凍っていくのを感じる。


「わ、わたしを殺すの‥‥‥?」


 今まで生きてきた中で抽象的だった『死』が、この場所で確かな形を作っている。

 確かに隣にあるのに普段は考えもしないその訪れが、音も無くわたしの肩を叩いていた。

 その感覚に気付き、恐怖は一層濃く、深くなる。


「野蛮な事言うなよ! でも見られちゃったし、何かしらの対処はしないといけないよなぁ。

 ……どうしたらいいと思う?」


 わたしに聞くな。

 じゃあ見逃してよ〜この事は黙っとくから! なんて冗談めいた誤魔化しをしようものなら、即喉笛を掻き斬られるかもしれない。それだけ、命の火を吹き消す力が現実味を帯びている。

 腕組みをし首をひねる悪魔を見ながら後悔した。

 こんな事なら雨の中濡れて帰って風邪をひいていた方が百倍マシだった。人間万事、塞翁が馬。良いことと悪い事はそれぞれに比率があるように、わたしの心も激しく縦に揺れた。

 誰を恨むべきか。まぁ、天気予報を外したあの予報士よりも突然降ってきた雨に舌を打つ方が、誰も後ろめたい思いをしなくて済むだろうな。

 こんなことを考えている時点で、ある種の結末をわたしは想像し、受け入れているのかもしれない。

 潜在的な意識の中で、きっと諦めているわたしの口から言葉が漏れる。


「まさか葦木くんが悪魔だったなんて……」


 ポツリと言い終わるか終わらないかのタイミングで悪魔は食い気味に叫ぶ。


「ちょ、ちょいちょーい! 違うよ! 俺は葦木くんじゃないよ!? 何言っちゃってんのこの人、やだなぁ、葦木くんが悪魔なわけないじゃないですか」


 慌てた様に手をブンブン振っている。正体がバレていた事に動揺しているのだろう。

 しかし取り繕っても無駄である。その動揺が動かぬ証拠だ。動いているから証拠になっているのに、動かぬ証拠とはこれいかに。

 なんとなく雰囲気が似てるなと思ってこぼした言葉が図星を得ていた事にわたしも若干の戸惑いを覚えた。

 と言うか、そもそも今から殺す人間相手に嘘を取り持とうとしなくても良いのに。

 ……あぁ、失敗した。彼の正体まで暴いてしまった私はこのまま確実に殺されるだろう。でも、何も言わずに殺されるなら一矢報えたのだから御の字だ……いや、こんなの悪魔にとってはへでもないか。

 寧ろ確かな諦めが付いてよかったと思おう。最後の最後でポジティブになる自分に不思議な感情を持つ。

 強く強く目を閉じて、せめて痛くなければ良いなと息を止めた。

 お父さん、お母さん、カッピー……先立つ不孝をお許しください。

 ちなみにカッピーはうちで飼っている犬の名前です。


「て言うかさ、なんで俺の事知ってんの?」


 ……何よ、せっかく覚悟を決めたんだからひと思いにやってくれれば良いのに。その爪でこの喉を掻き切って吹き出る血で体を洗って脳みそをチューチュー吸えば良いのに。

 嘘です、前言撤回。想像しただけで気持ち悪くなってきた。やっぱり死にたくはない。

 この質問に答えれば十秒くらいは延命できるのだろうか?


「何故も何も、同じクラスだし……。

 一応クラスメイトの顔と名前くらいは覚えてるから」


 ポカンと目を見開いた悪魔を、瞼の隙間から盗み見てそう答える。

 顔……見ても葦木くんだって気付かないよなぁ、普通。なんでわたしはわかったんだろう? ただピーンと来たとしか言いようがない。この雰囲気、なんとなく誰かに似てるって。

 そうか、あれだ。間違い探しとかでじーっと見てても分からなかったのにふとしたタイミングで答えが見つかるみたいな、あの感覚。

 生命の危機を目の当たりにして、わたしの動物的直観が冴え渡ったのだろう。要するにビースト状態。トランスフォームしてこの悪魔をやっつけろ! いや、むりむり。


「……ちょっと待って、今『クラスメイト』って言った?」


 質問の意図が掴めずに黙って一度頷く。

 何故そんなことを聞くのだろう。もしかして、いや、もしかしなくても葦木くんはわたしのことなんか知らなかったんだろうな。て言うか、驚くところそこですか?

 はいはい、どうせ陰が薄いですよ。どうせ教室で楽しそうに騒ぐ様なクラスの中心グループにはいませんよだ。

 スカートも膝丈だし、ネイルもしたこと無いし、おばあちゃんが縫ってくれた小銭入れ使ってますよーだ。もっと漫画の主人公みたいなキラキラしたスクールライフを送りたいですよ、わたしだって。

 無理だってわかってるけど、悪魔にまでそんなこと言われたく無いよ。と若干悲しい怒りに絶望しているところで、悪魔はわたしが思っていたものとはかけ離れた反応を見せた。


「うおぉ! マジか! 『メイト』の意味わかって言ってんの? 『友達』ってことだよ!? 」


 何やらテンションを上げて踊っている。

 悪魔の踊りだ、悪魔踊りだ。英語に直すとデビルダンス。

 ちょっと訳がわかんないです先生。彼はどうして踊っているのですか? あれ、なんだか英語の例文みたいになったよ。


「あの、本当に申し訳ないんだけど名前教えてもらって良い? 俺、クラスのヤツの顔と名前覚えてなくて」


 バツの悪そうな顔をする悪魔に警戒心を抱きながらも呆気にとられて、命を取られるかもと言う疑念を忘れつい答える。


姫琴ひめごと……さやです」


 悪魔は手をパンと叩いて、そのままわたしを拝む仕草を見せた。


「そっか! 姫琴ごめんな、二度と忘れないから、友達の名前は!」


 なんだか友達認定されてしまった。

 え? クラス『メイト』っていう言葉だけでわたしたち友達? ハードル低すぎない? そのハードルグラウンドにめり込んでない? むしろ陥没した地面につま先引っ掛けて転んじゃいそうだよ、そのハードル走。

 はいはい、どうせわたしは運動神経も人並み以下ですよ……いや、これ以上ネガティヴな自己批判はやめておこう。目の前の悪魔がそれどころではないようだから。


「いやぁ、俺さ友達初めてだよ! よろしく、俺は葦木! あ、知ってるんだったな!」


 その様子はいつもクラスで浮いている葦木くんそのものだった。

 わたしが本当は泣き出したいくらい怖がっているって事にも気付かないくらい自分勝手で、いつも先生に怒られているクラスの問題児の笑顔だった。

 先程までの緊張感が薄らいで行く。別に彼と話したことなんてないけれど、ひと雫の日常感で、やっと生暖かい空気が肺に満ちている感覚を取り戻した。


「わたしのこと、殺さないの?」


「殺すわけないだろ! そもそも殺すつもりないよ! 友達なんだから尚更な!」


 へたへたと腰が砕ける音がした。

 久方ぶりに安堵の幸せを噛み締める。どうやら一命はとりとめたらしい。と言うか、もともと杞憂だったのかな? 彼の口ぶりからしてみれば。

 本当に迷惑な話だ。そりゃ、毎日『放課後職員室に来い!』なんて迎井先生に呼び出されるわけだよ。その傍迷惑さが、彼が問題児たる所以だ。

「大丈夫か」と手を差し伸べられた手にはもう鋭い爪はなかった。

 ただの上半身裸の人間、クラスメイトの葦木くんが目の前で不安そうに立っている。いや、上半身裸の人間にも滅多に出くわす事はないけれど。

 正直な話をすると、わたしは葦木くんが苦手だ。そしてきっと、クラスのみんながそうだ。

 問題ばかり起こして、少なからずそれはみんなひ被害が及ぶ。だからクラスでは煙たがられている。物凄く可哀想なこと言う様だけれど、それは否定したって仕方がない。

 彼のひとりは帆篠さんのひとりとは違う。それは単純な孤立だ。

 それでも何故だろう。

 教室での困り者な彼の言動や、畏怖を具現化した容姿をした彼を思い出しても、わたしはどうしてもその手を払うことが出来なかった。

 ただ友達と呼ばれただけで、これほど喜ぶ事が人間に出来るだろうか。悪魔である彼と人間である私達とでは、そこまで価値観が違うものなのだろうか。

 わたしは彼の手を握り返すことにした。掴んだ手の平は人のそれより随分と冷たい。熱が奪われ行く手触りを確かめながら、先程否定された言葉をもう一度吐く。


「葦木くん、悪魔だったんだね」


 自然と溢れたのは笑みだったと思う。それが呆れから生まれたものなのか安堵からもたらされたものなのか、はたまた別の何かに起因するのかはわからない。


「誰にも言わないでくれよ。特に帆篠には」


 苦笑いを零しながら葦木くんは投げ捨てられた体操服を拾い上げ丁寧に畳んで体操袋に押し込んだ。

 少しだけ冷静を取り戻した思考が唇を突く。


「……帆篠さんの体操服で何をするつもりだったの?」


 おっかなびっくり尋ねてみる。全裸で、と付け足すのはやめておいた。

 回答によっては友達撤回の警察通報ものだ。


「悪魔的な目的の為だよ。

 べ、別にエロい意味があるわけではないぞ!?」


 どこまで信じれば良いのだろうか、悪魔の言葉を。人気のない教室で全裸になる人の言葉を。

 今のわたしには彼が危険だとは思えなかった。

 しかし、それでも彼の言葉の全てを信じることは出来ないだろう。理性とは別の回路が叩く鐘の音は、どうしても搔き消すことは出来ない。

 ただ、彼が『悪』ではないと、それだけは安心して笑うことができる。

 それだけで、葦木くんを肯定するには十分だ。

 

「とにかく、帆篠さんを悲しませる事だけはやめてね」


「……それは姫琴の願いか?」


 不思議な質問だった。

 その言葉の何処に引っかかったのだろう。言葉遣いが? その妙に真剣な面持ちが?

 答えが出ない理由は彼が規格にない為だと無理やり納得することにした。

 僅かに感じた違和感に少しだけで間を置いて返す。


「友達としてのお願い」


 葦木くんはわかった、と笑顔で答えた。

 今日と言う一日は最高で最悪で、でもやっぱり幸せで、そして悪魔の友達? が出来た記念すべき日になったのであった。

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