いつもより、贅沢

泳ぐ人

お疲れさま

 アキオは今日で定年を迎えた。会社の社員からは花束と、自分を送り出す言葉をもらえた。自分はいい会社に勤めていたと思う。

 ローンも払い終えて随分たつ我が家の玄関の戸を開ける。そこでは、妻のミカが恭しく迎えてくれた。

「お勤めご苦労さまでした」

「やめてくれよそんなあらたまった態度で」

 気恥ずかしくなってたまらず声をかける。

「あらそう? にしてもおっきな花束ねぇ。そうだ、なにかして欲しいことない? 本日の主役さん」

 いつもの調子に戻った彼女は笑いながらまくし立てる。

「それならサラッと食べられるものを作ってくれないかい?」

「はあい。ちょっと待っててね」

 ああちょっと疲れたな。

 体にドッと負担がかかる。どうやらミカの顔を見て疲れが一気に来たらしい。

 アキオはゆっくりと歩いて、台所の手前のリビングまで進む。

 ネクタイを緩めて、テレビをつけてテーブルにつく。今日はあいにく好きな番組はやっていなかった。

 台所でミカが食べ物を支度する音がする。

 ザクザクザク。トントントン。

 それらの音がテレビの中の笑い声と反響して自分にとってなんとも言い難いゆったりとした時間を作り出していた。

「おまたせー」

 ミカが台所からリビングに戻ってきた。薬味を載せた小皿と、冷や飯、出汁をお盆に載せている。

「おっこれは何かな?」

「昨日のお昼にテレビでやってたお茶漬けよ。普段のとは断然違うわよ?」

 もう一度台所に戻った彼女は一枚の大皿を持ってくる。よくタレに漬かったカツオのたたきだ。

「もしかして出汁茶漬けか? 贅沢だなぁ」

「あら、いやだった?」

「いや、食べ易くて良い」

 たたきを冷ご飯の上にのせる。小皿から刻んだ大葉や万能ねぎを少しずつふりかける。その上から上品な香りの白だしをかけて、カツオのつけダレを少々。白ゴマをまぶして、ご馳走の完成だ。

「ああ……うまい」

 四十年近く働いてきた職場での気疲れが、吐き出すため息に溶けていく。

 その様子を自分の分の茶漬けを用意しながら向かいの席でミカが眺めていた。

「同席、いいかしら」

「ああもちろん」

 そうしていると、ふと思い出すものがあった。

「そうだいいお酒を貰ったんだ。一緒に開けようじゃないか」

「あらうれしい。コップ持ってくるわね」

 なんのことはないちょっとした贅沢。そんな日常の延長が、ふたりを幸せな空気で包み込んでいた。

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いつもより、贅沢 泳ぐ人 @swimmerhikari

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