奥州二代目彦六一家

七味春五郎

第1話 奥州二代目彦六一家

おーい、彦六


奥州遊侠藩の御城下、高田小牧通りに彦六一家の屋敷はあった。

一家の長、彦六が死んだのは、今年の一月の初めのことである。

『葬式不要、戒名不要』

 一代の粋人、黒田彦六の残した、唯一の遺言がこれだった。

 さて、彦六には十九になる息子がいた。

 黒田親子でこの世に唯一居残った、黒田半兵太である。

 当然、二代目は半兵太と決まったが、ここで意外なところからしぶる者が現われた。

 彦六の母、きねである。半兵太にとっては祖母にあたる。

 七十才をすぎてなお矍鑠とした老婆で、背筋をぴぃーんと張ってはどこへでも出かけていく。しかもこのきねは、昔は高田小町と呼ばれるほど美しかった。そのおかげで、今でも害意のなさそうなかわいいばっちゃまに見えてしまうのである。

 ところが、外見をとって判断をしては大まちがいであった。

 もう大年寄りもいいとこなのに、真性のいたずら者で、人をからかっては喜んでいる。怒られればすねるし、そうなったら隠居所にひきこもって、三日は出て来ない。

 どうしようもないひねくれ者だが、七十才を越えた今でも粋人だった。

 歯も丈夫。固い煎餅をばりばりと食う。

 きねの外見は、誰が見ても六十程度にしか見えない。下手をすると、五十ですかという目の腐った奴もいる。

 きねはその度に、そんなに若くあるもんかい、と怒るが、本心は嬉しいらしかった。次の日のおめかしがまた凄まじい。

 当時の七十才と云えば、生きも生きたり、娑婆ふさぎもいいところである。

 しかし、そんなきねでも一人息子の彦六が死んだのは堪えたようだ。その寂しさ故の気晴らしに、半兵太以下彦六一家の面々は付き合わされる羽目になった。

 奥の座敷に、例のきねばあを中心に、一家の主たるものが集まっている。

「若造になにができるもんかっ」ときねは云うのである。「彦六が体はって守り通した一家ののれんを、半兵太ごとき若輩者に、わたすわけにゃあ相いかぬ」

 そう宣わった上に、見得まで切ってみせた。

 きね、まだまだ人生は上々のようである。

「しかし、ばっつぁま。ボンは立派なもんですぜ」

 と具申したのは、一家の長老格伴兵衛じいである。彦六のよき理解者であり、親友でもあった。はやくして父をなくした彦六は、伴兵衛じいを親代わりにと孝行したものだった。

 伴兵衛もそんな彦六が息子のように見えてしょうがないらしい。半兵太にいたっては、もはや孫のようなものだ。

 だからではなく、伴兵衛じいは本気で立派なもんだと思っていた。

 喧嘩は弱いが、義理人情は人一倍。不条理があれば相手かまわずむしゃぶりついていく。

 ただ、彦六の場合はかならず相手を二間は吹っ飛ばしたが、この人の場合そうはいかない。逆にしたたかやられるのである。

 それでもへこたれない根性と度胸のよさは、伴兵衛も大物だと思うのだ。

 なにより、彦六と気質がうり二つだった。怒りっぽくて涙もろくて、後くされがないのがよかった。

 怒るときは焼いた栗みたいに怒って、笑うときはそれこそ心の底から笑っている。細々したことは、なんだろうとすぐに忘れてくさくさしない。

 半兵太は彦六の喧嘩の強さ以外の全てを受け継いだようだ。二代目にすんなり押されたのも、当然といえば当然の成行だった。

 しかし、きねは納得しない。

 彦六一家は、博打以外にもさまざまな店を出しており、町人からも頼られている。そんじょそこらの無頼の徒とは、一味も二味も違うのである。

 その一家をつぐには、並みの男では駄目だ。これが、きねばあの主張なのであった。

 歯切れの云い声でぽんぽんまくしたてられては、打ち破る論法がない。

 大の男がそろいもそろって、七十を越えたばあさまにやりこめられるという、なんとも情けない事態におちいったのであった。

「なにが立派だ。ふらふら遊び歩いているだけじゃないか」

 きねは不敵に笑ってやり返す。

 喧嘩友達の伴兵衛じいは、いつものように、「うう」と、犬のように唸って返事した。 

「篠山さん。お前はどうだね?」

 きねが声をかけたのは、彦六の代から一家にわらじを脱いでいる、素浪人の篠山休臥斎である。

 彼は大刀を膝ごとかかえ、梁に背をもたせかけ、一家の語らいを聞いていたことだった。

「半さんは二代目をつぐに十分な器量をお持ちなさると思うがね」

 休臥斎は答えたが、きねは鼻で息を吹いただけだった。

「おやおや、一同そろって節穴だねぇ。そんな目玉じゃ、死んだ彦六が草葉の影で泣いてるよ」とまで云う。「いいかい。彦六は城下一の一家なんだ。そのくせ店のもんは若い衆が多い。それをとりしきるには、みなが納得しちまうようなことをして見せなきゃいけない。それが一家の衆に対しての、ひいては死んじまった彦六に対してのけじめってもんだ。違うかい?」

 違わないが、きねが云うと、どうも信に置けないのである。

 短気の雷蔵が、なにをばばあと立ち上がりかけたが、そこは若衆頭の文悟が、

「それじゃあ、若が二代目を継ぐにふさわしいとおわかりになすったらいいんですね?」

 と、目を光らせたことだった。

 もともときねの口にかかっては、文悟たちに勝てる道理はない。きねが意地になっているのは明白だったが、この案を切り出すしかなかった。粋を気取るこの老婆が、前言を撤回しないのは、これまでで証明ずみである。



「まっ、気を落すなよ、半ちゃん」

 といったのは、半兵太にとっては兄のような存在にあたる、灸蔵である。

 彼は彦六がとりしきる店の一つで働く、一家の若いもんであった。今も、店の戸口で石をとんとんやっている。

 年も四つしかちがわないから昔から何かとかわいがってもらっている。灸蔵だけはいつ何時も、半兵太の味方であった。

 つい先刻、座敷であった大詮議のことは、伴兵衛の方から半兵太にも伝えられてある。

 そういうわけだから、なんとかしてくれ、とのことであった。

「ああ」

 半兵太は二代目なんて気が進まなかったから、気のない返事をしている。

 文悟たちの心配は、まさにこの一点にあった。当の半兵太に、二代目におさまるつもりが全くないのが問題なのである。

 きねの真の目的もこれにあった。一件を利用して、半兵太のやる気を呼び起こす腹積りなのである。

 きねは手は出ないが、口は講釈師より出る。数年前から彦六一家にとりついた貧乏神(といっても、これはどこの一家でも同じだったが)も、きねにかかれば半刻で荷物をまとめてしまいそうな気がするのである。

 半兵太は完全にやりこめられていたが、これは仕方のないことだった。一家の若いもんはおろか、古いもんでさえこのきねは苦手だったからだ。

(親父……)

 家長の彦六がどのように思っていたかは判然としない。あれで親思いであったから、わがままは聞いてやっていたようだ。

 座敷の奥で、子分から隠れるようにして、肩を叩いてやっている父の姿を、半兵太は何度か見かけたことがある。軽い嫉妬を覚えたものだ。

 半兵太にはできない。理由があった。

 彼の母は、五年も前に死んでいた。

「こまったばあさまだなぁ」

 ちっとも困っていない口調で灸蔵はひとりごちた。

 不思議なことに、家中の者できねを嫌う者はいない。憎まれっ子、世にはばかるの典型だろうか。とにかくどんないたずらをしても、人に恨まれるという事がなかった。

 そんなきねが、みなうらやましいらしい。年をくっても、きねのように生きたい、と思うのである。

 灸蔵は、黙っている半兵太を横目で見ながら、ふと疑問に思った。

 喧嘩ばかりしているが、半兵太はきねにとっても可愛い孫だ。憎いはずはないのに、なんでこんなことを云い出したんだろう。

 そのことを口にすると、半兵太はこう答えてきた。

「ばっちゃんのは半分冗談、半分本気なんだろうよ」

 さすが孫だけあって、灸蔵よりは見抜いている。

 灸蔵は、そうかもしれねぇなぁと、またとんとんやりはじめた。

 半兵太は正面にある石に見入った。灸蔵が少しづつ削って形を造ったものだ。

 半兵太の母はいない。目の上のこぶだった親父が死んだ。辛くないはずがなかった。

 灸蔵は石をこんこんやりながら、ぽつりと云った。

「元気だしなよ。二代目」

 灸蔵のやさしさが、胸に沁みた。半兵太は何も云わずに黙りこくった。



(こうなりゃ意地の張り合いだぁ)

 館球磨川の脇の道を、子分の仁助を引き連れねり歩きながら、半兵太は心に誓った。

 今回の一件はきねの意地ではじまった。息子の消えたさびしさをまぎらわすための意地だった。それなら半兵太にも意地がある。その意地が、「二代目ぐらいなんだ」と、半兵太の胸中でわめくのである。

(彦六一家二代目。しかと受け継いでやろうじゃねぇかっ)

 そう思った瞬間、腹が据わった。この時点できねの目論みは成功したに相違なかった。

 半兵太は勢い込んだが、しかし手段がなかった。二代目をつとめあげるだけの器量を見せろと云われても、どうすればいいのかとんと見当がつかない。

 きねとの喧嘩はいつもの事だが、今回のはちょっと分が悪いな、と半兵太は思っていた。

「やっかいなことになりやんしたねぇ」

 仁助が、脇で我が事のようにぼやいている。この男にもいい案がないのは明白だった。 

「ふん、娑婆ふさぎのばばあにしてやられてたまるかよ。二代目くらい、しかとなってやらぁな」

 半兵太がうそぶいた。

「ううっ。その言葉、親父さんが聞いたら喜びますぜ」

 と、仁助が手で鼻をずずっと吸い上げている。仁助は大事な子分だが、涙もろいのには困ったものだった。

「半、ていへんだっ」

 背中から彼を呼ぶ声がした。二人がふり向くと、幼なじみの修馬が走ってきた。

 父親の後を継いで岡っ引になったが、今でも変らずいい男である。昔は一緒に悪をやったが、この頃ようやく十手が板についてきた。

「どうしたい、修馬?」

 半兵太は修馬の慌てぶりをいぶかって小首を傾げた。

 修馬はぜいぜいと息を整えると、諸手をふって話はじめた。

「てぇへんなんだっ。さっき、ちらっと小耳にはさんだんだが……西田屋は知ってるか?」

「西田屋? ああもちろんだ」

 奥州一と云われる呉服屋のことである。

「そこの主人が、彦六一家の千町の店をしめろと云っているんだよ」

「千町の店をっ?」

 半兵太は一瞬呆気にとられた。修馬の云っているのは、千町にある呉服店のことである。

 半兵太は妙だと思った。千町の店は、老舗の西田屋も了承の上で開いているのである。彦六がとりつけた約束事だった。

「なんでいまさらそんなことを?」

「わからねぇ。とにかくそう云ってるんだ」

 修馬が一気にまくしたてた。

「先代が死んだのが原因じゃないんですかい」

 仁助が半兵太にささやいた。

 彦六が死ねばいろいろと問題が起こるのは当然である。なにしろ彦六一家は若い衆が多い。裏にまわった時の老獪さがなかった。

 まわりの一家が、彦六が死んだ今を付け目と狙ってくるのは、わかりきったことである。しかし、西田屋が文句をつけてくるとは妙な話だ。千町の店のもうけなんて、云っちゃあなんだが微々たるものである。まさか、堅気の西田屋がシマ取りをやるわけではあるまい。

「どうする、半?」

 修馬が聞いた。半兵太は千町の方向に向き直った。

「周五郎の店に行ってみるか」

 周五郎は、千町の店の主人である。

 西田屋に比べれば微々たる儲けでも、周五郎にとっては生活のかかった大事な収入だ。閉じさせるわけにはいかなかった。

「西田屋もなんだってこんな時に……」

 修馬はしかめっ面で首をひねっている。

「そいつは周五郎に話を聞けばわかるさ。行くぞ、仁助」

「へいっ」

 半兵太は仁助を引き連れ、千町に出向いていった。



 年明けの城下町を、からっ風が吹き抜けていく。生憎の曇天に、人々の顔まで晴れない。

 千町の店は小さい。彦六一家にとっては唯一の呉服屋だった。半兵太たちが着ているのも、ここから買い取ってやったものである。

 店の主人、燻し銀の周五郎は、弱り切っていた。

「昨日になって突然云ってきたんでさぁ。あっしは不意をくらったんで、泡をくっちまって。なんせあっちは大富豪でやんすからねぇ」

 周五郎はそう云って、顎の不精髭をごしごしやった。

「そんなこと関係あるかっ、了解をとってやってる事にいちゃもんをつけるたぁなんだ!」

 半兵太が店の土間に座り込んで喚いている。

「やっぱあれですかね。親分が死んで、彦六一家にたいする義理も情もなくなったんですかね」

 周五郎がさびしそうに云った。この男も彦六に惚れ込んだ一人だった。

 半兵太は何も云わない。仁助が云った。

「西田屋のは本気でしょうかね。周五郎兄貴、どうしやす?」

「どうしますもくそもあるか、この店をしめるわけにゃいかねぇよ。彦六の親分が、体を張って開いてくれた店だ。そいつを親分が死んだからって、つぶしちまっちゃ、俺の男がすたっちまう」

 まさに血もにじまんばかりの声だった。

 彦六一家では、周五郎のような古株は自分の店を持っている。いずれも、死んだ彦六が町の長老たちにかけあって開いたものだった。今となっては形見の品も同然である。

「周五郎兄貴っ」

 と声がして、男たちがぞろぞろと入ってきた。文悟たちである。

「若、いらしてたんで?」

 雷蔵が半兵太に気づいた。

 半兵太は、「ああ」と素っ気がない。

「話は聞いたか」

 周五郎がちろりと文悟を見上げた。

「聞きやした。問題が起こるとは思っていやしたがね。まさか西田屋とは……」

 後は苦渋ににじんで声にならない。

 周五郎も苦そうに奥歯をかんでいる。

「若、少し席をはずしやしょう」

 文悟が半兵太の袖をひっぱり、外に連れ出した。仁助が付いて来ようとしたが、それは眼光でやめさせた。



 文悟と半兵太は店の脇にある路地に入った。

 半兵太は丸木に腰をおろし、文悟は立ったまま、腕を袂に入れて話はじめた。

「これから、西田屋みてぇなのや、もっと質の悪いのがたくさん出てきますよ。あっしゃ御隠居のおっしゃったことは、あながち間違いとは思いません。そういう連中に、彦六一家の二代目は、大した奴なんだと認めさせる。これは必要なことなんですよ」

 文悟がいつものくだけた口調で云った。

「むずかしいな……」と、半兵太が呟いた。

「そうです。難しいし、全員に認められるには時間がかかる」文悟は半兵太に向き直って、「まぁ、気長にやりやしょうや」

 気楽に笑った。半兵太は黙したままだった。この男にはめずらしいことである。文悟はおやっとなった。

「西田屋に行ってみるか」

 半兵太は出し抜けに云って、腰を上げた。

 文悟が声をかけた時には、もう歩き始めていた。



 西田屋は草町にある。これが豪邸と云うものかと、半兵太はしみじみ思った。ようようの繁盛で、今では藩に金まで出している。西田屋にとっては、まさに我が世の春といえた。

 その西田屋が、ちんけな周五郎の店をつぶしにかかっている。半兵太にとって、これは我慢のなるものではなかった。

 西田屋に来た半兵太は、広めの座敷楼に通された。一人で来るつもりだったが、文悟はおろか雷蔵たちまで付いてきた。結局、広い座敷が手狭になった。

 背に彦六と縫い付けられたはんてんが、ズラリとならぶさまは壮観である。

 半兵太は一同の前で、座布団に座って待っている。西田屋主人、四郎衛門が入ってきた。半兵太はすっと見上げた。

 背が高く、横幅もたっぷりある。城下一の主人たる貫禄があった。無論、半兵太は初対面である。

「なにかようかね、彦六のぉ」

 低い声で、半兵太をちらり見やった。ずんと、へその緒まで威圧するような声だった。

「千町の店の一件できた」

 半兵太も負けてはいない。見事に腰を据えている。雷蔵たちは、見ていて体の芯が熱くなった。

「なんだね」

 またジロリ。

「周五郎の店をしめろとはどういうこった?」

「どうもこうもない。こっちはしめろといっている」

「それじゃあ納得できないね。あんたは千町に店を出すのを認めたじゃないか。長老たちが判を押した証文もある」

「気が変わった。しめろ」

 とたん、雷蔵が立ち上がろうとした。躍りかかるつもりだった。文悟が肩を押さえて止めた。四郎衛門はちろりと見ただけだった。

「それでは聞けないね。あの店に養われている者もいるんだ。しめさせるには理由があるだろう、それを云えっ」

 半兵太のは噛み付かんばかりの勢いだった。仁助などは見ていてひやりとなった。

 四郎衛門は、これで切れるような鋭さを持っている。人一人殺して、もみ消すだけの力を持っているのである。

 仁助たちは、正直四郎衛門に萎縮していた。さすが西田屋惣名主だった。その四郎衛門に、面と向って立ち向かえる半兵太を、改めてすごいと思った。

「証文をかわしたのは彦六とだ」

「違うっ。彦六一家とだ」

「その一家はもつのかね?」

 四郎衛門の目がキロリと光った。

 半兵太は、一瞬四郎衛門の云っていることがわからなかった。だが、直ぐに気がついた。

 四郎衛門は、彦六一家が、主人の死とともにつぶれるのではないかと云っている。

「彦六一家はつぶれたりしない」

 半兵太は声に怒りを乗せて四郎衛門にぶつけた。しかし、当の四郎衛門はにやりと笑っただけだった。

「どうかな。二代目もまだ決めかねているんじゃないのかね。彦六一家のシマは広い。狙う奴は大勢いるのさ。ぐずぐずしてると他の一家に荒らされて、お前さん方終っちまうよ」

 慧眼と云えた。西田屋四郎衛門は彦六一家の置かれた立場を、正確によんでいる。

 文悟は四郎衛門の腹がようやく読めた。この男は、彦六一家を心配しているのだ。親友だった黒田彦六の残した一家を、どうにかして救いたいと思っている。それが行動として現われたのが、今回の千町騒動だった。この男も粋人だと、文悟の心は踊った。

「黒田彦六は大した奴だったよ。だが、後を継ぐ者はいるかね」

「いるっ」

「どこに?」

「目の前だっ」

 ほとんど叫ぶような語気だった。文悟は正直ぎょっとなった。半兵太が二代目につくことを渋っていたのを知っていたからだ。

 やる気のない男が、二代目におさまってもろくな事になりはしない。今にして思えば、きねが云いたかったのはそこだったに違いない。あれもいっぱしの粋人だから、本心を見抜かれるのを恥じていたに相違なかった。

 とにかく、この瞬間、半兵太は二代目の資格を手に入れたのである。

 四郎衛門は半兵太の目を、じっとのぞきこんだ。めったにない、いい目だった。

(彦六と同じ目をしていやがる)

「そうか、お前が彦六の一粒種か」

 感にたえたように笑った。

「いいだろう。おめぇが二代目やってみろ」

 それが西田屋四郎衛門の御免状だった。



 きねは土手に敷かれた道に立って、下の河原を見下ろしていた。半兵太たちが、打間芝居にいちゃもんをつけてきた坂本一家と喧嘩を演じている。

 こちらの勢力は、雷蔵を筆頭に中々のものだ。石屋の灸蔵も頑張っている。きねは彦六の生きていた頃を思い出してほろりとなった。あの名親分は、老人になってなお喧嘩ときくと飛んでいった。率先して拳を振るった。 

 その役を、今は半兵太が受け継いでいる。

「おばば様」

 よしずの陰から男が出てきた。篠山休臥斎である。この男も彦六が死んだことを、心底残念がっている口だった。

 河原の喧嘩をじいっと見つめる。倒れこむ半兵太が見えた。あの若者は休臥斎から見ても、立派なものだった。

「そろそろ、いかがです?」

 休臥斎がきねを見た。もういいかげんにしてやれという意味が、多分に含まれている。

 きねはしばし逡巡した。半兵太にしかと二代目つとまるだろうか? しかし、西田屋との一件は文悟から聞いている。

「よしっ」

 と、きねが太ももをはたいた。合格、という意味だった。

 休臥斎が、花が咲いたように笑った。



「先代は強かったのに、二代目は弱いなぁ」

「しっかりしてくだせぇよ、二代目」

 河原では昏倒した半兵太が、子分どもに両腕をとられてひっぱられている。

 坂本一家の方はさんざんにやられてぶっ倒れている。まだ元気の残っているのに、雷蔵がしつこく拳をくれていた。

 半兵太の弱さはもはやどうしようもなく、喧嘩が始まってすぐにやられてしまった。

 彦六一家の面々が、気絶している半兵太を囲んで笑い合っている。きねの許しを聞いたわけでもないだろうに、勝手に二代目と呼んでいた。半兵太を認めた証拠だった。

 度胸も切符もいいくせに、この致命的な欠陥のある二代目がおかしかった。

 黒田半兵太。二代目彦六、襲名。



お目通り


「やい、起きろ彦六!」

 安らかな眠りの中、頭までひっかぶっていた蒲団をはぎとられ、念入りに氷までいれた水をぶっかけられて、黒田彦六は跳ね起きた。

「なにをしやがる、くそばばあ!」

 櫂桶をもって突っ立ているくそばばあに喚きながら、彦六は犬のように体を震わせた。

「よくもまあ、いつまでもぐうたら寝れるもんだよ。一家の主人がそれでいいと思っているのか」

「その手に持っている桶はなんだ」と、彦六は殺気すらきらめかせたことだった。

 桶を持ったきねは、「ああ、忙しい」白々しくおてんと様にしゃべりかけながら、ととっと縁を逃げていった。

「ちくしょお、くそばばめ。ふんどしまでぐしょぐしょだぁ」

 彦六は着物の裾をしぼりながら、悪態をついて、一つくしゃみをした。


 彦六は念入りに体を拭くと、麻の着流しにきがえ、「彦六」と縫い打ちされた紺のはんてんを羽織った。

 びしょぬれのふとんの始末は子分にまかせ、飯を喰らいにひやりとする部屋を出ていった。

 ここからが大変だった。

 先に座布団についていたきねが、じっくりと茶わんにご飯をよそっている。さきほどがさきほどだけに、なんとも不気味だった。

「ほれ」と、彦六に茶わんを手渡しながら、自分も箸を取って、飯を喰う。

 じろりと彦六を見上げ、さっさと食えというように顎をしゃくって見せた。

 彦六はしょうしょう調子を外しながら、漆塗りの箸をとって、飯を口に運んだ。

 次の瞬間にはウッと呻いて、いま入れたばかりの飯を吐いた。

「な、なんだこりゃあ」

「塩入りだよ」

 きねは平然といってのけたものだ。

 彦六は臓腑までちぢみ上がるようなしょっぱさに堪えながら、「飯に塩を交ぜるとはどういう料簡だ」とわめいた。

 彦六一家の朝は、この二人の舌戦からはじまる。メシを食う時も、朝起きて顔をあわす時も、かならずと云っていいほど喧嘩をする。

 この日も、朝からいつも通りの切り口上を聞きながら、彦六一家の面々は、やれやれと息をついていた。


 まだ舌の根に居残る塩辛さに、辟易している彦六に、若衆頭の文悟が近寄ってきた。

「二代目、ちょいとお話が」

 と、いつもの気軽さで声をかけた。

 彦六には元は半兵太という名前があったが、今は父親の名をついで彦六と呼ばれている。文悟たちの呼び様も、いつのまにか若から二代目に変わっていた。

 だからといって、別に他のなにが変わるわけでもなし、彦六の生活は以前となんら変わりがない。

 ところが、今日に限ってなにか変った事があったものかと、文悟の微妙な語調の変化から、彦六はすばやくその事を感じとっていた。

 そろって庭先へ出て、石灯篭などをながめながら互いに切り出す機会を待っていた。

 いつもならなんでも気さくに語る文悟が、今日に限って言葉を選んでいるようだったから、これはよほどのことだと彦六は思った。

 文悟は花をつけない桜を愛でながら、とうとつに口を切った。

「これから四日後に、長老衆にお目通りをいたしやす」

 文悟のは明日の天気でも占うような気やすさだったが、彦六はさすがにドキリとした。

 いよいよか、とも思う。彦六は正式に一家の暖簾を受け取ったのだから、長老衆に会わないわけにはいかないのである。会って報告を行なわなければ、町の者は誰も彦六を二代目と認めないだろう。

 文悟たちは、ここ数日その会合をもつために走り回っていた。その甲斐あってか、今日になって長老衆から連絡が入った。

 二代目に会うということは、長老方が、彦六を半ばまで認めているということである。

「そうか……」

 彦六は呟いた。珍しく、わずかに緊張した面持ちであった。

「粗相のねぇようにおねげぇしやす」

 文悟がひょいと頭を下げた。

 長老方に何がしの力があるというわけではなかったが、それでも厳然と威信だけは保っている。権力とも、見えない力とも云える。

 とにかく文悟はこのお目通りだけは無事にすませたかった。一家の者も、それは重々願っているはずである。

「こっからが、正念場……だな」

 独り言のように呟いて、彦六はちらりと文悟を見た。文悟はなにも云わずに黙ってこちらを見返している。さすがに、彦六は事態を正確に飲み込んでいた。

 文悟は満足そうに微笑んで、秋晴れの空を見上げた。


 街道を外れた林を進むと、いろは滝がある。

 支流らしきものが一本走っていて、そのまわりを三本の細い筋が、糸を引くように落ちている。

 この水がいい。ひどく澄んでいる。万病も、いろはの水を含めば治ると云われた。

 彦六は仁助を連れていろは滝に来ていた。寒いだけあって見物人もさほどなく、掛茶屋にも人気がなかった。

 彦六と仁助は、途中偶然会った修馬と、掛茶屋で饅頭をよばれていた。

 修馬は今は親父の後を継いで、岡っ引になっている。彦六との付き合いは相変わらずで、十手稼業も順調のようであった。

「よかったなぁ、半ちゃん」

 饅頭を片手に修馬が白い歯をのぞかせている。よかったとは、お目通りのことである。

「今は彦六ですよ」仁助が念を押すと、

「ああ、そうだったな」と、笑った。「おれは十手で、おめぇはのれんか。お互い妙なもん背負っちまったなぁ」

 愉快そうに茶を干した。

 彦六は物も云わずに口をもごもごさせていたが、

「長老方ってのは何人ぐれぇだ」

「俺が知るわけないだろう。お前のほうが詳しくなくちゃいけねぇよ」

 彦六は、もっともだとうなずいた。

「兄貴、そろそろ戻りやしょう」

 手にした饅頭を素早く食った仁助が、ひょいと床几を立ち上がった。

「俺はもう少しいるよ」

 修馬がいろは滝を見ながらのんびり云ったので、彦六は余分の金を払って饅頭を追加してやった。

 小女が来て、修馬の湯呑みに茶を注いだ。

 熱い茶を音を立てて飲みながら、修馬は梢の合間に覗く碧空に、幸せそうな目を向けた。

 太陽は中天にさしかかったが、相変わらず冷気は晴れない。地面がわずかに湿っていた。

「まだまだ冬だな」


 旅篭で、路を行く彦六を、引き戸から見下ろす男がいる。

「あれが彦六一家の二代目でさぁ」

 と、かたわらに声をかけた。彼の他に、九人の男たちが、集って下を眺めおろしている。

「まだガキだな」

「十九でさ」

 さきほどの男が即座に答える。

 訊いたのは、頬に傷のある三十年配の男だった。口に長楊子をくわえて、ぼりぼりと懐をかいた。麻の着流しがよく似合っている。男たちの頭のようだった。

「彦六一家も終りだな」

 頭風の男はなんの感慨もこめずに云った。

 見下ろす目が、異様に冷たく、ゾクリとするものがある。

「いかがいたしやす?」

 別の男が、頭の顔を覗くようにして訊いた。

「彦六一家に、本当の憂き目を教えてやりな」

 そう答える間中、頭の表情は変わらなかった。


 街道から脇道に入って、林に囲われた漢永寺に出た。

 人影がなく、森閑としている。木漏れ日が日溜まりをつくっていた。本町にぬけるには、ここを通った方が近い。

 本堂の中ほどにさしかかった頃、木影から四人の男が走り出てきた。

「なんだ、おめぇらは」

 彦六と仁助はぎょっとなった。男たちは全員刃物を抜いている。

 旅篭で彦六を見下ろしていた、あの男たちである。

 ほお傷の男は交ざっていないが、彦六の窮地には変わりがなかった。

「あ、兄貴」仁助はすっかりうろえて、彦六の着物の裾をつかんだ。

 彦六一家は城下でも一、二を争う勢力を持っている。先代が死んだ今、これを蹴落とそうとする者がでるのは当然だった。

 男たちは無言である。

 彦六は草鞋を脱いで身構えた。

「やるぜ、仁助」

 一声かけると、仁助もさすが一家の若いもんである。これも腹を据えて草鞋をのたくそと脱ぎにかかった。

「おめぇさんがた本当におやりなさるか?」

 彦六は器用に片目をつぶって、低く宣告した。…………一同は何も云わない。答えの代わりに匕首と刀を光らせた。彦六はちっと舌打ちをもらした。

 隣で草鞋を脱ぎ終えた仁助が、ごくりと喉を鳴らしている。

 彦六は、匕首を使わせれば右に出るものがないぐらい腕が立ったが、このことは文悟ぐらいしか知らない。ただの喧嘩には絶対につかわないからだ。

 匕首を教えてくれた伴兵衛じいもそのことを厳命していたし、彦六にもそんなつもりはさらさらなかった。喧嘩に刃物を持ちこんじゃあ、咲きかけた花もしぼんでしまう。

 彦六は、武士の喧嘩は一番割りに合わなくて、花もないと思っていた。意地かなんだか知らないが、喧嘩には喧嘩の法度がある。それを守ってやるから、喧嘩はたのしいのだ。侍のは、意地の張り合いが即座に命のとりあいにかわる。彦六が世間のいうやくざ者でも、喧嘩で死ぬような馬鹿はしなかった。

 だが、今回はただの喧嘩ではすみそうになかった。これは真の殺し合いだった。男たちの腹部を圧迫するような殺気がそれを告げている。しかも、彦六の懐に、匕首はなかった。

 男達はぞろりぞろりと間を縮めてくる。刀を持ったのは一人。残りの三人は匕首である。

 使うのはあの男だな、と彦六は見ていた。まず動きがちがう。後の三人は、自分と同業のようだった。

 八双に構えをとる浪人風の男を見て、彦六はふいに休臥斎のことを思い出した。

 浪人が、一歩男たちより前に出た。刀を上段に、すうと吸い上げた時には、さすがにどきりとした。

「きえぇぇ!」

 男が烈帛の気合を放った。彦六はとっさに仁助を突き転ばした。

(かわせるか)

 胸にふと疑念が生じた。男は上段に刀をかまえ、斬り掛かってくる。

 二尺五寸の大刀が、眼上にそびえたったように見えた。

「兄貴」

 転がったままの仁助が、泣きそうな声で叫でいる。

 男がずんと彦六に迫り、殺気をこめた眼光が脳髄を射抜くようであった。

(斬られるっ)

 彦六は半ば観念しかかった。

 その時、横合から一人の侍が走り出てきた。二人の間合に割り込んで、今や斬り殺さんとした浪人の殺人刀を、手にした刀ではっしと受けた。

 彦六は凝然となった。篠山休臥斎である。

「素手で刃物につっかかるとは、無茶をしなさる」

 休臥斎がくだけて笑った。そのまま男の刀を押し戻した。

 彦六の全身からすうっと力が抜けていった。

 先代が生きていた頃、貫蔵一家とあわや決戦という時に雇い入れた浪人なのだが、先代の人柄と彦六一家の家風が気に入り、そのまま居着いてしまった。

 彦六一家に流れつく以前、なにをしていたかはたれも知らない。だが、腕は立つ。

 浪人が後方に跳びすさった。やくざ者が狼狽えている間に、脇の下草ががさりとなった。

「そろそろあらわれると思っていたよ」

 と出てきたのは、若衆頭の文悟である。後に続いて灸蔵たちまで小走りに走ってきた。どうやら掛茶屋から、ずっと彦六の後をつけていたようである。

「お前さん方、どちらだね」

 文悟が余裕のある態度で凄味を聞かせながらそう問いかけた。手癖の悪い雷蔵が、彦六を狙われて早くもふーふー云っている。

 休臥斎が、一同を守るようにしながら下がってきた。白刃は水平にかざしたまま、一分の隙もなかった。

 休臥斎は、男たち、特に浪人ていの男を見据えている。手強いと云えばあの男ぐらいのものだ。

 残りは休臥斎から見ればズブの素人だった。刃物を持ち、数で勝ればなにほどのものでもなかった。

「今日のところはお互い引かないかね? そっちの助っ人さんは一人きり。後はこちらと同じ無頼の徒だろう。勝敗は見えていると思うがね」

 文悟の言葉に、男たちは、明らかに心を動かされているようだった。互いの顔を見合った後、うめき声を残して逃れ去った。

 休臥斎が、ぱちりと刀を鞘におさめる。

「文悟の兄貴」

 仁助が咎めるようにわめいた。何もせずに黙って帰したのだから当然である。捕えて、誰に頼まれたか泥をはかせればよかったのだ。

 もとより、文悟にただで帰す気はなかった。

 若い衆に目を走らせ、二人を追っ手にやった。こうしておけば、いずれあの男たちは雇い主の元へ帰っていくはずである。

 仁助はほっと胸を撫で下ろし、あらためて文悟の慧眼に感服した。

 文悟は彦六の前に立ち、「すいやせん、若」と膝に手をつき腰を折った。

 彦六は苦みばしった顔で、「だしにつかいやがったな」と、云った。

 仁助はようやく思い至り、あっとわめいた。道理で朝からみなの様子がおかしいと思った。文悟たちは、彦六が襲われることを見抜いていたのだ。

 かといって、屋敷を出ないわけにはいかない。彦六もそうとわかって退くたまではなかった。そこで文悟は一計を案じ、敵をいぶりだすことにした……。

「そのようで」

 顔を上げた文悟がにたりと笑った。

 彦六が、「まあいいさ」と苦笑する。

「相手はどこの一家のもんでしょうね」

「古いとこじゃ、二ノ宮一家か。貫蔵一家じゃあるまいし」

 と灸蔵が首をかしげた。

 彦六は一同の言葉を聞きながら、男たちの立ち去った方に目を走らせた。

「浪人か……?」休臥斎に云う。

「そのようですね。大した腕じゃありません」

 こともなげに答える休臥斎。この男の腕は世人の知るところだ。

「それより、困ったことになりました」

 文悟が、下から見上げた目を底光りさせた。


 話を訊いたきねは、わずかながら顔色を変えた。正座した足をモゾモゾさせている。かなり気になっているようだった。

「それで奴はなんと云っている」

 探るように訊いた。

「さて、二人ほど後を追わせていやすがね。二代目のほうはなんとも……」

 文悟はおかしそうに首筋をぴしゃりとやった。

「白昼堂々頭を襲われるとは、彦六一家もなめられたもんだね」きねは変に感心したように独白した。「こうなるとはわかっていたがねぇ……」

「何も云わなくても、二代目は腹を据えているようです」

 文悟の方は満足気だ。

「そうでなくちゃいけないよ。ここで一つびっとしなきゃ」

「今後もなめられる、というわけですね」

 文悟が急に真顔になった。

 隣に座っている大男の雷造が、「売られたケンカは買いやしょう」と、身を乗り出した。

 一家一のケンカっぱやさと、背中に彫った八幡大菩薩がご自慢で、酒とけんかが何より大事。そのくせ図体に似ずうぶで、女の前だとろくにしゃべれないときている。

 六尺を越す大身で、目方も悠に百貫はある。いわゆる大兵肥満である。

 気性はさっぱりしているが、短気と早とちりだけは困ったものだった。

「おめぇの意見を聞いてたら、まとまるもんもまとまらねぇよ」と、文悟が鼻を鳴らした。

「だがなぁ、文悟……」

 雷造はそこまで云って、後の言葉は溜息にかえた。

 若衆頭の文悟は、今年で二十五になる。若い者にも頼られている、兄貴肌の人間である。

 彦六はそれまでは文さんとか呼んでいたが、「二代目、二代目らしくして下せぇ。文悟でよござんす」

 文悟は生真面目だ。伴兵衛じいの、「呼び名なんてどうでもいいことだよ」

 の一言で、彦六はそのように呼ぶことになった。

 伴兵衛じいは、ときおりドキリとするような目で、真理をつくようなことを云う。


 彦六は自室で匕首の目釘をあらためていた。

 伴兵衛じいが戸をすいっと開けた。彦六は気づいたが、見向きもしない。無言で刃を木鞘にしまった。その音と戸の閉まる音が同時だった。

 伴兵衛が、彦六の背後にふわりと座った。

「してやられそうになったそうだね、ボン」

 伴兵衛だけはいつまでたってもボンだった。彦六もそれがありがたい。

「耳がさといなぁ、じいちゃんは」

 振り向いたときは、もう笑顔になっていた。匕首を懐にいれ、帯の辺りに差し込んだ。

 それを見て、

「無茶はしない方がいいな」

 伴兵衛はつい本音が出てしまった。しくじったと舌を打ったがもう遅かった。

 照れたように顔をしかめると、手を伸ばして障子を開けた。外は明るくもなく暗くもなかった。彦六は困ったように眉を曲げた。

「いやだな、そういうわけにもいかないのを知ってるくせに」

 伴兵衛は苦笑した。二代目になっても、この男はあいかわらずのようだった。

「まぁ、一応云ってみたのさ」伴兵衛は座布団の上に座り直した。「わしはな、先代に世話になった。黒田彦六に与えられたもんは数え上げたらきりがないんだ。寝床と居場所、仕事に仲間。息子代わりの彦六と、孫の代わりのお前だよ」

 そう云ってにこりとする伴兵衛が、彦六はたまらなく好きだった。

 伴兵衛はすべてを彦六に与えられたように云うが、そんなことはない。流れ者だった彦六と共に、伴兵衛は一家の暖簾を築き上げてきたのだ。だが、きっかけを与えたのも、独り身の虚しさから救ったのも、今は亡き彦六親分だった。

 その彦六がこの世からいなくなり、二度と会えなくなったことを、もっとも悲しんだのが、この伴兵衛じいだった。

「だからおい、心配ぐらいはさせてくれよ。お前になにかあったら、あの世で親分に会わせる顔がねぇ」

「親父ならなんとも思いやしないよ。俺がへまをやったら、あの世でドジめと悪態をつくぐらいのものさ」

「そうかもなぁ……」

 ひとしきり笑って、二人は庭先の松に目をやった。ちらちらと、雪でも舞いそうな午後だった。

「彦六一家の暖簾やニワバを守るのは大事なことかもしれねぇ。でもな、俺はそんなにたいそうなもんではないと思ってるよ。つぶれればそれで仕方のないことさ。元々事のはじめには、そいつぁ小さな一家だったんだ」ここで伴兵衛は言葉を切り、手をごしごしとやった。「大事なのは、ここにいる一家の衆とお前なんだよ。それを忘れないでくれ」

 彦六はうつむいて唇をかんだ。胸がつまってなにも云えなかった。

「お」と、伴兵衛が声を上げた。本当に雪が降りはじめた。

「俺が来た時も冬だったな」

 愉快そうに云って、障子をしめた。身に辛い風が吹き込んできたためだった。


 屋敷の土間に、一家の若いもんが顔をそろえている。彦六が襲われたと訊いて集まった者たちだった。文悟は板間に立って、上から子分どもをながめつらし、浪人とやくざ者を追った二人の帰りを待っていた。

 子分たちには、「人に云うな、それが一家の者でもだ。あまり事を大きくするな」と厳命してある。

 彼の後ろでは、篠山休臥斎が、大刀を抱え座り込んでいた。この男は大抵意見をはさまない。物も言わずに行動するのが常だった。

 集まった男たちの中でも、一際いらだっているのは雷造である。この男は、文悟を手伝って下の者をいさめたりしない。いつだって、自分が真っ先にことを起こすのだ。

 この日も、目付け二人の帰りを、待ちわびはがゆがり、苛立っていた。

 その隣で石屋の灸蔵が黙念としているのが対照的だった。

「文悟っ、あいつら、ひょっとして返り討ちにあったんじゃないのか」雷造がわめいた。

「まだ早い。少し待て」こちらは落ち着いたものである。

 雷造は、「うぬ」とうなって、また開け切った戸口をにらみはじめた。

 それから数刻の後に、二人は帰った。玄関で雷造が物凄い形相で立っているので、思わず腰を抜かしそうになった。

 文悟が、「どうだった?」と聞かなければ、本当に背骨を外していただろう。

「奴ら、坂本一家の屋敷に戻りやした」と、一人がようやく云った。

 文悟はうめいた。「そうか、相手は坂本か」

 彦六の生前は、散々もめた一家である。血の気の多いことでも有名な一家だった。つい最近も、ニワバのことでケンカを売られたばかりである。

「その意趣ばらしにしては、いきすぎでやすねぇ」

 灸蔵がやけにのんびりした声で云った。

「長老方とのお目通りのことをかぎつけたようだな」

 文悟がなんの感慨もこめずに云う。

「奴ら、やっぱりやくざ者か……」

 雷造があごに手を添え、またうなった。体に似て、頭の方はあまりうまくない。

「もう一人は、この町の者じゃありませんね」

 仁助がそう云って土間を見渡す。

「私と同じ、流れの浪人でしょう」

 壁にもたれかけたまま、休臥斎が答えた。すると、後をつけた男が口を開き、

「それと、旅篭で落ち合った男がいたんですがね、そいつがこう頬傷のある」

 と、頬を指で切ってみせた。

「頬傷の次助かっ?」

 文悟がはっとした声を上げた。頬傷の次助と云えば、その筋では知られた男である。

 坂本一家の幹部で、彦六一家ともあさからぬ因縁があった。なによりその陰険な性格が忌み嫌われている。

「これで下手人の目当てはついたな」

 古株の忠次郎が文悟を見やった。その目が見開かれたのを見とって、文悟はひょいと後ろを向いた。

 休臥斎が見上げると、彦六と伴兵衛じいが立っている。

「二代目」「二代目」

 子分たちが口々に云うのを聞きながら、彦六はじっく

り土間を眺めわたした。

「話は訊いたよ。坂本一家か」

「正確には次助の奴ですぜ」と、雷造が勢い込んだ。

「厄介なのに、目をつけられましたな」

 文悟がからかうように苦笑した。

 彦六が口を開いた。

「四日のうち……だな」

 これは目通りを意識してもれた言葉だった。一座の者は残らずうなずくしかなかった。

「相手がわかっただけでも、よしとしましょうや」

 忠次郎はにこりともしないが、確かに、わからないよりはよかった。

「どう思う?」

 彦六は文悟を見やった。

「どうもなにも、坂本の親分の指図かどうかは如何と

も」

 文悟はそう云って目をつぶった。

「次助の奴は気違いですぜ。早めに処断した方がいい」

「浪人を雇ったからには、奴ら本気だなぁ」

 子分たちのがなり声を聞きながら、彦六は顔をしかめていた。

「さて、どうしたものか……次助と奴ら、どうした?」

「それが、また旅篭に戻りやしたんで」

「どこのだ?」

「いくみ屋」

 短く答えた。

「乗り込もうぜ、二代目!」

 短気の雷造がかっと頭に血を上らせる。

「ばかっ、大事にできないといったろう」

「しかしよぉ……」

 文悟がたしなめるが、雷造はまだ諦めない。

「奴らの狙いはこの俺だ。お目通りまで一歩も外に出なけりゃすむことだ」

 彦六が険しい表情で答えた。

 文悟はふと胸騒ぎを覚えた。彦六の口調はどこか妙だった。いや、言葉のすべてが喉元にひっかかる。この男が、果たして狙われているとわかった四日間を、大人しく引込んでいるだろうか。いや、けしてそうはなるまい。

 文悟は甘く見ていた。危険をおかして次助たちを引きずりだしたはよかった。だが、あの男は彦六の命を狙っている。

 文悟はせいぜいやっても痛め付けるか、ニワバのいやがらせ程度がいいところだろうと思っていた。自身の読みの甘さに腹が立った。

(狂人め……)

 苦々しく思う。次助は彦六を殺すことで引き起こす事態を少しもわかっていない。

 当主を失った彦六一家は、坂本一家に復讐するに決まっている。それをわかっているのか、坂本の親分はこの事を知っているのか。

(いや……)

 文悟は知ってはいないと思った。坂本の親分は悪党だが、頭のきれる男だ。お目通りを控えた二代目を、殺したりはすまい。おどせ、ぐらいは云ったかもしれないが、だとしても次助のはやりすぎである。

「二代目……」

 灸蔵が呟くように云った。彦六にも聞えた。

「四日、四日がまんしろ」

 険しい表情のまま、彦六が答えた。

 彦六の落ち着きぶりが、文悟は気にかかる。

 二代目にこうまで云われては、集まった衆も、もはやどうにも出来なくなった。

 お目通りまでの四日間、彦六一家は当主の彦六を、誰に知られることもなく守り通さねばならなくなったのである。


 その夜

 彦六は自室の居間を出た。

 雪はすでにやんでいる。三日月が々と照っていた。

 寒さばかりが身を切るようだが、彦六は気にならない。片腕を懐に入れ、廊下を渡った。

 その後ろで、仁助が襖の隙間から顔を出した。彦六は気づかない。仁助にも気づかせる気は毛頭なかった。

 彦六は次助とのいざこざに、決着をつけるつもりだった。

 文悟の心配は当っていた。やはり大人しくしているつもりなどなかったのだ。彦六の思考を正確に読んでいたのが、この仁助だった。

(弱いくせに、無茶をするんだもんな)

 仁助はどこまでも彦六についていくつもりだった。相手は殺しが職のような奴らだが、かまわない。仁助にとっては、彦六がいなくなったこの世の方が、よほど辛いのである。

 かすかに雪の積もった路上をわらじを湿らせながら、いろは屋を目指す彦六と、後をつける仁助。

 それをよしずの陰から見つめる目があった。

 二人の姿が遠ざかり、休臥斎は物陰から路上に出た。

 彦六の殺気に感づき、よしずの陰で番をしていたのだが、

(どうにもならんか……)と思った。止めて止められる彦六ではない。

 休臥斎は正直いらだったが、この無鉄砲な行動こそ、彦六が一家の男たちをひきつける由縁ではないか。休臥斎も、そこが気に入っているだけに弱かった。

 無意識に、手が束を撫でていた。二尺三寸五分の刀がチィンと鳴った。

 休臥斎はふいにおかしくなってきた。予想どおり一人で次助のところへ出向いた彦六が、じつは愉快でしょうがなかった。笑いをおさめるのに苦労した。

 そのまま、休臥斎は物も云わずに二人の足跡を追った。彦六をねらった浪人と、決着をつける腹積りだった。


 いくみ屋で、彦六は下男をつかまえ、次助たちを呼びにやった。

 下男にはなんのことだかわからない。事を正確に次助たちに伝えた。

 話を聞いた次助は、にわかには信用できなかった。当然であろう。自分の命をねらう相手の袂に、飛び込むバカがどこにいようか。

 次助は、意想外の出来事に対処したときが一番怖い。どう出ていいかわからなかった。

 それに、今度の一件、次助は弥太郎にも黙ってやっている。彦六を殺し、ニワバを奪いとる。弥太郎には死んでもらう。その後釜に、自分が座るつもりだった。

 子分の一人が引き戸を開けた。下に彦六が立っていた。

 それを眺めおろしながら、知らず次助はうめいていた。

「罠……でしょうか?」

 次助もそうは思う。しかし、弥太郎から訊いた西田屋との一件を思い出した。

(あいつならやる……)

 呻きだしたい気分だった。同じだ。死んだはずの黒田彦六が、目の前に立っているようだった。

 次助はさすがに、先代とも面識がある。自分を三下のように扱った彦六が憎かった。彦六自身も自分を嫌っていたろう。

 彦六が死んだとき、次助は狂気した。あの厄介な男がいなくなったのだ。

 二代目となった彦六が、路上からこちらを見上げている。先代の面影をどこか残している風があった。

 次助はその目が気に入らなかった。厄介者がまた増えたと思った。彦六が戻って、自分を叱り付けているようで、うそ寒かった。

「矢坂を呼べ」

 そう、云った。次助が雇った浪人である。生憎とここにはいなかった。別のところに潜んでいる。

 男が出ていき、階下に足音が消えていく。闇と静寂が沈澱した。

 次助はゆっくりと引き戸を閉めた。


 次助が子分を連れて、旅篭を出てきた。確かに頬傷がある。へどの出そうな悪人づらだ。

 彦六は袂に手を入れたまま、黙っている。双方、無言である。

 次助がアゴをしゃくった。すると、子分たちが、彦六をかこんで歩きだした。

 彦六はちらりとも逆らわずについていく。

 その様子を、仁助は物陰からじっと覗いていた。

 これでは飛び出すわけにもいかなくなった。いまさら人を呼びに戻るわけにもいかない。結局、後を付けていくしか法がなかった。

 手下が一人、裏口から出ていった。休臥斎はその後を追った。


 彦六一家の屋敷では、騒動が起こっていた。彦六の言動に煮え切らないものを感じた忠次郎が、夜分も遅くなって彦六の居間を訪ねたのだが、蒲団はもぬけの殻で、肝心の彦六の姿がない。

 慌てて文悟を叩き起こした。

「まったく、単純なんだから」

 報せを受けた文悟は、この失態にはがみしながら、一家の者をあつめた。

 最初に気づくべきであったのだ。彦六がせせこましい計略など考えつく訳がない。文悟はそれでいいと思っていた。そういう謀略事は、自分たちに任せておけばいいと思っている。だが、先走りだけはして欲しくなかった。

 おまけに、仁助と休臥斎まで姿が見えない。

 急ぎいくみ屋に走ったが、すでに次助たちは出払った後だった。

 下男の証言で、確かに彦六がここにきたことが知れた。

 文悟はしかたなく、配下をわけ、方々に探索にやった。


 次助たちは、彦六を近くの林へとさそいだした。ここなら人目にもつかない。殺しには最適の場所だった。

「どういうつもりだ」

 歩きながら、次助は尋ねた。

「裏でこそこそやるのは性にあわねぇ。出向いてやったぜ、頬傷次助」

「もっと自分のことに気をつかった方がいいな。早死にの元だ」

「おめぇに云われちゃおしまいだ」

 すると、次助は喉の奥で低く笑った。

「この頬傷な、お前の親父につけられたんだよ」

 事実だった。それより、こんな時になんでそんな話を切り出したのか不思議だった。

「いい晩になりそうだ。血を見るにはな」

 夜闇がつくる陰影の中で、次助の顔が歪んでいる。

 次助たちが立ち止まった。彦六は数歩先に進んだ。

 振り向くと、次助と子分たちが立ちはだかっている。

 仁助との合間に立ったことになるが、無論、誰も気づかなかった。

「どうけりをつけるんだい?」

 次助が訊いた。心底おかしそうだった。

「どうとでもつけるさ」

 次助は要領をえん答えだとあざ笑った。

 この時、背後で頃合を見計らっていた仁助が、次助の子分に見つかった。

「なんだ、お前は!」

 男が、誰何の声と共に仁助に走り寄る。

「斬れ!」

 次助が手を振ってわめいた。

「やめろ!」

 駆け寄ろうとした彦六の前に、子分たちが立ちはだかった。仁助は脚を踏みだした体勢のまま、文字通り凍りついた。

 男が長脇差をかざして、斬りかかってきた。術も法もないおそまつな技だったが、仁助には十分だった。

 声を上げたときには、胸を逆袈裟に斬り下ろされていた。

「仁助!」

 彦六の悲痛な叫びが、林にこだました。


 次助の子分に叩き起こされた矢坂九朗衛門は、町を外れ、林に入ったところで、背に声を受けた。

「誰だ」

 次助の子分が声を荒げた。手がそろりと懐中の匕首にふれている。

 目前に立つ浪人風の男は黙したままである。きらりと光る目で物憂そうに九朗衛門を見た。

「てめぇ、彦六一家のもんだな」

 やくざ者がまたわめいた。

「うちの二代目を斬らせるわけにはいかないよ」

 そう云って、休臥斎は大刀を抜き放った。無銘だが、相当の業物だった。無造作に脇に垂らして立っている。新陰流に云う、無形の位に似ていた。

 九朗衛門は奇妙に思い、口を利いた。

「あんなやくざ者になんで肩入れをする。金か?」

 九朗衛門の見たところ、彦六一家はもう駄目である。初代彦六の力が強すぎたが、それが死んではもういけなかった。いい金蔓とはとても見えない。

 休臥斎はしゃらりと答えた。

「金なんざもらっちゃいないさ。最初の契約は期限切れだしね」

「ならばなぜいつまでも居座っている」

「気に入っているからさ」

「なにっ?」

「そうさな。一晩の寝床とあったかい飯それさえありゃ云うことなしさ、この世はな」

 云い終わると、するすると間合いを詰めてきた。九朗衛門も合わせて刀を抜いた。

 やくざ者が気を利かしたか、脇によっている。九朗衛門は正面から休臥斎と対峙することになった。

 今日は覆面もしていない。白皙の顔が夜目に栄えている。

 休臥斎が無声の気合を発し、上段から跳ね上がるようにして刀を振り下ろしてきた。迅い。九朗衛門は刀を上げるのがやっとだった。

 凄まじい金属音と共に、二刀がはげしく噛み合った。

と同時に、休臥斎は身を沈め、横合いから突きかかろうとしたやくざ者に、一刀を送った。

 九朗衛門には、手を出す暇もない。やくざ者は、腹をほとんど二つに裂かれ即死した。

(ばかなっ)恐慌が九朗衛門をおそった。到底およぶ相手ではなかった。無意識に二間は飛びさがっていた。

 休臥斎は、無言で血刀を払った。

 腹の底から、九朗衛門はふるえた。休臥斎ほどの術者に出会ったのは、まさに生涯でこれが初めてであったのである。

「う、きぇえええ!」

 恐怖に顔を引きつらせながら、九朗衛門は休臥斎に迫った。

 摺上の一刀を送ったが、休臥斎は完全に見切り、体を躱している。脇に立ったかと思うと、目にも止まらぬ速さで九朗衛門の刀をはたき落とした。

「ゆ、許してくれ」外聞もなく、九朗衛門は土下座した。「あんなやくざ者たちに義理立てするつもりはないんだっ。後生だから見逃してくれ」

 休臥斎は、無言のまま九朗衛門を見下ろしている。

 休臥斎は急に馬鹿らしくなった。それより今は次助たちについていった彦六と仁助の身が心配だった。

 この程度とわかっていたら、こちらに来はしなかったのだが……。

 休臥斎は刀を鞘におさめ、九朗衛門に背を向けた。

 そのとたん、九朗衛門は行動を起こした。

 地面に落ちていた大刀を拾って、夢中で休臥斎に斬りかかった。

 休臥斎は、無言で脇差を背後に抜き打った。


 次助達の向こうに仁助がぐたりと倒れている。生きているようだが、傷は深いと見えた。

(なんでついてきたりしたっ)

 歯噛みしたい気分であったが、今さらどうにもならない。一刻も早く手当てをうけねば、仁助の命はない。

 次助と坂本一家のやくざ者が、ずらりと眼前に並んでいる。血の匂いにますます凶暴性をかきたてられているようだった。

「このこと、おめぇとこの親分さんは知っていなさるのかい」

 彦六が訊いた。

「知るわけがない。俺の一存でやったことだ」

 次助の返答に、彦六の眉がピクリと動いた。

「弥太郎を殺して自分が後釜にすわる気か」

 ここまでは知らされていなかったのだろう。子分たちが動揺し、次助を見た。次助はそれを横目でながめた。次助は子分までも斬らねばならなくなった。

 彦六は自分の言葉が確実に的を射たことを知った。次助は彦六一家をつぶそうと計ったばかりか、大恩ある弥太郎親分さえ斬ろうとしている。

「頬傷次助」呼びかけた。

「なんだ?」

「あんたは腐ってるな。俺たちにも任侠道ってものがある。それを外れたら、やくざ者はおしまいなんだよ……」

 次助は目を剥いた。

「おなじ穴のむじなのくせに、なにを云ってやがる! やくざ者なんざしょせん人間のクズだっ。何をいったところで、俺もお前も代わりはねぇんだ!」

 次助は肺腑をえぐるような声でわめいた。彦六の瞳が冷酷にきらめいた。

(斬るか……)

 釣りにでも行くような気軽さでそう思った。彦六はどんな相手でも殺しがいやだ。だが、こんな腐った男を生かしてはおけない。

 無造作に次助に歩み寄った。あまりにも自然な動作に、次助は声も出なかった。

 脇を通り過ぎた。そのまま抜き手も見せずに頚動脈を切り裂いた。

「次助兄貴!」

 朧月が血飛沫にけむる。一同、身じろぎもできなかった。結局、彦六は一度も匕首を見せていない。これほどの術は、とんとお目にかかったことすらなかった。

 子分たちは一様に臆した。が、一人も引く者がない。次助が弥太郎まで斬ろうとしたことを知ったためだ。

 こうなっては、なんとしても彦六の首をとり、親分に報いなければならない。彦六の匕首はおそろしいが、身内に殺されるよりはましだった。

 長脇差や匕首といった刃物が、つらつらと彦六をかこみはじめた。

 彦六は匕首すら取り出さない。かすむように立っている。

(これまでか……)

 そう、思った。五人が相手では勝ちは覚束ない。

 もはやどう仕様もなかった。如何様にでもなりやがれという、やけくそ気味の気合いだけがあった。五人を相手に斬り死にするつもりでいる。

 ただ、

(仁助だけは、助けてやりたかったなぁ)

 そのことだけが、心残りであった。


 五人は完全に彦六を包囲した。

 しかも、彼らは必死である。捨て身でくるやもしれない。そうなっては、彦六の匕首がいくら閃いたところで無事で済むはずがなかった。

 一家の男たちの顔がまざまざと思い起される。もうしわけないと思った。ようやく長老にも認められかけたところだ。そうなるために文悟たちがどれだけ苦労したことか。自分が死ねば、きねは独りぼっちになる。伴兵衛も灸蔵も悲しむに違いない。あの世で親父はなんというだろう。

 そのような思念が、一瞬にして、彦六の胸裏をよぎった。無責任であったわけではない。こうするしかなかっただけのことだ。独り身の気軽さが懐かしかった。

 五人はじわじわと間合いを寄せてくる。彦六は左足を引いて、一同を見渡した。その時、「二代目」

 と、林の奥から声がかかった。休臥斎である。

 かと思うと、早くも囲みの一人を斬り伏せていた。彦六にも劣らぬ早業だった。

 絶叫が、おくれて上がった。

「また間に合いましたねぇ」

 休臥斎は隠しようのない殺気を、惜し気もなく放射しながら刀を閉じた。

 殺気を放ちながら、刀をおさめるとは奇妙だが、休臥斎は腰を落とし、半身になっている。居合の構えだった。

 残ったやくざ者たちが狼狽した。

「いっとくがおたくの用心棒は来ないよ」

 そう告げられ、ますます絶望は深くなった。

「やめろ……」一人が呻くように呟いた。

「わかっちゃいないな。おめぇさんら、もう行き場はなくなったんだよ」

 彦六が告げた。休臥斎はなにも云わない。

 四人は死に身になった。生を捨て、二人の命を奪いにきた。

 その瞬間、休臥斎の刀が閃いた。たちまち一人を斬り、返す刀で二人目を斬った。

 彦六は真っ正面から捨て鉢におどりかかる男の首を切り裂いた。バッと血潮が上がる。男はぶるぶる震えながら、彦六をねめつけてきた。

 彦六の腕を押さえ、あっと思ったときには、男の匕首が伸びていた。

 休臥斎がその腕を斬った。男は絶望のまま、悶死した。

「うわああああ!」

 後に残ったやくざ者が長脇差を振りかざし、かかってきた。

 長く、耳にのこる、悲鳴のような声だった。休臥斎が横ざまに刀を払い、その胴を十分に斬った。

「う……」

 男は地面に倒れる前に絶命していた。

 彦六は呆然と荒い息を吐いていた。背筋をぞくりとした悪寒が走る。男の死に際の目が、脳裏に焼き付いていた。

「仁助」

 はっと気づいて彦六は仁助の元に走った。刀を懐紙で拭うと、休臥斎も後を追った。

「しっかりしろ、仁助」

 仁助はまだ息があった。

「五分五分といったところでしょう」

 彦六に見られ、休臥斎が答えた。むきだしになったままの刀に気づいて、鞘におさめた。

「あの一言はいけません。追い詰めました」

 休臥斎がぽつりと云った。彦六の言葉を指摘している。あの一言で、やくざ者たちを追い詰めてしまった。

 後のなくなった人間というのは何をしでかすかわからない。その後をなくしたのは、他ならぬ彦六の言葉である。

 彦六も、そのことは重々承知していた。死に身になった人間の怖さを知らなかった。

 仁助が斬られたことで、彦六も平静ではいられなかったのだろう。

 やくざ者たちを死に身にさせたのは、自分の一言だった。そのことが、胸にこたえた。

 林の向こうから声がした。文悟たちがようやく駆け付けたらしかった。

 休臥斎が肩を叩いた。彦六は一言もなかった。


 医学の心得がある忠次郎が、仁助を診た。

 彦六も無事、次助も片付き一安心と云いたいところだが、問題は斬られた仁助である。

 彦六たちは仁助を板に乗せ、屋敷に連れ戻した。

 忠次郎が玄関に飛び出してきた。傷をあらため、「座敷に運べ」と、わめいた。これは助かる見込みがあるということだ。

 文悟が彦六の隣につっと立った。

「今日はいささか無茶がすぎやしたぜ」

 怒りをはらんだ声だった。

 黒田彦六は端然としている。

「これからもっと無茶をやる」

「えっ?」

 意表をつかれて文悟は唖然となった。そのうちに、彦六は土手を西へと歩き始めていた。


 彦六が向ったのは、種町にある坂本一家の屋敷である。

「正気ですかい?」

 文悟が脇に立つ彦六にささやいた。

 さっきの今で、坂本一家に出向くのは無茶というものである。坂本の衆は善い悪いをぬきにして、血の気が多い。ただで帰れるとは思わなかった。

 彦六はなにも云わず、考え込むようにして坂本の屋敷を見つめている。

 彦六は仁助のことを悔やんでいた。ああなったのは、伴兵衛じいが何といおうと自分の責任である。詫びがわりに、この一件をなんとかしてやりたかった。

 仁助にしたら、彦六にはもう大人しくしていて欲しいのだろうが、それに気づかないのが彦六の短所であり長所である。

「こりゃぁ、俺もいよいよ覚悟を固めなきゃいけねぇかな?」

 文悟が懐の匕首を無意識に握った。

 すると、彦六が、「よしな」声をかけ、文悟の匕首を奪うと脇に放った。

 さすがの文悟が目を見張った。

「二代目」

 声に咎めるような響きがある。

 彦六はちろりと文悟を見た。こちらの目にも咎めるような色がある。

「どんな理由にせよ、俺たちは坂本のもんを六人も斬ったんだ。わびをいれるのが道理なら、手向かうのは筋外れ……違うか?」

「しかし、次助の野郎は弥太郎親分の命まで狙ったんですぜ」

「もし仁助が死んだとしたら、おめぇは復讐を考えないかい?」

 文悟はつまった。むっと唸っただけだった。

 彦六の云うことは確かに筋が通っている。だが、それが通用するのは向こうの筋が外れていなかった場合だけだ。

 命を狙われて、さらに詫びをいれるとは、なんとも解せない話である。

 彦六が、そんな文悟を横目で見ながら、ゆっくりと口を切った。

「次助がな、こういうんだよ。しょせんはやくざ者、俺もおめぇも変わりがねぇ、ってな。あの世に行ってまで次助の奴に勘違いをされたままじゃ、死んだ親父も立つ瀬がないだろうよ。俺たちゃそんじょそこらのやくざとは違うってところを、見せてやろうじゃねぇか」

 そこまでしゃべって彦六は笑った。吸い込まれるような笑みだった。

 ないことに、文悟の身の内が震えた。

「いいだろう。この身一つ、彦六親分に預けやしょう」

 莞爾と笑った。そのまま二人は坂本一家の門をくぐった。

 おもえば、若衆頭の文悟が、この若い二代目のことを彦六親分と呼んだのは、この時がはじめてである。


 彦六と文悟は、坂本一家の男たちに囲まれながら、弥太郎の前に通された。なんとも痛い視線が集中するが、二人は気にも止めた様子がない。

 堂々と廊下を渡った。これには坂本一家のやくざ者の方が拍子抜けしたほどだ。

 こうと決めたからには文悟はさすがである。

 二人は弥太郎の前にならんで座り、次助とその子分に命を狙われ、やむなくこれを斬り殺したことを報告した。

 六人の死体は千町の林のなかにあるという。

 弥太郎が目を走らせ、配下を向わせた。手を膝に置くと、切り出した。

「なんでそのことを伝えに来た」

「大事な部下が突然いなくなったままじゃ、寝覚めが悪いだろう」

 彦六がうそぶいた。

 文悟がおかしそうに笑いを堪えている。

「二代目のおめぇと、若衆頭の二人でか?」

「そうだ」

 弥太郎はまじまじと彦六を見た。

(なんともあの男にいやんなるほど似てやがる)

「おわけぇの、命は大事にした方がいい」

 両脇のふすまがすっと開いた。男たちが手に手に武器を持ち立っている。

 二人はさすがにヒヤリとしたが、それはおくびにも出さなかった。

「こちらに非はない」

 彦六が床に手をついて身を乗りだした。

「非があろうがなかろうが、そんなものはかまわないんだよ。大事な手駒を殺されて、黙っているわけにはいくめぇ」

 弥太郎が凄味をきかした。

 文悟はこの手駒という言葉がなんともいやだった。彦六ならそんなことは口が裂けても云わない。飛びかかってぶん殴ってやりたくなったが、ああいった彦六の手前、それも出来ない。

(このままなます切りかね)

 そう思うと、奇態なことに腹の底でむずがゆいような快感がわき起こった。この男と道連れなら、それも悪くない。

 腹をくそ落ち着きに据えた文悟を見て、弥太郎はあなどれぬ、と見た。さすが先代彦六に見込まれただけはある。

 だが、そんな男に死んでもいいと思わせる彦六も大したものだとおもわざるをえなかった。いったい坂本一家に自分とともに死ぬような男が何人いるだろう。

 だからこそ、弥太郎は彦六を斬ることを怖れた。斬れば彦六一家は総力を上げて報復に出るはずである。その時は、こちらが一人残らず死ぬるまで、闘争をやめはすまい。全面戦争になる、との予感があった。

「くだらねぇ感傷のために、この場で死ぬる気かね、二代目」

 弥太郎ははじめて彦六を二代目と呼んだ。

 文悟がアゴをしゃくった。

「くだらなくはないよ。第一こちらはあんたの命を救ったんだからね。このまま俺の親分を斬れば、さぞ気分も悪かろう」

「なにっ?」

 弥太郎は文悟に視線を移した。

 目を彦六にもどし、どういうことだと暗黙の内に問いかける。

「次助は俺を殺したあと、あんたに後を追わせ、自分が坂本一家の棟梁につくつもりだったんだね」

 彦六はすらすらと語った。弥太郎は思わずぎくりとなった。

 云われてみれば、思い当る節はいくつもある。次助はかねてから当主の座を狙っていた。

(どうも最近影でこそこそやっていると思ったら……)

 忸怩たる思いがあった。次助の息のかかったものは、残らず殺さねばならぬ。そうせねば、いずれ次助と同じ考えを持った者があらわれる。そう信じた。が、

「次助以外は知らない」

 弥太郎の思念を読んで、彦六が静かに告げた。

 確かだった。次助は共に彦六を襲った子分にすらこの事を告げていなかったのである。

 おそらく、次助は今日まで迷っていたのではないか。だからこそ、自分一人の胸の内におさめていた。そのように思えてならない。

 彦六と文悟が席を立った。

 子分たちが動きかけたが、弥太郎は手を振ってこれを止めた。

 二人が引き上げた後も、弥太郎は動けなかった。

「若造に助けられたか……」

 笑おうとしたが、こめかみに流れる汗に気づき、苦そうに舌を打った。


「おう」

「二代目ぇ」

 表で雷造と灸蔵が、二人を待ち構えていた。

「なんだ、おめぇら何してる」

 文悟が安心したように笑った。

「なに、一働きしてやろうかと思ってな」

 暴れ者の雷造がぶるんと腕をふるった。

「もうおわっちまったよ」

 彦六が云うと、残念げに顔を歪めた。

「今度からは、俺たちもさそってくれよな、二代目」

 雷造が寂しそうに云った。本当に辛そうだ。

 石屋の灸蔵が、その背を音高くはりとばした。

「いてーっ、なにしやがる!」

「おー、元気が出たじゃねぇか」

 雷造の太い腕をかいくぐり、チビの灸蔵がチョロチョロ逃げ回っている。彦六親分が威勢よく笑った。

「帰りやしょうか」

 腕を袂に入れて、若衆頭がさも愉快そうに歩き出した。

 それを、後ろで弥太郎たちが眺めている。当代きっての粋人、黒田彦六のまわりに集ったのは、さすが一廉の男たちであった。

 この時の、二人の悪怯れぬ様子は、長く語りぐさになった。仁助は一命をとりとめた。


 朝の六どきに、黒田彦六のお目通りは行なわれた。

 大和屋の座敷に、町の長老衆が東西にわかれてずらりと並んでいる。

 下で平伏しているのは、黒田彦六を筆頭とする奥州二代目彦六一家の重鎮たちである。

 きねは座敷の隣に備え付けられた居間で、一人、熱い茶をすすっていた。

 座敷から、老人たちの嬌声が響いてくる。お目通りはうまく云っているようだ。

 きねは開け放たれた座敷の引き戸から陽の落ちこむ庭を眺めた。

「あのアホウも、ようやく二代目だよ、彦六」

 そう云って、一口茶をすすった。目の前で、先代黒田彦六が、笑っているかのようだった。

 かすかに冷気を含んだ西風が、きねのいる座敷に吹き込んでくる。そろそろ、草葉も芽吹き、春が来るだろう。

 茶で暖まった体に、涼やかな風が心地よかった。

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奥州二代目彦六一家 七味春五郎 @shimogami

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