第2章 崩れなければ、歪ではない⑥

 結局坊主で終わった釣りはその後一切話題に上ることなく、ただただ若い飯島を不機嫌にさせただけだった。しかし、そんな苛立つ彼の様子を見ながら、私はささやかな充足感を覚えていた。

 私達二人は車を走らせ、駅前の繁華街、その入り口付近の立体駐車場に乗り付けた。周りには高級外車が多く駐まっており、何とも厳めしい雰囲気を漂わせている。

 車から降りた私は、目の前の真っ赤なマセラティを見つめながら嘆息した。

「ほら、グランちゃんの方が目立たないだろ?」運転席から降りた飯島は、自慢の愛車グランカブリオをやさしく愛でながら、したり顔を見せる。

 ただでさえ派手なカラーであるのに、それに加えてのオープン仕様。目立つことしか、人に見てもらうことしか考えていないような、頭の悪い選択である。

「プライベートで乗る分には構わないがな……」

「似たようなもんだろ、今日は」

「…………」

「あんなハイブリッドに乗れって? 勘弁してよ」

「仕事には向いてる」

「今日は爺さんとお話しするだけだろ? あーあ、まるで老人ホームの介護士になった気分だ」

「介護士がマセラティに乗ってれば、日本の未来も明るいな」

 くだらない軽口を叩きながら私達は奥に見えるエレベータへ向かい、それに乗って地上へと降りた。駐車場から出ると銀杏並木が続くメインストリートへと出る。この通りを東へ向かえば繁華街の中心となる。私と飯島はそちらに歩を進めた。

 夕方ということもあって学生らしき風貌が目立つ。誰もが一様な、没個性の容姿をしている。たまに、そういう外見に無頓着な地味な学生も見かけるが、割合としては少なかった。勉学に励む学生など、今の時代は稀少なのかもしれない。

 華やかな電飾に彩られた、と言えば聞こえはいいが、実際はただただ目にもうるさい過剰な装飾を施す店舗があとを断たない。少なくとも中心街へと向かう長い直線の先からも、似たような光が目に入ってきている。学生だけじゃなく、街全体が没個性となっているみたいだ。

 個性的すぎるのもどうかとは思うが……。

 私は隣を歩く男を横目で見ながら、そう思った。

「あ、そういやさ、今回の手法はどんなのやるの? 相手は腐っても鯛、エリートなんだろ? そんなにほいほい騙されてくれるかね? 同僚とか、知人とかに相談されたら一発じゃね?」

「素人みたいな質問だな」

「いやいや、だって。世間知らずなお嬢様ならいざ知らず、よ? 誰を狙うのか知らないけどさ」

「痴漢冤罪については知っているか?」

「ああ、映画とかにもなって、一時期話題になった……。やってないからって言われるがままに駅員に連れて行かれると、まず起訴されるっていう……」

「そう。さすがにそれぐらいの知識はあるか」

 私がからかい半分で言うと、飯島は首を竦め、口を曲げた。

「なら、はどうだ?」

「ビジネス?」飯島は眉を顰める。「え、何? それで金儲けするの? え、示談金とかで、ってこと?」

「それはどちらかと言うと詐欺だな」

「どういうこと?」

「まあ、そうだな。例えばお前がうだつが上がらないサラリーマンだとする。私はお前の上司だ」

「うん」

「まったく使えないお前は会社から必要とされないばかりか、早く処分したい邪魔な存在だ」

「あえて聞くけど」飯島は手を上げて私の説明を遮った。「例え話だよね?」

「例え話だ」

「そっか。ならいい。ごめん、続けて」

「それで、どうしようもなく邪魔で邪魔で仕方のないごみのような存在のお前をクビにしたいところだが、正当な理由がなければ揉めることは明白だ」

「…………」

「自主退職を勧告するにも、退職金を払わなくてはならない。お前に、だ。それはどうしても嫌だ。どぶに捨てる方がまだ有意義な使い方と言えるだろう」

「…………」

「そこで、だ。痴漢冤罪を利用する」

「あ、ずりぃ!」

「そう。社会とは往々にしてずるいように出来ている。それなりの女性を雇い、電車内でお前の手を掴んで叫ぶ。『止めてください。この人、痴漢です。誰か助けてください』とな」

「なるほど……、えげつねーな、それ」

「そうしてお前はあくまで否認し続け、身に覚えのない罪で起訴されるか、被害者を名乗る女性と和解に持ち込むかの二択に迫られる。そしてどちらの選択をしたとしても、会社としてはお前を堂々とクビにすることが出来るというわけだ」

「いろいろと引っ掛かる部分はあったけど、なるほどね、上手いやり口だ。すげ、ちょっと感動した」

「このビジネスの良いところは、優秀な人間に対しても行うことが出来る点にある。使えない人間を切り捨てるだけじゃなく、自身の出世を阻むライバルを蹴落とすのにも役立つからな。特に、非の打ち所のない人間をやるには、効果的な手法と言える」

「怖いなぁ、マジで。どうなってんだよ、それ。うわ、怖い怖い。こうなりゃ、意地でもグランちゃんで通勤だな」

 人通りの多い繁華街は活気に満ちている。頭の悪そうな学生からくたびれた会社員、金にしか興味のなさそうな下品な女。倒れている者もいれば、介抱する者もいて、それを横目に通り過ぎていく者もいる。それはまるで世界の縮図のようでもあった。

 雑多な情報で溢れかえっている繁華街も、一本小さな路地裏に入れば嘘のように静かになる。目には見えない陰鬱な雰囲気を無意識のうちに感じ取っているのだろうか。細い路地裏にもいくつかの居酒屋が営業をしており、それぞれキャスター付きの看板を路地に出している。どの店の看板も、酔っ払いに蹴られたか、風で倒されたか、プラスチックの部分が割れたり欠けたりしていた。何軒かの店はシャッターが下りていて、そこにはいかがわしいシールが貼られている。細々としたごみが捨てられているのも目立った。同じ繁華街でも、雰囲気はまるで変わっている。

 そんな路地裏の奥に、もう夜だというのにサングラスを掛けた若い男が立っている。ガムを噛みながら、携帯電話を弄っていた。

 見るからに怪しい男の横を通り過ぎ、路地の奥にひっそりと佇む小さな店へと入った。店とは言っても、何の店かまではわからない。路地には看板も出ていないし、客だってまずいない。ここまでくると店なのかどうか怪しいところではあるが、少なくとも一般的な住宅ではなかった。

 玄関は階段を下りた先の地下にある。木製の重厚な扉を開けて中に入ると、甘い芳香が鼻を衝いた。

「いかにも、だよなぁ」

 葉巻の臭いに飯島が肩を竦めて鼻を鳴らした。

「お前にしては遠回りな表現だな」私は微笑みながら、臭いの元、漂う紫煙の先へ視線を向ける。「いつものように言ったらどうだ? 趣味が悪いって」

 暗い照明の中、奥からぎろりと光るものがあった。まるで獣のような、獰猛な目。一人掛け用ソファに腰掛けている達磨のような老人がこちらに睨みを利かせていた。

「糞生意気な小僧ども。俺の城に何しに来やがった?」

 老獪な大蛇、古野は葉巻を噛むようにしながらこちらを睨む。薄い色つき眼鏡に、葉巻とほとんど変わらない太く短い指。趣味の悪い金色の指輪。醜く突き出ている大きな腹をさすりながら、古野はほとんどない首を捻った。

「招待した覚えはないんだがな」

「まあ、そう邪険にしなくてもいいだろう。仲良くしようじゃないか」

「けっ。誰がお前らなんかと」吐き捨てるように言うと、古野は少し咳き込んだ。「糞生意気な餓鬼は嫌いなんだよ」

「孫みたいなものじゃないか」私は飯島を指して笑った。

「俺の孫は世界一かわいい。飯坊なんかとは比べようがないほどにな。きらきら輝く天使なんだ。こんな頭の悪そうなのと一緒にすんじゃねえ」

「俺の扱い酷くね?」

「まあいい」古野は左手を軽く挙げ、短い指を動かした。ソファに座れ、という意味らしい。「ま、よく来たな。何にする? いいバーボンがある」

「いや、コーヒーでいい。ありがとう」

 古野は片方の眉を動かすと、片手を上げた。すると奥にいた丸眼鏡を掛けた秘書らしき男が部屋を出て行った。片手を上げるだけでコーヒーが運ばれてくるシステムらしい。何とも羨ましいシステムがあるものだ。

 室内はかなり広い印象を受けるが、それは単に家財道具の少なさに起因するものだろう。部屋の中央に革張りのソファとテーブルがあるだけ。あとは床に敷かれた毛足の長い絨毯と、壁に掛けられた絵画が数点。とてもシンプルなレイアウトだが、それゆえに奇妙な威圧感を放っている。

 いつ来ても落ち着かない、悪趣味な部屋だ。

 しばらく紫煙を燻らせていた古野だったが、空気を漏らすように喉を鳴らした。

「で? ダイアの件はもう済んだだろうに。わざわざここまで来て、何の用だ? ん? 咲坊よ」

 口調はとてもゆったりで眠そうなものだったが、同時に鋭さも見え隠れしていた。濁った光を見せるナイフのような、そんな目つき。さすがにこの世界でここまで現役を続けているだけのことはある。観察眼に限れば、誰も太刀打ちできないだろう。そればかりは才覚よりも経験が物を言う。

「もちろん、仕事の話をするために」私は言って、人工的に微笑んだ。なるべく視線は逸らさずに続けた。「プライベートで会いに来るほどの仲じゃあ、まだないだろう?」

「ふん」つまらなそうに、古野は目を伏せた。「だが、お前さん達にしちゃ、少しペースが速すぎやしねえか。いつになく張り切ってんじゃねえか、ええ? どうした、何か良いことでもあったのかよう?」

「今回は私が前に立たないからな」

「ほう」口を尖らせ、古野は人差し指を飯島に向ける。「飯坊、お前さんに出来んのか? はっは! そりゃあいい。へまして捕まりゃ、いいネタになる」

 飯島は嬉々として喜ぶ老人に向かって舌を出す。幾ばくか緊張している面持ちを見抜かれたのが恥ずかしかったのだろう。いつものような減らず口は、今日は鳴りを潜めていた。

「別に初めてでもないんだから、そんな、騒がないでよ。あーもう」

「かっか。なんだなんだ、どうしたおい。かわいい顔するじゃねーか、飯坊よ。へへ、あとでキスしてやろうか」

「他人事だからって気楽なもんだよな」飯島は頬杖をしながらため息をついた。

 部屋の奥の扉が開き、スーツの丸眼鏡の男がワゴンを運んできた。深みのあるコーヒーの香りが漂う。古野は葉巻を幾何学模様の描かれた灰皿で揉み消すと、指で鼻を拭うようにして啜った。男は三人分のコーヒーを並べ終えると、静かに礼をしてワゴンと共に部屋を出て行った。

「で、相手は誰なんだ? この不貞不貞しい馬鹿が緊張するってことは、結構な大物なんだろう?」腹を揺するようにして体を乗り出す古野は、少年に戻ったかのように目を輝かせる。

「TCだよ、TC! あのTCグループだよ。古野さんからも先生に何とか言ってやってよ」

「ほほう……。相変わらずおもしろいところを狙うな、お前さんは。え、咲坊?」

「国内では盤石な業績を誇っていたTCだが、海外ではまだまだ後進的な企業に過ぎない。先に起きた震災や海外の洪水被害の影響で、大規模な海外進出計画も頓挫。業績も大幅な下方修正をせざるを得ない状況に追い込まれた」

「だがその先の見えなかった長いトンネルも、ようやく終わりを迎えようとしているじゃねえか。株価も元に戻ってきてるし、出口の光が差してきたところだろ」

「ああ。グループにとっても、大事な時期だ。下手なミスは出来ない」

「何を掴んでる?」古野はカップを持ち上げながら、私を見つめる。カップに口をつけ、一口飲んだ。「アキレス腱を握ってるとなりゃあ、いよいよおもしれえことになるな」

「残念ながら、そんな大げさなものじゃない」私もコーヒーを頂くことにする。「仕事はいつも通り、小遣い稼ぎだ。欲は掻かない。掻けば身を灼かれる」

「臆病者め」古野は悪戯な笑みを浮かべ、コーヒーを啜った。

「それでいい。勇猛果敢は馬鹿のすることだ」

「ふん」

 私はコーヒーを一口飲み、内ポケットから一枚の写真を取り出した。そこには冴えない男が映っている。今では珍しい七三分けだが、その男を示す何よりの特徴というわけでもない。どこにでもいそうな、平均的な容姿をしている。

 私はその写真を古野の前に出した。古野は写真を手に取ると、もう片方の手で眼鏡を軽く持ち上げる。目を細めながら、写真を近づけた。

「つまらん顔だな」古野は写真をテーブルに戻し、ソファへ深くもたれ直した。「何だ? そいつが今度の鴨か? あまり金を持っていそうには見えんがな」

「この男は呼び水だ。鴨としては充分な素質を持っているが、しかし地頭が良い分、時間を掛けると危険な存在でもある。見掛けによらず、かなり優秀な男だ」

「そうは見えんがな……」古野はもう一度写真へ視線を落としながら、息を吐いた。「で、こいつをどう使う?」

「こいつには、痴漢冤罪の被害者となってもらう」

「え」

 声を上げたのは飯島だった。

「何だ、飯坊。今は大人の仕事の話をしてる最中だ。トイレなら奥の廊下の突き当たりを左だ」

「そいつ、痴漢にでっち上げんの?」飯島は古野を無視し、私に驚きの顔を向ける。「先生も結構えげつねーこと考えるんだ……。うわぁ……、マジでか」

「示談金を吹っ掛けるのか? 小遣いにしたって、女子高生じゃあるまいし……。何を企んでる、咲坊?」

「さっきも言ったが、こいつは呼び水だ。本命は別にいる」

「それがTC?」

「そういうこと」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る