第1章 雨上がりの午後、猫を拾った⑤
翌朝、私は出掛ける前に服田に渡す物の最終チェックを行った。
個人情報が羅列されたリスト、黒い革製の巾着袋に入ったダイアモンド、皺だらけの封筒に入った預金通帳と判子、そして三千万もの札束。それら一つ一つを手に取り、問題がないことを丁寧に確認した。
昨日の今日だ。問題はないだろう。
「よし」
私は確認したそれらを、昨日の昼食で買ったファストフードの紙袋に詰めた。腕時計で時間を確認すると午前九時二十分。今からここを出れば昼前には着くだろう。
「忘れもんはねーかよ、先生?」
幼さが残る短髪の男がガムを噛みながら手を広げた。
「今のところは大丈夫だな」
私は簡単に答え、伊達眼鏡を掛ける。
「ま、そりゃそうか。忘れもん、だもんな」
へらへらと、
中肉中背で、身長は低くも高くもない。幼さの残る顔立ちだが、決して童顔ではない。今どきの若い連中によく見られるような出で立ちをしているが、服装を変えてやれば、大抵のものに順応することができる、天性のものを持っている。若さから来るものなのか、物怖じしないで果敢に攻めようとする性格は、詐欺師にとってリスクも大きいがその分見返りも期待できるため、ある意味では私よりもこの稼業に向いている。
今はこの飯島という若い男とパートナーを組んでいくつか仕事をしていた。
もう少し、この男に慎重さ、臆病さが兼ね備わってくると、詐欺師として安定してくるのだが……。まあ、若さに免じているところだった。
「じゃあ、あとのことは先生に任せて、俺っちは寝ますよ」飯島は言いながら大きく口を開け、間抜けな欠伸をした。「完徹も厳しい歳になってきちゃったな、あーあー」
「大した歳でもないだろう」贅沢なことだ。
「二十歳過ぎたらみんなジジイとババアだって。痴呆が進んでないだけが取り柄なもんさ、二十代なんて」
「大した取り柄だよ」
私は肩を竦め、荷物を持った。
「いってらっしゃい、気ぃつけてね、先生」飯島は腕を組みながら、にやついた笑顔をこちらに向ける。
「そうだな。今回は、間抜けな警察には期待できないからな」
「舞い上がってミスしなきゃいいんだよ」飯島が笑う。「ま、俺が心配することでもないんだろうけどさ。寝ながら吉報を待ってるよ」
「昼過ぎには戻る」
だらしない格好の男の見送りを背中に受けながら、私は事務所を出て、路肩に停めてある車へと乗り込んだ。
国道沿いの商業地区、その中の小さな平屋を事務所として使っている。以前は個人経営の喫茶店だったらしいが、立地が悪かったのか、それとも単純に味が悪かったのか、建物自体はとても綺麗な状態で売りに出されていた。
私はエンジンを掛け、国道を十キロほど走らせたのち、小さな交差点を左に曲がり、利用者も疎らな無人駅へ向かった。踏切を渡った先にある一時間百円のコインパーキングへ入り、車を駐めた。十台ほどの駐車スペースがあるが、私以外には白のセダンが一台駐まっているだけ。視線を駅のホームへ向けても、人の姿は確認できなかった。
私はエンジンを止めてもすぐには降りずに、周りを注意深く観察する。駐車場は煉瓦のブロックと生け垣で囲われており、近くの敷地には灰色の大きな工場が見える。セラミックスを扱う会社の工場で従業員の数もかなり多いが、今は昼前なので出歩いている人間はいない。
周りに人気がないことを確認してから、私は素早く車から降り、駐車してある白のセダンへと乗り換えた。ルームミラーの角度、シートの位置を調整し、エンジンを掛けた。
「慎重過ぎるか?」
ルームミラーに映る見慣れた顔に問い掛ける。
無表情がこちらをじっと見つめているだけ。何も答えない、答えてくれない。
「無愛想だな」
私は口の端を上げ、車をゆっくりと発進させた。パーキングの出口で駐車料金二千円を支払い、再び国道へと戻った。
服田達が新たに移った事務所は、先日の事務所よりも近いところにある。都市圏から離れた街で、仕事をするには不便な場所だが、身を隠すには田舎過ぎずにちょうどいい。さすがの奴らも、しばらくは活動を控えるつもりなのだろう。
最初は新鮮な刺激も、慢性的に続けていれば薄くなる。緊張が抜け、恐怖を忘れ、惰性となる。そんな麻痺が体を蝕み、非日常と日常の境界を曖昧なものとしてしまう。朽ち、淀み、そして沈んでいく。
ましてや子供。詐欺にしてみても、そもそも犯罪だという意識も薄く、ゲームに近い感覚でやっているのだろう。自分は捕まらないという、何の根拠もない自信で誤魔化している。
危険は常に隣り合わせだということを、肌身で感じていなければならない。
警察の介入は、弛緩していた心を叱るにはもってこいのイベントだ。ガセが入ると聞いて、生きた心地はしなかっただろう。誰もが認識したはずだ。詐欺に手を出した報い、そのリスクを。
忘れていた恐怖を思い出させ、緩みきっていた心に緊張を取り戻させた。
「…………」
人は生の実感を覚えない。常に生きているからこそ、通常では生を実感しないのだ。
生を実感するためには、死を実感しなければならない。死を実感して初めて、生を実感できるようになる。
捕まるかもしれないという恐怖が、奴らに死の実感を与えた。そして逮捕を免れたという安堵が、奴らに生の実感を与えたのだ。
安堵に包まれたあとは、最初よりも緩んでしまうものだ。
弛緩していたものに緊張を与え、そしてその緊張を抜いてやると安堵が訪れる。その安堵はより強い弛緩を呼び込む、甘い甘い、毒の蜜。生半可なことでは治すことも、毒されていることに気づくことも出来はしない。
「そう、知らず知らず冒されている……」
私は左車線を法定速度よりも少しだけ速く走りながら、周りの車のナンバーを目で追った。不可思議なナンバーがあるわけでも、警戒するべきものがあるわけでもない。昔からの癖だ。車のナンバーを四則計算だけでその日の日付になるよう計算をするという、小学生のころ母親によくやらされた名残である。
教育熱心な母親だったから、まさか我が子が詐欺師になろうなどとは露にも思わなかっただろう。
国道を逸れ、アップダウンの激しい県道へ入った。数年前まで有料道路だったために信号がほとんどない。それに加えて見晴らしのいい直線のため、追い越し車線を走る連中の速度が軒並み上がった。
道路自体は山を切り開いて建設されており、先ほどまでとは打って変わり人工物が見当たらなくなる。周りは色付いた木々に囲まれ、中心市街地からも離れていく。
左車線を走るのは私だけになった。後続車がいないことをいいことに、私はさらにアクセルを緩めた。
大きなカーブを抜けた先で道が二手に分かれる。私は左手の住宅地へ向かう方へ入り、のどかな田園風景が広がる農道に合流した。服田達の移転先は、この農道を進んだ先にある住宅地の一画になる。
住所による大体の場所は把握しているが、実際に訪れるのは今回が初めてなので迷う可能性を考慮する必要があった。カプセルホテルと公民館が目印になると話してはいたが……。
トラクターや軽トラが駐まっている田畑に別れを告げ、住宅地へ続く細い道へ入る。犬の散歩をしている老人や、ベビーカーを押して歩いている主婦などの姿が多くなってきた。
徐行しながら道なりに進んでいくと、公民館らしき建物の前に出た。駐車場は広く、平日の昼間だというのに多くの車が駐まっている。そのほとんどが軽四かコンパクトカーという、主婦層に人気のある車種だった。
私はひとまず、公民館の駐車場の端に車を駐めることにした。多くの台数があるので利用者以外の駐車があってもすぐにはばれないだろう。私は鞄を持って車から降りた。
何かの会合だろうか、奥の遊戯室では子供連れの主婦達が膝を突き合わして話をしている。私はそちらに注意をしながら、公民館の生け垣で囲われた敷地から外の通りへ出た。
小さい子供やそれを連れて歩く主婦らを考慮されたコミュニティ道路を抜けると、通りを挟んだ向かいにカプセルホテルが見えた。
電柱で住所の番地を確認しながら、服田の事務所を探していく。そう遠くはないはずだ。半径百メートルの範囲内だろう。私はしばらく辺りを歩き回った。
「ここら辺のはずだが……」
五分ほど探してみてもそれらしいものが見つからず、どうしたものかと思案に耽っているところを、後ろから不意に声を掛けられた。
「あ、あの、霧咲さん……」
「え?」
振り返ると、高校生くらいの少年がおどおどした様子でこちらを見ていた。目が合うとすぐに顔を伏せてしまい、シャツの袖口のボタンを執拗に付け外ししていた。
私の名前を知っていたことから、先日の、服田の事務所のメンバーなのだろうが……。こんな少年いただろうか。
少しだけ記憶を探りながら、目の前の少年を見つめる。長い間散髪されていないだろう髪に、年齢を考えれば古くさい意匠の眼鏡。目許まで前髪が掛かっていることもあり、少年の顔は判然としない。服装も黒のパーカーに黒のジーンズと、全身を黒で統一してしまっており、地味だとか以前に不気味あるいは不自然だった。影が薄く、社交性に欠けるタイプのように映る。
「あ、えっと……、き、霧咲さん、ですよね……?」
少年は恐る恐るといった様子で、私の顔を見上げる。
「ああ、そうだ」私は頷く。「君は? 服田のところの……」
「こ……、
「そうか。私を迎えに来てくれたのか? 服田に言われて?」
「はい……」
「ありがとう。では案内してくれ」
「こ、こっちです……」
背中を丸めて歩き出した小金井のあとに続いた。彼の丸まった背中を見ていると、哀愁を帯びた中年のそれのように思えてくる。幼い顔が見えない後姿だけを見れば、私よりも年上ではないのかと疑いたくなるほどだった。
細い路地から通りへ出ると、小金井は道路を渡って反対側へ移った。カプセルホテルを通り過ぎ、裏の路地へと入っていく。通学路と掲げられた看板を横目に、住宅地の奥へ。個人宅でやっている飲食店や理容店の並びに、比較的新しく見える駄菓子屋があった。個人住宅を改築したのか、ガラス張りの玄関先が駄菓子屋の店舗となっている。その奥が居住空間となっているようだった。
小金井に続き、私はその駄菓子屋へと入った。夕方ならば小学生達で賑わっているのだろうが、平日の昼間では客は一人もいなかった。懐かしいデザインと臭いが狭い空間に詰まっている。天井まである棚にはお菓子の箱が隙間なく並べられており、箱の前面に白い紙が貼られており、そこに赤いペンで値段が書かれていた。
「駄菓子屋か。懐かしいな」私は近くにあった小さなガムを一つ手に取った。
「な、懐かしい、ですか。僕には、新鮮な光景ですけど……」
「時代だな」私はガムを箱に戻し、肩を竦めてみせた。「昔は、いろんなところにあったんだよ。いろんな家が、婆さんを店主にやっていたんだ」
「へぇ……」
「夕方は子供達で溢れるだろう?」
「まあ、そう……ですね。主婦の人が一番多いですけど」
「なるほどな」
「あ、奥にどうぞ……。服田さんが待ってますから……」
「ああ」
小金井に促され、店の奥に進み家に上がる。本来リビングとして使用するはずの部屋には、無地の段ボールが乱雑に置かれていた。その脇を抜けて廊下へ移動し、階段で二階へ上がった。
階段を上がった先、小金井は左の部屋のドアをノックする。
返事よりも先にドアが開き、大柄な男が現れた。屈強そうな厳つい顔の男は、小金井と私を一瞥すると小さく頷いた。もしかしたら、私に対しての会釈だったかもしれない。男は半身を返し、ドアから離れた。
小金井に続き、私も部屋へ入った。
部屋は先日の事務所の風景とよく似ていた。中央には複数のデスクが突き合わされており、奥の窓際には服田のデスクがあった。
「霧咲さん」
椅子から立ち上がり、服田が笑顔を見せた。一応、敬意を払ってくれているようだ。
恩を売ることには成功したみたいだ。
私は片手を軽く上げる。
「無事で何よりだ」
「いや、ほんと。あんたのおかげだよ、霧咲さん」
「そうか」
私は鞄から例の物を取り出し、服田に手渡した。
「ネコババするかと思ってたけど」服田は冗談っぽく言うと、黒の巾着袋に手を伸ばした。中に入っているダイアモンドを取り出し、その数を確認する。「律儀な人だな」
「そりゃそうさ。でなければ、お前らを助けたりはしない。だろう?」
「たしかに」
私が首を傾げると、服田は頷きながら笑った。
服田の視線は次に札束へと留まった。百万ごとに束ねられたものが三十ある。その一つを手に取ると、親指の腹で弾くようにして一枚ずつ確認していった。ざっと見ただけだったが満足したのか、服田は三千万の中から三束、こちらに寄越した。
「とりあえず、今回の分」
「律儀だな」
私は先ほどの服田の言葉を返しながら、受け取った三百万を鞄へ詰め込んだ。
「利益のため、だろう?」服田は笑う。
「そうだな」私も笑った。
腕時計で時間を確認すると、午前十一時を回ったところだった。事務所にいる少年達は携帯を弄ったりしながら、こちらを気にする素振りを見せてはいたが、誰も電話を掛けてはいなかった。先日の事務所とは違い、この部屋には複数の電話線を引いていないみたいである。詐欺に関してはしばらくの間は控えるのだろう。
「ほとぼりが冷めるまではここで大人しくしているのか?」
「どうかな。まあ、幸い、携帯さえあればどこでもできるから、いつでも続けられるけど……」
「懲りてないな」
私が嘆息すると、服田はおかしそうに鼻を鳴らした。
「いずれ捕まる。なら、それまでは稼がなければ損だろう?」服田は大げさに両手を広げ、そして雄弁に語り始めた。「この世は鴨で溢れてるんだ。葱も背負ってる。それを眺めてるだけなんて馬鹿げてる。襲ってくれって、奴らが言ってるんだ。詐欺師として、見過ごすわけにはいかないだろう?」
「なるほど……。よくわかった」
いつだって手放すのは自分なのだ。
だけどそれに気づくのはずっと先。
それがわかっていれば、どんなに楽なことか。
「じゃあ、私は行く」
「接触は最低限、だったな」
「そうだ」私は頷く。
「わかった。これからもあんたとはよくやっていきたい。期待させてもらうよ」
「好きにすればいい」
私は片手を上げ、部屋を出ようとドアのある方へ向かう。ドアに手を掛けたところで、服田に呼び止められた。
「そういや霧咲さん、あんたはどんな詐欺を?」
私は振り返り、口の端を上げて答えた。
「いろいろだ。お前の言う通り、周りは間抜けな鴨で溢れているからな。食うには困らん」
私はもう一度片手を上げると、ドアを開け、部屋を出た。
階段を下り、玄関へ向かうと小金井が店番を務めていた。
「あ、どうも。も、もう帰るんですか?」
「ああ」
「そうですか……」
日に焼けていない白い肌。社交性に長けているとは言えない所作。社会に適合しているとは到底思えないが、だからと言ってこの少年がこの場にそぐわない存在であることは明らかだった。他の少年らとは異なる存在。
「あ、あの……」
私がじっと見つめていたのを不思議に思ったのか、小金井は自身の服の袖を掴みながら不安そうな顔を見せる。
「君はどうしてこんなところにいる?」
「え、え? あ、えっと、店を見てないといけないから……」しどろもどろになりながら小金井は答える。
「そうじゃない」私は短く息を吐き、周りを見渡した。「どうして詐欺をしている連中と一緒なのか、そう聞いているんだ」
私が尋ねた途端に小金井は顔を伏せてしまった。下唇を噛み、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「言いたくないなら、いい。悪かったな」
私が店を出ていこうとすると、背後でか細い声が聞こえた。
「……い、……から」
「?」
「ぼ……、僕には、何もないから……」
「何も、とは?」
「と、友達も、家族もいないし……、何も、何も……」
「だから人を騙すのか?」
「あ、あなただって……! 詐欺師じゃないですか」
私は思わず笑ってしまった。
「そうだな。そうだった」
「…………」
「好きにすればいい。ただ、心の隙間を埋めるには、この詐欺で得られる金では足りないぞ」
私は事務所をあとにし、来た道を引き返しながら公民館へと戻った。
少しだけ、風が出てきた。それに伴い、雲の流れも速くなってきている。先ほどよりもずっと肌寒くなってきた。ここ数日はずっとこんな調子だ。雨に降られるよりは幾分もましだが、これだけ流れが速いと天候も安定しないだろう。
「さて」
私は口の端を上げる。
流れの速い雲を見上げながら、短く息を吐く。
「そう、天候は変わりやすい」
いつまでも晴天が続くわけではない。そして大抵、見誤ると酷い目に遭うものだ。
私は携帯電話を取り出し、あるナンバーを入力、コールした。
「あ、もしもし」
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