何も無かった。

漆目人鳥

何も無かった。

某ビジネスホテルに働いていたAさんから聞いたお話。


ある時からちょくちょく泊まりに来るようになった男性がいた。

空港関係への交通の便がいいホテルだったのでそう言う人は珍しくなかったが、

その男性はとても印象深かった。


何が印象深かったかというと、Aさんは、その男性から何回かクレームを受けていたからだ。


最初のクレームは、真夜中に、


『自分の上の部屋の人間が飛び跳ねてうるさいので注意して欲しい』と言う物だった。


Aさんは『わかりました』と応えて、その男性の泊まる上の部屋へ注意の電話を入れるべく宿泊者の確認をしようとして、傍と気がついた。

その日、上の部屋には誰も泊まっていないのである。


万が一を考え、ルームキーを持ってその部屋に行き、中を確認したがやはり誰も泊まっていない。

暫く、その部屋の中で、なにか音が聞こえるか耳を澄ましてみたが、それらしい音はしない。

廊下に出てもそれらしい気配もない。


何かの間違いだろうとフロントへ帰ってきた時、タイミングよく苦情主から電話がかかってきた。

なにも異常が無かった旨を伝えようとするが、それより早く苦情主の男が口を開く。


『音が止まらないんだけど、ちゃんと注意してくれた?』


コレにはAさんちょっと絶句してしまった。

自分が現場を確認してきた時には何の音もしていなかったのに……。

どういう事だろう?

意味が解らない。

あまりの事にAさんは『あ、えーと、じゃ、今伺います』と応えて電話を切った。

音がしているとお客さんが主張される以上、とりあえず現場を確認するしか無い。

そう言う判断だった。


苦情主の部屋へ行き、ノックをして中に入る……。

と、案の定、部屋の中は何の音もしていなかった。


Aさんが『聞こえませんね?』と尋ねると、客の男は『今、止まったんだよ』と憤慨した態度で応えた。


『ちゃんと注意してくれた?』


と念を押すので、Aさんは仕方なく、今日は上の部屋には誰も泊まっていないし、自分が確認しに行ったが音がするような物は何も無かったと答えた。


『じゃ、あの音は何だったの?』


当然、そうあるべき、Aさんにとっては一番嫌な質問が男から返ってくる。

Aさんは、まさかお客さんを嘘つき呼ばわりするような言動をするわけにも行かず、


『解りかねます』とやんわり流してみた。


すると男は『否定はしないんだね』と言い、納得してしまったのだった。


男がなにかしらゴネ出すのではないかと思っていたAさんは、あまりにもあっさりした引き際に、ちょっとばかり拍子抜けしたらしいが、『否定はしないんだね』とはつまり、自分を嘘つき呼ばわりしなかったと言う事に感心したという意味なのだろうか?と、善意に捉え、なにより、大事にならずに済んでよかったとホッとしてフロントに戻った。


後になってよく考えると、このシチュエーションって怪談ぽくないか?

とも思ったりしたが、他の従業員に聞いても、もちろん自分も、今まで他のお客さんからそんな苦情を受けたことも、それ以降受けることも無かったので『何かの間違い』と言う事でもうそれ以上は考えないことにしていた。


暫くした別の日のこと、

例の男性がチェックインした際、妙なことを言ってきた。


『いつも同じ○階の部屋の鍵を渡されるので、たまには別の階の部屋にして欲しい』との要望だった。


その男に対して特に部屋を選んでいた訳ではなかったので、はて、そうだったかな?とは思いつつ、その日は部屋の空きが多かったこともあり、男性の要望する階の部屋の鍵を渡した。


男は自分の好きな階に泊まれると言う行為が気に入ったのか、その後2回ばかり、自分から宿泊する階数を指定してきたが、2回目の際に、或るイベントと重なってしまい、どうしても希望の階数には部屋がないと断ってからは、ホテルに気を遣ってくれたのか、またもとのように、ホテル側の指定した部屋に黙って泊まるようになった。


そんなこんなで、Aさんにとって男はすっかりなじみの客となっていた。

そんなある日。

事件は起きた。


件の男性が2泊の予定でホテルにチェックインした翌日の朝、外出の間際にAさんに言った。


『明日から使いたいので、不便だから外した鏡を付けて貰えませんか?』


『はぁ?』


Aさんは最初、男の言っている意味が分からなかった。

鏡を明日から使う?

鏡は浴室に付いてる。割れたりしていないか毎日チェックするので間違いない。

鏡を外した?

誰が?


『お泊まりになっている部屋に鏡が外してあるんですか?』


Aさんは、よく解らないままに男に尋ねた。


『違うよ、私は、何度もこのホテルを利用させてもらっているんだが、今までベッドの脇に付いていた鏡を使わせてもらっていたんだ、それが、昨日泊まって使おうとしたら無いんだ。不便なので戻して欲しいんだよ』


男はいかにもいらいらしたふうにAさんに捲し立てる。

どう考えても男の言っている事はおかしかった。


なぜなら、ホテルの部屋には最初から浴室以外には鏡が設置されていなかったからだ。


つまりベッドの脇にあった鏡など最初から存在していない。

きっと、どこかのホテルと勘違いしているんだと思い、Aさんは男にそう伝えた。

ところが、男は頑なにベッドの脇に鏡があったことを主張し、譲らない。

めんどくさいことになりそうだと思ったとき、男が『そうだ』と言ってセカンドバッグから携帯を引っ張り出し、なにやら操作し出す。


前に、部屋の中を写メしたことがあり、きっと、そこには鏡が写ってるハズだと言うのだ。

程なくして。

男は目的の画像を見つけ出したようで、何度も確認した様子の後、

Aさんに携帯の画面を突き出した。


『ほら!ここに鏡があるでしょう?』


ドヤ顔で、男に突きつけられた画像をよく見たAさんは、固まり、背筋に冷たい物が走った。

その画像には。



鏡など影も形も無かったのである。



言葉の無いAさんに、男は時間だからと言ってホテルを出て行った。

Aさんはあまりの事に恐怖したが、なんとか事を穏便に済まそうと100均で卓上の鏡を買って来て、男の部屋に自ら設置したのだった。




その後、男からは鏡のことで苦情も、勿論、お礼もなかったという。


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何も無かった。 漆目人鳥 @naname

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