番外編 ロスト・パートナー 後編

 東京の人混みから離れた、裏路地でひっそりと経営されているバー。ノスタルジックな雰囲気を滲ませる、その憩いの場に招かれた楓は――ぎこちない様子で辺りを見渡している。


「あはは、こういうお店は初めて……って感じだね」

「ご、ごめんなさい。あ、あの、私まだ未成年で、こういうお店はまだ……」

「え、そうなんだ? アタシに負けないくらいのモン持ってるから、てっきり同い年くらいかと思ってたよ。まぁ、いいか……マスター、この子にはオレンジジュースね!」


 その隣に腰掛けるヘルガ・アイブリンガーは、カウンターで注文を待っていたバーテンダーに声を掛ける。

 黒のチューブトップにホットパンツという挑発的な格好の端々では、肉感的な太腿や胸元がその存在感を放っている。桜色の唇や切れ目の碧眼、煌びやかな金髪。全てが男を誘い、惑わすためにあるかのようだった。


 そんな彼女が何者かを察しつつも、壮年のバーテンダーは何も言わずグラスにジュースを注ぎ始める。


「ここまではマスコミも尾けてこないから、落ち着くし気に入ってんだよねー。来日してからしょっちゅう来てるんだ」

「そ、そうなんですか……あの、橋野先生に御用件があったんですよね……?」

「ん……まぁ、そんなとこかな。用件なんて大層なモンじゃないけど。……しっかし、こんな美少女ほったらかして別の病院に出向中なんて、あいつも甲斐性ナシなんだから」

「び、美少女なんかじゃありません! そ、それに今の神嶋市には、橋野先生の力を必要とされている方々が大勢いらっしゃるんです。どうか、そう仰らないでください」

「ふぅん……」


 架のことを言及され、懸命に彼をフォローしようと珍しくまくし立てる楓。そんな彼女の様子を、ヘルガは暫しじっと見つめ――口元を緩めた。


「ま、惚れんのも分かるけどさ。大変だよ、あいつと付き合うのは」

「付き……!? ヘ、ヘルガさんは橋野先生と、どういう……!?」

「元カノ、ってとこかな。あいつは多分、もうアタシのことなんて気にしちゃいないだろうけど」

「も……!」


 やがて飛び出た爆弾発言に、楓は目を剥いたまま固まってしまう。赤らむ彼女の頬を見遣り、ヘルガはワインが注がれたグラスを手に取ると……少しずつ、語り始めた。


「……初めてあいつに会ったのは、7年前。10歳の頃に親に捨てられてから、ニューヨークのスラムで育ってきたアタシは、オンボロの車を乗り回して非合法のレースで生計を立ててた。まぁ、ギャング崩れみたいなもんだよ」

「……」

「で、ある日レース中にヘマしちまってさ。派手に事故って死に掛けてたアタシを、現場に居合わせたあいつが応急処置してくれてよ。おかげで命拾いしたんだ。アタシが15歳で……カケルが13歳だった頃かな」

「そ、そんなことが……」

「聞けば、あいつも10歳で親を亡くしたらしいんだ。……ま、傷の舐め合いってやつだろうな。そっから、アタシ達の関係は始まった。アタシはあいつから読み書きを教わって、アタシはあいつに車の転がし方を教えた。アタシには医学のことなんてチンプンカンプンだったけど……バカなりに、何かあいつの力になりたかったんだよな」

「ヘルガさん……」


 架との出会い。似通った経緯ゆえに、共有された痛み。その痛みを分かち合い、互いの傷を舐め合う内に、育まれた愛。

 幸せな思い出を語るように、そんな過去を語るヘルガの横顔を――楓は、切なげに見つめる。その眼は、自分の知らない架を語る彼女への、羨望に満ちていた。


「それで、付き合ってから5年が過ぎて……あいつはとうとう、医師免許を獲得した。誇らしかったよ、周りに自慢しまくりだった。あそこで表彰されてるのが、アタシのボーイフレンドだよ……ってさ」

「……」

「でも……どんどん実績を上げて、どんどん有名になっていくあいつを見ていく内に……アタシは、怖くなった」

「……!」


 すると、ヘルガの表情に影が差し込まれる。その変化に、楓は目を見張った。

 ――自信を持てず、視線を彷徨わせているその様は。まるで、今の自分のようだったのだ。


「その頃のアタシは、レーサーにスカウトされたばかりで……上には上がいるってことを、思い知らされてる最中だった。今でこそ女流レーサーNo. 1だなんて言われてるけど、その頃はてんで弱っちかったんだよ」

「……」

「でも、あいつは違った。あいつは、本物の天才だった。研修医の頃から色んな手術に携わって、どんな難しい処置も一切ミスなくこなし続けてさ……。実感させられたんだ。あいつとは、住む世界が違い過ぎるって。だから怖くなって……あいつのプロポーズも断って、逃げ出した。ホントは、泣いちまうくらい嬉しかったのに」


 楓は食い入るように、ヘルガの話に耳を傾ける。かつて架と愛し合う仲であったにも拘わらず、求婚を断らねばならなかった心境は、如何許りか。


「それからは新聞もテレビも見れなかった。どこかで、あいつの顔を見ちまうのが、怖かった。だから、ひたすらレースに打ち込んだ。いや……レースに逃げたんだ。そうしていくうちに、気がついたらNo. 1とかいう……身の丈に合わない称号をぶら下げてたんだよ」

「身の丈に合わないなんて、そんな……」

「合わないさ。あいつは、苦しむ人々を救いたいっていう真っ直ぐな想いで、医者になった。でもアタシは……あいつから逃げる口実が欲しくて、マシンを利用して逃げ回っていただけ。根っこが、違い過ぎる」

「ヘルガさん……」

「……そうやって、身の丈にそぐわない名誉を引っ提げるハメになって。周りからも、勝手なイメージを押し付けられてさ。アタシを理解して支えてくれる奴なんて、ただの1人もいやしない」


 その時。ワインを注がれたグラスが揺れ、ヘルガの切なげな貌を映す。楓の前で、彼女は――微かに、その碧眼を潤ませていた。


「……それで、やっと分かったんだ。あいつは、アタシにプロポーズしてくれた時……何も、アタシに求めちゃいなかった。ただ、そばに居てくれればいい。本当に、ただ、それだけだったんだよ」

「……!」

「なのにアタシは、カケルの世間体だのキャリアだの、釣り合いだの……そんな外側ばかりの理由に囚われて。本当の自分を知って、支えてくれるパートナーが欲しいっていう、あいつの願いに……背を向けた。バカだよ、ホント。5年も付き合ってたのに、あいつのこと、何にも分かってあげられなかったんだって……」

「ヘルガさん……」

「あいつは、確かに天才だよ。誰も敵わない、正真正銘の天才だ。……でも、たったそれだけ。独りぼっちでも平気でいられる、無敵の超人なんかじゃない。あいつみたいに、『天才』って言われる側に立たされて……やっと、それがわかったんだ。……今更だけどな」


 やがて彼女は苦々しく笑いながら、楓に向き直り――力無く、微笑む。


「アタシは、スラム育ちだから……人の良し悪しは、眼を見ればだいたいわかる。だから一目見て、あんたなら信じられるって思って、話したんだ。……もしさ、あいつと一緒になりたいって想うなら……どうか、あいつを独りにしないでやってくれ。たぶん顔には出してないんだろうけど、あいつの方がずっと、何倍も、辛いはずだから」

「……はい。約束します。先生が帰ってきたら……もう絶対、あの人を離しません。私も、あの人の支えになりたいから……!」


 そんな彼女を前にして、楓は意を決するように――ヘルガの白い手に、己の掌を添える。

 釣り合いを気にする余り、自信を持てなかったが故に起きた破局。それを他人に語るなど、並大抵の勇気では出来ない。

 同じ悩みを抱えるがゆえに、その重みを肌で感じていた楓は……ヘルガの誠意にだけは、何としても報いねばならないと決意を改めたのである。


 ◇


 ――約半年前。相次ぐニュータント犯罪による被害者が、後を絶たない中。

 新人ナースだった楓は、毎日のように現場で繰り広げられる修羅場を目の当たりにして……日々、心身を磨耗させていた。


 医師の数は圧倒的に足りず、そればかりかヴィランを恐れ、地元へ去ってしまう者すらいた。院内は患者達の悲嘆と怨嗟に満ち溢れ、スタッフの疲弊も重なりつつある。

 もうこれ以上、兄のように誰かを死なせたくない。そんな想いを抱いてナースを志した彼女にとっては、過酷過ぎる現実だった。

 精神的に擦り切れ、消耗し、死にゆく患者達を看取るしかない。そんな日々が続くうち――いつしか楓は、かつての想いすら忘れ、機械的に仕事を続けるようになった。


 ――そうして、人としての感情すら希薄になりかけた時。死に慣れようと、諦めようとしていた彼女の前に。


 橋野架が、現れたのである。


 父の要請に応じ、アメリカから来日した彼は――その天才的な技術を以て、数多の患者を救ってみせた。

 そして、それほどの腕を持ちながら驕りを見せることもなく。誰よりもひたむきに、患者のために奔走しながら――ナース達に呼びかけたのである。共に戦おう、と。


 その瞬間。楓はようやく、失いかけた感情と夢、そして笑顔を取り戻すことが出来た。

 以来、胸の内に秘め続けてきた彼への愛は、今も絶えず楓の心を満たしている。


 ◇


 ――父が行方不明となった時も。彼は傷付きながら、約束通りに父を救ってくれた。自分の大切な想いも、家族も守り抜いてくれた彼の為に、出来ることがあるなら。

 なんとしても、それに応えたい。この想いを、届けたい。


 楓はその一心で、無意識のうちにヘルガの手を握り締めていた。

 その手から伝わる温もりに、彼女の真摯な愛と決意を感じ取り――ヘルガは、頬を緩める。


 ――この子なら、きっと大丈夫。


 そう、確信するように。


「そっか……ありがと。病院から出てきたあんたを見掛けたのは偶然だけど、こうして話せてよかった。……あ、カケルにはアタシが来てたこと、黙っといてくれる? あいつ優しいから、絶対気にしちゃうだろうし」

「確かに気にする人だとは思いますけど……いいんですか? せっかくここまで……」

「どのみち日本で休みが取れるのは、今日で最後だからね。カケルに会えなくても別に平気……っていうと、嘘になりそうだけど。あんたに会えたんだから、結果オーライよ」

「そ、そんな、私なんて全然……」

「……あ、でもカケルと付き合うようになった時は、夜に気をつけなよ? あいつ大人しい顔してるけど、ベッドの上じゃ絶倫のケダモノなんだから」

「ふぁっ!? け、けだもの……!?」

「特にあんたなんて、アタシと同じくらいの胸があるんだから、まさに格好の餌食よねぇ。あいつ、アタシが『もう許して』って何度啼いても絶対止まらないんだから。危うく、一生服従しますって誓っちゃうところだったわ」

「えっ、えぇっ……!」

「しかも上手いなんてもんじゃないし。一度主導権を奪われたら、もうされるがまま。だからまずは向こうがスイッチ入る前に、こう、胸で――」

「あ、あぅ、ぅう……」


 ――が。自分の知らない架の話(主に夜)を延々聞かされ、耳まで真っ赤になった楓は……下腹部を襲う艶かしい熱に翻弄され、決意どころではなくなってしまうのだった。


 ◇


「へくちょ!」


 ――その頃、神嶋市の駅前にある「EAGLE CAFE」で。


 諸々の「ツケ」を完済した間阿瀬浩司と共に、コーヒーを嗜んでいた橋野架は。

 不意に襲いかかって来た衝動から、なんとも気の抜けるくしゃみを放っていた。


「なんだ風邪か? 貴様にしては珍しい」

「そ、そうかなぁ。初夏だから油断してたかも」

「全く、医師が夏風邪など笑い話にもならんぞ。貴様の代わりなどそうはおらんのだ、自己管理は徹底しておけ」

「あはは、確かにね。……うん、オレも彼女みたいに健康でいなきゃな」


 架は気を取り直すように、手元にあった雑誌をおもむろに広げる。見開きのページが、駒門飛鳥のグラビア写真で埋め尽くされていた。

 傷ひとつない純白の柔肌が、熱い恋を知ったオンナの色香に彩られ、男を狂わせるフェロモンを放つ。写真越しにその余波を味わった何百人もの男達が、今週号のこの雑誌を求めて市内各地のコンビニを彷徨っているのだという。


「駒門飛鳥の写真か。……なるほど。この手の仕事ができる程度には、術後経過も順調のようだな」

「うん。……ほら見てこの写真、すごく血色が良いよ。事件の記憶が曖昧なおかげで、PTSDの影響も小さいみたいだし。これなら、もう1ヶ月もしないうちに万全に戻れるんじゃないかな」

「……グラビア雑誌で血色を気にする読者など、日本全国を探しても貴様ぐらいだろうな。普段からそんな調子だから、あれほど美女に囲まれていても浮いた話が一つも出てこないのか」

「浮いた話? うーん、そうだなぁ……」


 呆れ返り、ため息をつく浩司。そんな彼の言葉を反芻し、暫し逡巡した後――架は遥か遠くを見つめるように、神嶋市の夜景を視界に映す。


「……いつか、ちゃんと吹っ切れたら……そのうち、ね」


 かつて愛し合った女性との、思い出の日々。色褪せることのない、その記憶と向き合うかのように。


 ◇


「でもまぁ、もし誰かと結婚するなら……子供はたくさん欲しいなぁ。ほら、オレってひとりっ子だったからさ。賑やかな家庭にしたいんだ」

「……貴様と結婚する女は地獄を見るな……」



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