番外編 ロスト・パートナー 前編

 薄汚れたレザージャケットを羽織る少女は、降りしきる豪雨の中――白衣を纏う青年の背を見つめる。

 だが、決して声は掛けない。これを望んだのは、他ならぬ少女自身なのだから。


 ――否。望んだわけではない。


 そうするより他ない、というだけのこと。望んだ、などというのは都合のよい後付けの理由だ。

 理性によって「何を今更」と押し止められ、喉元まで出かかった言葉を封じられた彼女は――「側にいたい」という本能にそそのかされるまま、油に汚れた手を伸ばす。


 しかし、最後に勝ったのは「その手で、彼の白衣を汚すのか」と諭した彼女の理性だった。

 やがて力無く手を下ろした彼女は――青年の姿が、完全に消え去ったことを確かめた後。


 やりきれぬ想いの丈を、慟哭として空に放つ。暗雲と豪雨に掻き消されながらも、その嘆きの叫びは止まらず――彼女の喉が潰れる瞬間まで、声が止まることはなかった。


 謝罪、嘆願、謝罪、嘆願。


 彼の側にいたいという願いと、その道を絶ったことへの罪悪感。

 彼女の胸中を支配し、声として暴発していたそれはもはや、言語の体を成していないほどに乱れていた。


 ――そんな悪夢を彼女は、最近になって頻繁に見る。あの夜から2年を経たというのに。

 もう彼も、自分のことなど忘れているだろうに。


「……何してんだろ、アタシ」


 かつて少女だった彼女は、一糸纏わぬ裸身のまま、シーツに包まり朝日を眺める。あれから2年が過ぎた今、彼女は見目麗しい大人の女性となっていた。


 だが、その姿を見せたかった青年は、もういない。そして彼との関係は、自分が断ち切ってしまった。

 それが如何に愚かな選択だったのか――今ならわかる。だが、それを悟り引き返すには、あまりにも遅過ぎた。


 ゆえに彼女は今、孤独と云う業を背負い、今日を生きる。そして――その肌に隙間なく密着した、レーシングスーツを纏うのだ。


 ――人気絶頂の女流F1レーサー「ヘルガ・アイブリンガー」として。


 ◇


「あ、見てよアレ。またニュースやってる」

「ここのとこ毎日だよね。……No. 1女流F1レーサー……か」


 ――昼休みの食事中。コンビニで買ったお握りを手にしたまま、藤野凪沙はぼんやりとテレビを眺めている。隣で手作り弁当を広げている藍若楓も、画面に映された美女をじっと見つめていた。


 艶やかな金髪をショートボブに切り揃えた、宝石の如き碧眼を持つ美女。その色白の柔肌を、肢体に密着したレーシングスーツで覆い隠した彼女の名は――ヘルガ・アイブリンガー。


 ゲルマン系アメリカ人の女流F1レーサーとして、その名を世界に轟かせる絶世の美女である。世界ランキング一位の圧倒的な技量、度胸、そしてプロポーションを誇る彼女の人気は、本国のみならずこの日本にも浸透しつつある。

 現在は東京で開かれるレースに出場すべく来日しており、テレビでは毎日のように彼女の特集が組まれていた。


(……凄い綺麗な人だなぁ。美人さんだしレースも強くて、人気もあって……)


 遠い世界の住人を、テレビ越しに見つめる中。楓は1人、思案する。

 ――橋野架も本来は、あちら側・・・・なのだと。対して自分は「院長の娘」でしかなく、自身は半人前のナースでしかないのだと。


(……凪沙は、お似合いだー……なんて言ってるけど。釣り合いっこ、ないよ。先生と……私なんかじゃあ)


 隣でお握りを頬張る親友を一瞥し、楓は切なげに視線を落とす。

 現在、架は神嶋記念病院へと出向している。今の東京より神嶋市の方が、彼を必要とする患者が多い……という理由だ。


 ――そうして、距離を置くことになる度に、実感するのだ。彼と自分の間には、凄まじい世界の隔たりがあるのだと。

 彼は自分が近づくには、あまりにも遠過ぎる人なのだと。


(やっぱり……橋野先生にはこの人みたいな、もっと地位や名誉のある人の方がいいに決まってる。私なんかが……その気になったって、迷惑なだけ。そうだよ、そんなの分かり切ってることじゃない)


 考えれば考えるほど、思考が後ろ向きになっていく。こうして暗くなってしまうたびに、いつも架の優しげな笑顔に励まされて来た彼女だが……今、彼はここにはいない。


 それを痛感した瞬間、気づけば彼女は弁当を完食しないうちに、箱を包んで席を立っていた。突拍子のない行動に、隣の親友は目を丸くする。


「楓? どしたの、暗い顔して」

「ううん、なんでもない。私、先行くね」


 だが、それに構う余力もなかった。楓は力無く微笑みを浮かべてそう言い残すと、そそくさと仕事に戻ってしまった。

 1人になった凪沙は、そんな親友の背中を見送り――深くため息をつく。


「……ったく。橋野先生のこと考え出したらいつもこれなんだから。先生が帰ってくるまで、まだ1週間あるし……しょーがないねぇ、今度パフェでも奢ってやるかぁ」


 気弱で大人しく、いつまでも自信を持てずにいる親友。そんな彼女を放っておけない凪沙は1人、苦笑を浮かべていた。

 ――お前も仕事に戻れよ、という同僚達の視線に気づくことなく。


 ◇


 この日の勤務を終えた楓は、凪沙と別れ帰路についていた。既に夜の帳は下り、東京の街は夜景の輝きに満たされている。

 そこから僅かに離れた住宅街にある自宅を目指し、彼女は1人街道を歩いていた。


 仕事帰りのサラリーマンが行き交うこの時間帯は、夜でも常に騒がしい。都会の喧騒にもまれながら、彼女は家に帰るべく足を早める。


(……っ?)


 その時だった。誰かに見られているような気配を、彼女が悟ったのは。


 ――振り返れば、金髪を靡かせる1人の美女が、人だかりに紛れてこちらをじっと見つめていた。サングラスにより全貌が伺えず、見るからに怪しい。

 気のせいか否か確かめるため、行き先を何度も変えてみるが……彼女は、明らかに楓と同じルートを通ろうとして来る。間違いなく、後をつけている動きだ。


(な、なに……? なんなの……?)


 楓に、外国人女性の知り合いはいない。身に覚えのない用件で、自分に近づいていることは間違いなかった。

 こんな東京の往来で、何か事を起こそうなどとは考えないのが普通だが……尾行しているという時点で、すでに普通ではない。

 言い知れぬ不安に身をすくませた彼女は、徐々に足を早めて撒こうとする。だが、サングラスの女性はそれに応じたペースで追跡を続けていた。


(ど、どうしよう、どうしたら……!)


 ふと、知人である浅倉茉莉奈の顔が浮かぶ。警察に駆け込むのが1番であるが……すでに楓は、最寄りの交番から遠ざかるようなルートに入っていた。さらにサングラスの女性は、徐々に距離を詰めて来ている。


 その状況に焦りを覚えた彼女は、人混みを掻き分け路地に逃げ込んで行った。振り返れば――誰もいない。


「……ふぅっ」


 一体、あの人は何だったのだろう。明日、茉莉奈に相談しなくては。

 そんな先のことを考えながら、胸を撫で下ろした彼女が正面に向き直る――その瞬間。


「よっ」

「ひきゃあぁああ!?」


 目と鼻の先に現れたサングラスの女性と対面し、楓は絶叫と共に尻餅をつく。一方、女性の方も彼女の悲鳴に意表を突かれたらしく、若干たじろいでいた。


「な、なんだよ、そんなにびっくりすることないだろ」

「あ、あぁ、あなたは一体、誰なんですか!? な、なんで私に……!」

「悪い悪い、ちょっとあんたに用があってさ。……あんた、城北大学付属病院で働いてる人だろ?」

「え……?」


 サングラスの女性に手を引かれ、身を起こした楓は、彼女の口から出て来た言葉に目を見開く。自分個人ではなく、病院の関係者に用があった……ということなのだろうか。


「聞きたいことがあるんだ。……カケルは、元気?」

「……っ!?」


 その疑問に答えるように、彼女がその名を口にした瞬間。

 楓は口を両手で抑え、目をしばたたく。


 驚いたのは、架のことに言及してきたことだけではない。彼女がサングラスを外した瞬間――昼休みにテレビで見た女性が、その素顔を露わにしたことも。


「ヘ、ヘルガ……アイブリンガー……さん!?」

「アタシを知ってんの? あはは、光栄だねぇ」


 楓に、凄まじい衝撃を与えていたのだ。

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