第56話「再現」

 しかし楓花の叫びは、周囲のどよめきにかき消された。

 絶え間ない人波の、僅かな隙をつくように人一人が吹っ飛んできたのだ。

 人々の驚き、悲鳴に被さるように、物が崩れ倒れる派手な音。幾重にも掛けられた色とりどりの布やら幌子かんばんやらを巻き込んで、小柄な男が露店に突っ込んだ。

 余りの勢いに足が竦む楓花の脇を、珪成と志均が抜けていく。

「大丈夫ですか!」

「飛び込んだお店がよかったですね。――お店にはお気の毒ですが……」

 志均の言葉を裏づけるように、痛みに顔をしかめながら呻く男には意識があり、その傍らで立ち尽くす老板は蒼白な顔をしていた。足元には女性の目を引くはずの美しい布が、砂にまみれてわだかまっている。

「おうおう、他所さまのお店にまで迷惑かけてんじゃねえぞ」

「ちゃんと言うこと聞いてれば、話は早かったのになあ」

 ガッシャンと陶器の割れる音。

 ざあっと人波が引いた空間の向こう、おそらく倒れている男の店なのだろう、いかにも「無頼漢ごろつき」という風体の三人組が、陶器の並んだ露店前に立ち、下卑た笑いを浮かべている。いずれも顔が真っ赤で、まだ日も高いうちから相当に杯を重ねているのが見て取れた。

 「――!」憤懣やるかたないとばかり勢いよく立ち上がった珪成のまえに、「まあ待て」とゆるゆる立ちはだかったのは琉樹である。

 そのまま広々と開いた空間を悠々と渡って大路の真ん中に立つと、

「やれやれ、こんないい天気の日に真っ昼間からどんちゃんかよ――図体ばっかりに栄養が行き過ぎて、頭にまで回らなかったのか。――騒ぎを起こして飲み代掠めとろうだなんてなんて、子供かよ。って、これは子供に失礼か」

「何だとてめえ! かまわん、やっちまえ!」

 その野太い声に、往来の人垣がざざっと下がる。それに押されるようにして、楓花も後ろに下がると、いつしか隣に志均が並んでいた。

 「痛みますか?」背後では珪成が上半身を起こした男の背をさすっている。「ああ、大丈夫。すまないねえ」言いながら男は、左頬に濡れた布をあてていた。店を潰された布屋の老板に差し出されたものだ。

「大丈夫ですか?」

「私は何もあたったりしてない――」

 志均の問いかけに答えかけ――今、目の前のことについて訊かれているのではないことに楓花は気づいた。

 幾重もの人の輪の向こうに目を投げる。輪の中心に立つ姿は三つ。一人はすでに地に伏しているようだった。足元を気にしながら立ち尽くす男たちの顔面が、朱から蒼に変じていることからもそれが見て取れる。

「てめえ!」

 勢いよく突っ込んできた一人を、琉樹は身を引いてかわす。

 たたらを踏んで態勢が崩れた男の首筋に、何かが振り下ろされ――とたんに男は崩れ落ちた。

「いいぞ兄ちゃん!」

「もっとやれ!」

 大勢が決したと思われた途端、人々から歓声が上がる。同時に「引っ込め!」「そいつもやっちまえ!」残る一人に容赦ない罵声が浴びせられ、男の顔はみるみる白くなる。男は慌てて伸びた仲間を片手につかみ、反対の手に足の立たない仲間を抱え込んで、人の輪を抜けようとする。両手がふさがっているのをいいことに、人々は「ざまあみろ!」「弁償しろ!」などと声を上げながら石を投げたり叩いたりする。

 男はたまらんとばかりに、懐から銭袋を取り出してその場に投げつけた。

 人々は遠ざかる背に野次を飛ばし、琉樹を褒めそやし、やがてぱらぱらと散っていった。

「すごかったな、あの人」

「本当、びっくりしたわ。ちょっと叩いただけにしか見えなかったのに」

「あれって笛だったよな? すげえよな、俺も買おうかな――よし行くか」

 そう言って目の前から去っていった若い男女—―楓花は知らずに笑ってた。

 ――おんなじだ。

「図体ばかりに栄養が、ですか。老師と同じことを言いましたね、あなた」

 戻ってきた琉樹に、志均がそう声をかける。「は?」怪訝な顔をする琉樹に、

「三年前、楽南にたどり着いたあの日—―南市で、無頼漢を叩きのめした老師と、あなたは同じことをしましたねって言ったんですよ」


                    ◆


「大変な使い手ですね、あの僧」

「本当に。ちょっと叩いただけにしか見えなかったのに」

「じゃあ、行きましょうか。――琉樹?」

 四人の無頼漢を叩きのめした僧形に目を奪われていた琉樹は、その声に振り返る。そうして志均の目を捉えたまま、訊いた。「小妹を、頼めるんだよな?」

「勿論ですよ。これからは三人で――どうしたんです?」

 すると琉樹が大股で歩き出した。そして件の僧侶の前で立ち止まる。

 突然、彼の足元に膝を付き、地に頭を擦り付けると、

「お願いです、俺を弟子にして下さい!」

「大兄?」

「琉樹!」

 志均と楓花は顔を見合わせて驚き、慌てて琉樹に駆け寄る。しかし琉樹は頭を上げないまま、

「俺は――」


                     ◆


 

「本当、そうですね。さすがはお弟子さん」

「おい、あの賊禿は師匠じゃないと言ってるだろうが!」

「言ってたじゃん、『弟子にしてください』って、あの日、自分から。土下座までして」


『俺は、自分の力で生きたいんだ』


 いつも一緒だった存在が、そう言って突然自分から去った―—隣を見ても、いつもいる人がいない。「小妹」と呼ぶ声も聞こえない。その状況が受け入れられなかった。どうしてと考えても何の答えも浮かばなかった。


 ――自分が邪魔だったんだという答え以外には。


 だから、諦めるしかないと思った。

 もう二度と思い出したくないと思った。

 だから南市にも足を踏み入れられなかった。

 だけど――少しずつ南市にも入れるようになり、「小妹」とも変わらず呼んでもらい――そして今、こうやって「あの日」のことを、笑って語っている。


 こんな日が来るなんて――思ってもみなかった。

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