巻の二「依頼」

第16話「兄妹」

 

「大兄起きて、起きてってば!」

「ちょっと待て小妹、すぐ起きるから――」

「何寝ぼけたこと言ってるんですか、もうお昼過ぎてるんですよ!」

 声とともに、かけぶとんを勢いよく剥がした。床台ベッドの隣に立つ珪成けいせいが。

 「あー」と意味ない声を上げながら、開かない瞼を何度も擦ってもぞもぞと身を起こす琉樹りゅうじゅ。対してテキパキと衾を畳んで琉樹の足元に置き、床台の枕元に置かれた高卓の水瓶を取り上げながら、

「いい加減起きてください! 昨夜ご一緒された医生は往診に行かれてるんですよ。家の主人より遅く起きるとは何事ですか!」

 水を満たした椀を琉樹に差し出し、叱責口調である。琉樹は目を瞬かせながらそれを一呑みすると、

「ちょっと風に当たってくるわ」

 かすれ声でそう言って、床台から降りた。

 開かれた扉から渡廊に出ると、目の前に中院なかにわに降りられる数段の階段があるのだ。

「じゃあ僕、お茶の支度しますね。楓花ふうかさんは師兄をお願いします。あの人、目を離したら院子で寝ちゃいそうですから」

 琉樹が寝乱した床台を整えながら、珪成が言う。相変わらずの手際の良さに感心しつつ、どっちが年上なのかしらと苦笑しつつ「分かったわ」楓花は素直に頷いて客用の寝室を出た。足早に。

 小走りに階段を降りて、そのまま院子の磚道を行く。道沿いには臘梅の黄白色が強く香り、こちらでは菜の花の黄が晴天に輝き、あちらでは桃花が薄桃の可愛らしい蕾を膨らませ始めていたが、楓花はそれらに気を取られることなくただただ先を急いだ。

 絡み飛ぶ蝶と共に、行き着いたのは池水。澄んだ水面に、桟橋の朱が鮮やかに映り、揺れていた。琉樹はその欄干に身を寄せていて、風が水面を撫でつけていくのを眺めながら、大きく息をついていた。風が運ぶのは時に甘やかな花の香、時に涼やかな水の香。吸い込むたびに、身も心も爽やかになっていく。

「大兄」

 楓花は声をあげ、ゆっくり桟橋を進んだ。声に振り返った琉樹がこちらに向き直る。目元に深い皺を刻みながら、一言。

「――これは杜夫人」

「……。夫人じゃないし」

「ああ、まだ婚約者か。別にいいだろ、どうせもうすぐそう呼ばれるんだから」

「……」

 確かに――その通りなんだけど。

「――なかなかサマになってきたな」

「えっ、本当に?」

 思わず声が上ずる。

「ああ。赤児の時から、親代わりにお前を背負って来た俺としては、実に感慨深い。今日の衣装もよく似合ってる」

 嬉しさのあまり大きな声をあげそうになって、楓花は慌てて口元を押さえた。よかった、今日の衣装選び失敗しなくって。荘の姐さまにご意見をお伺いしておいて本当によかった。

 本日の衣装は杜邸の院子を意識して、桃色の長裙スカートに、薄黄の紗衣を羽織り、桃花が散りばめられた被帛を掛けたもの。色の白さが映えるように明るいハッキリした色遣いをするようにという教えを忠実に守った。季節感も忘れずにという言葉も。

 嬉しさを噛みしめたが、けどふと――昔はこんなこと言わなかったのに。こういうことをさらっと口にできるのは慣れているからで、それはやっぱり……。

「笑ってたかと思ったら、今度は難しい顔か。本当に志均しきんの言う通りだな。見ていて面白いって。入れ込まれたものだ」

「……おかげさまで」

「余裕の返しだな。ごちそうさま」

「そういう大兄はどうなの? いい人できた?」

「うるせえよ」

 軽い調子ながらもピシャリと言われ、楓花は思わず固まってしまった。ただの軽口、なにより自分から仕掛けたのに――なんでこんなに、胸が痛んでしまうのか。

 この、自分の重苦しさが伝わってしまったのだろう。琉樹も口を噤んでしまう。

 子供のころから兄妹みたいにずっと側にいて、誰よりも言いたいことを言い合ってきたはずなのに、いつからだろう――こんな重い沈黙が落ちるようになってしまったのは。


 こんなふうに、試すようなことを言ってしまう自分になったのは。


 「あーあ」琉樹が頭をガシガシ搔きながら、大きくため息をついた。

「志均のヤツ、何か盛ったろ。たいして飲んだとは思えねえのに、店からここに来るまでの記憶が全然ない。この俺が、ありえねえ」

 恐らく何かで眠らせたあと車に乗せ、衛士に金を握らせたか、急患だと偽ったかで文諜(通行許可証)を手に入れて、禁夜の楽南を悠々と歩いて帰ったに違いない。あの方なら、やりかねない。

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