愛しい鯉【ベトナム】

 これは、Nさんの故郷であるベトナム南部の村で起きたことだ。村での暮らしや風習などはベトナム全土に共通するものではないということをまずご留意いただきたい。



 現在40代のNさんがまだ子供だったというから、おそらく30年以上前。村の家すべてではなく、比較的裕福な家庭にしかトイレがなかった。そのためトイレは隣近所何軒かで共有していた。Nさん一家も近所の大きな家のトイレを使わせてもらっていた。

 ある夜、Nさんは母親と一緒にトイレを借りに行った。お金持ちとはいってもトイレは1つしかなく、先客がいれば待たなければならない。その日もすでに近所の人が何人か待っていた。家の人はとても親切だったようで、玄関先に近所の人が待つためのベンチとテーブルを置いてくれていた。Nさんも順番が来るまで10分ほどベンチに座って待っていた。


 その家のトイレは庭の隅にあった。トイレの前には大きな池があって、大きな鯉がたくさんいた。人が近づくと餌をもらおうと足元に群がって来るのだが、幼いNさんはそれが怖くていつも早足で通り過ぎていた。ところがその日は足が止まった。

 池のそばに見たことのないおばさんがいたからだ。おばさんは髪を大きくお団子にして頭の上でまとめていて、白いネグリジェのような服を着ていた。もしかしたらトイレの順番を待っているのかもしれない。そう思ったNさんは「トイレですか?」と声をかけた。


 おばさんは何も言わない。Nさんの方を見もしない。じっと立っている。どうやら待っているわけではないらしい。それならば、とNさんはトイレに入り用を足した。


 トイレから出ると、おばさんはまだそこに立っていた。最初に見た時は両腕をだらんと下ろしていたが今は右手を上げてどこかを指さしている。指さす方向には……Nさんの母親と近所の人がいた。二人は世間話に花を咲かせていてこちらには気が付いていないようだ。


 戻ったNさんが池のところにお団子頭のおばさんがいたと言うと、二人は顔を見合わせて、「この家のおばあちゃんがそんな髪型だったけど」


 ――ずいぶん前に亡くなったのよね、と教えてくれた。鯉はおじいさんがおばあさんのためにと買ってきたもので、それはそれは大事に育てていたそうだ。そんなおばあさんは鯉の世話をしている時に足をすべらせ、溺れて亡くなったという。


 その後入れ違いで近所の人がトイレに行ったが池には誰もいなかったとのことだ。そういえばいつもお腹を空かせている鯉たちがおばさんの足元には一匹もいなかったな、とNさんは思い出した。


 それから月日は流れ、今から4、5年前。帰郷したNさんは幼馴染の男性が亡くなったと聞いた。彼が亡くなった場所は、かつてトイレを借りていたあの家の池。一家は今もお金持ちだが、さすがに現在は各家庭にトイレがある。彼は一体、他人の敷地で何をしていたのだろうか。


 Nさんの両親や近所の人たちの話によると、彼は鯉を盗んでいた”かもしれない”のだという。

 例の池には常に十数匹の鯉がいたのだが、ある時ごっそりいなくなってしまった。きっと盗まれてどこかに売り飛ばされてしまったに違いない、と犯人捜しも鯉捜しも諦めた家の人はすぐに新しい鯉を買ってきた。次の日の朝、Nさんの幼馴染が池で溺死しているのが見つかった。証拠はないが、彼が犯人だったのだろうと皆が確信した。


 と、これは単なる鯉盗難疑惑事件なのだが、Nさんはあっと思った。あの時、あのトイレを借りた夜、母親と話していたのは幼馴染のおばあさんだった。池にいたお団子頭の女性が指さしていたのはもしかして、おばあさんではないのか。

「お前の孫はいずれ泥棒になるぞ」と予言していたのではないか、というのが彼女の見解だ。


 以上が、「私のふるさと独自の文化風習であってベトナム全体の話ではないという前置きをしてくれるなら、どこに書いてもどこで話しても構わない」と言ってNさんが話してくれた体験談である。

 この話を聞き終えた段階で、私は「トイレが共有だったことを気にしているのだろう」と思った。あくまでもNさんの村ではそうだったというだけの話で、他の地域ではきちんと各家庭にあり、皆が皆前時代的な生活をしていたわけではないと言いたかったのだろう。


 Nさんはその後もいくつか興味深い話を教えてくれた。内容は割愛するが、どれも死に方にまつわる話だった。例えば、自死をした人の家族は同じ最期を迎えるとか、誰かを殺めた人の家族は殺された人と同じ亡くなり方をするとか。話を最後まで聞いた私は、彼女が暗に強調していたのは本当はこの部分だったのだなと理解した。

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